宣長と「あはれ」の変容
〜閉じた言語論と開かれた物語〜
『源氏物語』の「あはれ」
本居宣長が列挙して見せたように、『源氏物語』で「あはれ」の語が出てくるときは大抵、「ただ自然と思う心の情」「心につつんで忍びえぬ思い」「女童のごとき弱くみれんな心」(『紫文要領』巻上、岩波文庫)という直裁的な意味に受け取ることができる。少なくとも光源氏生前の巻までは(第40帖「幻」)。しかし、筋の中心が京都を離れた途端(第45帖「橋姫」から第54帖「夢浮橋」までの通称「宇治十帖」と呼ばれる部分)、「あはれ」の響きにアイロニーやダブルミーニング、時には辛辣な社会批判といった複雑な低音が加わるようになる。それが最高潮に達するのは、終章を前にした「手習」帖であろう。小野の山荘に蟄居する老尼たちの間でひっそりと進行するこの帖に、我々は「あはれ」のアイロニカルな用法のヴァリエーションが次々と重なり、シンフォニーを奏でるのを聴くことができる。一方、次の最終帖「夢浮橋」になると、「あはれ」はすっかり姿を消している。たった一度、本当ならそれを言ってはならない僧が、心の中でつぶやき、それを打ち消す一瞬に使われるのみである。あたかも、紫式部が「あはれ」についてはもう言い尽くした、と言っているかのように。
宇治十帖終盤の「あはれ」の変容に気がついたのは、『源氏』の精読を重ねて10度目くらいのことだったかもしれない。もう5、6年前のことになる。その件について気がついたことをまとめようと思いながら、時間が経った。その時はたいした問題とは思っていなかった。しかし最近になって、グローバル社会でその価値を変えつつある「国語」について考える上で、もしかしたらそこにはとても大事な示唆があったのではないか、と思うようになった。
直接のきっかけは、本居宣長の『石上私淑言(いそのかみささめごと)』(1763年、宣長33歳)と『排蘆小船(あしわけおぶね)』(1752年、宣長22歳)という歌論を読んだことである。これは両方とも和歌というものが生まれる経緯についての独創的な説明であり、宣長がそこで「もののあはれを知ること」を歌の起源として見つけた、ということはよく知られている。特に『石上私淑言』では、歌の生成と人語の生成、ひいては同質な社会の生成を、単に類似しているだけではなく地続きのもの、言ってしまえばまったく同じプロセスとみなす言語論が展開されている。『石上私淑言』は未刊のまま筺底にしまい込まれたのだが、その「もののあはれを知ること」についての説明は、同年刊行された『紫文要領』(それまで5年続いた『源氏物語』講義の集大成)に受け継がれた。
ともあれ、この歌論を読めば、宣長にとっての「もののあはれ」は文学的修辞の一つではなく、言語そのものに関わる問題だったということが分かる。例えば『紫文要領』の
という断言は、物語に挿入されたしかじかの和歌を目しているのでも、和歌を組み込んだ語りの形式を評しているのでもない。物語は歌と同じ源泉から来ること、それゆえに言語の生成の秘密に関わることが言われているのである。
では歌はどのように生まれるのか。『石上私淑言』にはそのプロセスが詳述されている。
「阿波礼(あはれ)」が「心に結ぼほれたる思ひ」が漏れ出た嘆息であれば、それはすなわち人語の発生の起源だ、と宣長は考える。この発生は昔のことではない、「もののあはれを知る」人であれば日々経験するものである。「あはれ」の情が刷新されるたび、歌はその人の中に「自然(おのづ)と」立ちのぼる。そのような歌こそが、最も純粋な日本語の「本(もと)」であり「末」なのだ。外部から「理(ことわり)」を説く声や、道徳的判断を下す「さかしらごと」を導入しさえしなければ、永劫に純粋なまま再生され続ける言語、それが歌を本とした言語である。言い換えれば、宣長にとって「あるべき」国語とはいつも歌として生まれる言語であり、また反対に、歌はいつも最も純粋な国語、つまり古語として生まれ続ける。すべからく人間の感情生活と知的生活は歌に始まり、歌に終わる。
形式的に言えば、このような説明は「トートロジー(同義反復)」と呼ばれる。トートロジーが宣長の「皇国」言説の特徴であることは周知であるが(子安宣邦『本居宣長』、岩波新書、1992年、p. 62)、それ以上に、彼が『古事記伝』で打ち立てた古語論の構造的特徴でもある。その点に関しては後に述べるが、ここでは、このトートロジカルな、あるいは円環的な理論を通して、宣長の信条がいかに堅固であったかを確認するにとどめよう。
歌は言語、言語は歌、よって歌の起源こそ物語のことばの起源、という信条において、宣長は『源氏物語』を、和歌の世界と同じように、同質的で透明な「あはれ」の情によって貫かれ、統一されたものと考えた。
しかし、本当にそうだっただろうか。
宣長の「一枚岩」的言語観
『源氏物語』の精緻な心理学が現代日本語から失われた経緯を探している身としては、宣長が明治維新よりも一世紀以上前に考案した「国語」の理想が、「もののあはれを知ること」という概念を中心として形成されていたことに深い興味を覚えずにはいられない。そうでなくても、近代的な制度としての国語に悩まされている我々にとって、宣長は常に読み直すべき典拠である。他方、この国学の祖が理想とした、原初の歌から自然に形作られたとされる「国語」が、本質的に外に向かって閉じたものであったことも事実である。宣長もこう言っているように。
確かに、国学の国語観は、その体系化の初めから、フランス17世紀の一般文法とはまったく正反対の方向を向いていた。両者ともできる限り「自然」に近い、できるだけ借用物や夾雑物がない、かつ社会や時代の変化によって影響を受けない言語として認識されていたのだが、一方が究極の「自」の意識に閉じこもったとすれば、他方は理性という媒介を設けることで、確かに世界に開かれた言語体系となった。
宣長に関して言えば、歌論の時期から30年後に完成されることになる『古事記伝』の言語観は、おそらく宣長の古語の理想の姿であると思われるが、それはこれ以上ないほど自己完結的なものである。ちなみに『古事記伝』は1760年代に着手され、1798年に全44巻をもって終了した『古事記』の音読解と注釈の仕事である。
宣長は言う。
ここにあるのは、記号と意味と物象世界がぴったりと呼応した、言うならば「一枚岩的」な意味生成とコミュニケーションの世界である。『石上私淑言』と『紫文要領』から30年の時を経て、国語のイメージはついにこのような完璧な自足的体系として彼の目に現れたのである。
宣長が辿った行程を推し量るため、もう一度『石上私淑言』の引用に立ち戻ってみよう。
「あはれ」を意、「歌」を言と見れば、『古事記伝』の「意・事・言が相称する言語」という一枚岩の言語モデルは、この「あはれ」と「歌」の関係にもほとんど当てはまる。一方、この段階において宣長の言語観はまだ十分に堅固ではなかった。「事」、つまり外界という要素が不確定なまま残っていた。
『古事記』のような聖典ならば、集団的無意識によって全面的に受け入れられ、神の意志によって永遠に持続すると仮定しても許されよう。しかし、歌は独唱でない限り、外部の認知を必要とする。宣長の時代には、現代のように短歌や俳句をまず独唱と考える習慣はまだなかった。小林秀雄が指摘したように、王朝の和歌は本質的に唱和であり、また中世においても江戸時代でも歌は連歌形式が普通であったのだから。宣長もこの点については、早くから自覚的であった。『石上私淑言』には次のような怜悧な見解が示されている。
「事」の次元が欠けること(周囲から認められないこと)は、確かに歌にとって重大な欠陥である。しかし、物語にとってそれは致命的だ。物語は歌よりも深く世俗の事情に関与し、その生存は全面的にパブリックの支持によるからである。
『石上私淑言』三の巻には、言語の外部に依存した部分をどのように「意・事・言」の閉ざされた意味世界に取り込むか、という問題への解決が示されている。宣長は、ここで「もののあはれを知ること」を規範として使う。「あはれを知る」心は、すでに外部の「事」も「言」として理解しているのだと。
「うれしかるべきことはうれしく、おかしかるべきことはおかしく、かなしかるべきことはかなしく、こひしかるべきことはこひしく......」と説明することで、宣長はある精神的共同体の情緒生活を描きだす。この情緒は規範的だ。規範的情緒とは、具体的にどのように機能するのだろう。「正しい心の動き」を制定して、それ以外の動きを「心から出るものにあらず」と自ら切り捨てる、といったふうに働くのに違いない。これは「からごころ」と「やまとごころ」の峻別と対立の間にある排他主義と同じものだ、と宣長研究者ならば考えるだろう。しかし、「あはれを知る・知らぬ」の区別は一種の自己検閲だ。それだけにいっそう取り返しのつかぬもののように思われる。
この節以降、『石上私淑言』三の巻はやや「暴走」する。
情緒的共同体を想像したためであろうか、宣長は、歌がいかに「自然に」生まれ、いかに自動的に人語と成り変わってゆくかをリリカルな口調を長々と叙述し始める。徐々に、彼の言葉の間には、「もののあはれを知ること」は「人間」の条件である、といったメッセージが滲み出してくる。
これはすでに歌論ではない。
蛇足ではあるが、宣長22歳の時の試論『排蘆小船』が、「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむるためにもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし」(『排蘆小船』、op. cit., p. 11)という一節で始まっていたことを思い出そう。多分、宣長も最初はそう信じていたのだろう。しかし、「もののあはれを知ること」をその身に感じようとするあまり、ついつい正反対の方向に走ってしまった。理解できないことではない。「情」を強調するレトリックがイデオロギー言説と親和性が高いことは、よく知られている。
「手習」帖の「あはれ」——意味の多義化と不協和音
どこかで——小林秀雄の『本居宣長』であったように思うが——宣長が『紫文要領』の原稿を擱筆した宝暦13年、その『源氏物語』講義はちょうど「竹河」帖が終わったところだった、ということを読んだ覚えがある。出典は見つからないのだが、情報は確かである。
宝暦13年という年は、宣長にとっては『紫文要領』や『石上私淑言』の仕事を終了した年というだけではなく、何よりも松坂の旅館で賀茂真淵との念願の邂逅を果たした年だった。彼はその時真淵に「『古事記』の研究がしたい」と語ったと言われる。そうした情報をもとに自由な想像を許してもらえば(宣長の初心者であり門外漢であればこそ、かえって自由にできる想像もあろう)、一旦20代から続けてきた研究に形を与え、新しい、より難しい研究対象にとりかかろうと足踏みしていた宣長は、その後長く『源氏』精読を「竹河」までで止めておいたのではないだろうか。「竹河」と言えば、宇治十帖直前の帖である。
もちろん、『紫文要領』を書いた段階で彼は何度も全編を読み通していたのだし、『紫文』の中にも宇治十帖に言及したところは少なくない。しかしながら、普通に読者として読む読み方と発見の喜びが伴う精読は別のものである。後者は、研究に着手して最初の業績をあげるまでの時期の特権である。『紫文要領』から30年後にそれを書き直した『玉の小櫛』まで、宣長の『源氏』理解が劇的に変わった様子がないのは、宣長の『源氏』理解は宝暦13年までにほとんど完成していたからではないか。そうでなければ、宇治十帖の語りのそれまでの帖と比べたときの異質さに気がついたはずだ。その異質さは、「あはれ」という語の用法に直接現れているのだから。
まず、宇治十帖とはどんな話かを要約しておこう。
京都では光源氏が死んで20年が経っている。宮廷の中心にいるのは、源氏の末子「薫(かおる)」と今上帝の第三親王「匂(におう)兵部卿」である。しかし、この二人の貴公子は宮中の生活を嫌っている。彼らは大臣の目を盗んで小幡の山を越え、宇治の山里に遊んで、そこに隠れ住む姫君たちとの恋に熱中している。これが前半である。後半、二人はすでに正妻を得て宮廷での立場も固めているが、宇治との縁は切れない。それは、薫が東国出身の卑しい出自の女(後世から「浮舟」と呼ばれるヒロイン)を宇治に囲い、匂がそれを奪ったときから、新たな悲劇に向かって急展開する(第50帖「東屋」、第51帖「浮舟」)。悩んだ女は宇治川に身を投げる。しかし、死ぬことはできず、川岸に流れ着いたところを比叡山の僧都の一行に発見される(第53帖「手習」)。僧都は身分の分からない若い女を、自分の妹が尼として住んでいる琵琶湖のほとりの小野の尼僧院に住まわせる。女はそこで、僧都の手によって出家を果たす。一方、薫は宇治の愛人が死んでいなかったことを知り、隠れている場所を探し出す。薫からの使いが小野の尼僧院を訪れるが、女は黙って追い返す。最終帖「夢浮橋」は、彼女が世俗の関係をすべて拒否するところで終わっている。
浮舟は「あはれの封印」という宿命を負わされたヒロインである。宣長は言う。「物のあはれしるを心ある人といひ、しらぬを心なき人といふ」(『石上私淑言』上巻、op. cit., p. 189)。西行法師は詠う。
平安期の仏道の厳しさは現代では想像できない。仏教はすべての情愛を禁止した。出家する(「世を背く」)ことは、「あはれ」の感情を心から根こそぎ追い出すことだった。だからこそ、小野の尼僧院で新しい生活を始めた浮舟は、年老いた尼僧たちが節操なく「あはれ」を口にすることに呆れ、嫌悪するのである。彼女の嫌悪感から、物語の言表下で「あはれ」の意味の複雑な分岐が始まる。
秋、小野の尼僧院に、僧都の妹尼の亡くなった娘の夫「中将」が訪れる。中将は老いた尼僧しかいない家に見知らぬ長い黒髪(若い世俗の女)を透き見して、すぐに色めいた歌を寄越す。女が答えようとしないので、妹尼はこう諭す。
女は顔を背けて答える。
訳せば、
くらいであろうか。
とは言え、浮舟の「あはれ」の感覚からの離脱はすでに入水の前に始まっている。紫式部は彼女に経を読んだり、祈ったりさせるが、人物造型からしても、難解な経典に感化される教養を備えている女ではないことは明らかである。周囲の女たちが共有している「あはれを知ること」という感覚からの離脱は、彼女においては「自然と」起こるのである。言い換えれば、物語の力学がそれを要請するのである。
それは入水に先立つ数日前のことだ。こっそり死ぬことを決意した彼女は、匂宮からもらった文を火にくべ始める(この動作は象徴的だ)。事情を知らない若い侍女がやめさせようとする。
この侍女の言葉に、我々は「あはれ」語の意味の最も世俗的な広がりを聞く。侍女にとっては、「あはれ」の感情はむしろ紙の「めでたさ」や、書いた人の身分の「かたじけなさ」に通じるものである。もちろん、それが「あはれ」のすべてではない。それが証拠に、侍女の言葉に距離を感じつつも、まだ愛する気持ち(現世への執着)を失ってはいない浮舟は、心の底で別の「あはれ」を噛み締めている。彼女の目は、年を取って頭も確かではなくなった乳母が無駄な世話を焼き続けている様子に向かう。「われ亡くば、いづくにかあらむ」(私がいなくなったらどこに行くのだろう)と考えると「いと、あはれなり」(Ibid., p. 160.)。
『源氏物語』のエピローグを飾るヒロインが、死を賭してまで果たそうとする「あはれの封印」の行程は、段階を追って進む。最初にあるのは、このような調和しない二重の声が同時に話すという状況である(一種の不協和音の状態である)。一方にきわめて世俗的な「あはれ」、紋切り型としての「あはれ」、あるいは誰もが共有すべき価値としての「あはれ」を何らかのコミュニケーションの目的で繰り返す声があるならば、他方には、実際に情愛として感じられている「あはれ」がある。宇治十帖の特徴は、後者がきわめて個人的で、かつ共有できない感情として提示されていることで、その証拠にそう感じる人が黙っていることである。「手習」帖において、ヒロインはどちらの「あはれ」も斥ける。勢い、この自然な情としての「あはれ」は記憶の領域に限定されるようにもなる。少なくとも、物語の言表においては。
尼僧たちが出払ったある夕暮れ、浮舟は一人、物思いにふけっている。寺の梵鐘が鳴り、彼女は死の前日を思い出す。あの時、自分は母を思って悲しかったと考える(「夕暮れの音もあはれなるに、思ひ出づること多くて」)。自然に歌が出てくる。
まさにその時、かの「中将」がやってくる。尼僧たちが留守と聞いて、その間に住む謎の若い女に掻き立てられた興味がおさえられなくなったのである。女は逃げようとするが、傍についている妹尼の命を受けたやや若い留守の尼が(尼僧院の老尼たちは、今や全員で保護する若い女を中将に見合わせようとしている)、彼女を抑える。
と言いながら。中将はもちろん、この紋切り型の「あはれ」のテーマを引き取り、
そして口説きの歌に発展させる。
「おのづから心も通ひぬべきを」、これが当時のレトリック、すなわち、情緒的規範であり、社会道徳であり、歌を生み出す「あはれ」の同質性を社会の同質性と同じ事をみなすことで、排除と同化を正当化する方法である。紫式部は、この紋切り型の社会規範としての機能を、物語を動かすレバーとして利用するのである。
女は一人ごちる。
この歌を取り次ぎの尼から聞いた中将は、「いとあはれ」と感じ、「わりなきまで」女への思いが募る。モリエールの喜劇などでよく使われる「キプロコ(quiproquo)」(誤解によるとんちんかんな言動)のビートが、この尼僧院の月光の場面を次に運ぶ。女は話を打ち切って、「奥」へ逃げる。「奥」には、尼僧院の中でも最も年老いた尼たちが住んでいる。おそらく、認知機能が完全に後退している老女たちである。この「奥」はある意味、紫式部が見た人性の最奥の場所の象徴でもあるのだろう。そこでは情念の実態が赤裸々に露呈される。暴力的なことや残酷なことはなにもない。ただ、「あはれ」からすべての美しい紋切り型のイメージを剥ぎ取ったときの、人間の姿である。浅ましく、みじめな、動物のような姿。まさに、老い果てた老女が、かつて人間だったときの名残すらとどめずに、しかし生命力だけは枯渇することなく、いぎたない眠りの中でいびきの合奏をし、朝食の粥を貪る姿である。
紫式部は、月光の場面から一転して、若い女の目に老醜を見せつけ、混乱のどん底においやる。この「地獄図」は大変コミカルなものとして描かれているが、「あはれ」という語と響きに課された多大な文化的・精神的価値、そしてどんな場合でも同調を強いるほどの社会的強制力を見てきた人なら、そこにより深い意味を読み取ることができるだろう。紫式部は、ただコミカルな効果を出すだけの目的で「あはれ」の底をここまで暴露したのではないと思う。
さて、浮舟は夜を徹した恐怖の中で、もともとその意識下で進んでいた「あはれの封印」というプロセスを意識の上で手に入れる。
「あはれの封印」という「手習」帖、否、宇治十帖を通して水面下で進行しているサブテキストの観点からすれば、浮舟が老尼のそばで過ごす夜は、一挙に「あはれ」が多義化し、分岐して、複雑な音を奏で出す場面であり、物語最大のクライマックスだと言えよう。
もう一つのクライマックスは、名実ともの調子外れの合奏の場面である。これもまた、「秋の満月の夜」というセッティングで、尼僧院に中将を迎えた尼たちと老尼、そしてたった一人、誰にも言えない違和感に悩む若い女のキャストで構成される。その夜寄った中将は、失った妻(妹尼の娘)への追憶をことさらに強調し、返事をしない尼僧院の拾い物の若い女にあてつけて、こう言う。
かつての娘婿を失いたくないあまり、手に入れた若い女と一緒にさせたく思う妹尼は、彼女からの返事と偽って、中将に歌をやる。
中将は喜んで笛を取り出し、一節吹き出すのだが、それを聞きつけた老尼が奥からやってくる。老尼たちの咳の音が一斉に尼僧院の廂の間と庭を満たす。
小野の尼僧院の尼たちは、皆もともと宮仕えをしたことのある身分の女たちばかりであり、先にも述べたように、時折「今めきつつ、腰折歌、好ましげに、わかやぐ気色」(Ibid., p. 261.)を隠せない。「そのきむの琴、弾き給へ」と興奮して指示し始めた老尼のことばをきっかけに、中将は妹尼に弦を取り出してくれるよう頼む。僧都の妹尼は、かつては名手の名も取った七弦琴を中将の笛と合奏する誘惑に逆らえない。笛と琴の音はしばらく、「珍しく、あはれに」響き合う。しかし、老尼たちの「しはぶきは絶えず」、中将と妹尼は合奏を中断せざるを得ない。老尼は、誰もが自分の琵琶を感心して聞いているせいだ(「これをのみめでたる」)と思い込み、
と、時代遅れの拍子を取りながら、たった一人で弾き続ける。中将はおかしく思う。さらには、本人自身がまわりとずれていることに気がつかない老女は、合奏に加わろうとしない奥に引きこもった若い女について、大声で「埋もれてなん、物し給へる(若いのに世の中から遅れた可哀想な娘さん)」と評すのである。
このクライマックスは、心理的葛藤という意味ではマイルドであるが、「あはれ」という語の意味の深い分岐という水面下の流れから見ると、重要である。尼僧院における合奏という状況自体が荒唐無稽であるとするなら、老尼たちのかつての宮廷生活の模倣は、外部の耳にとってはただ、咳と騒がしいかけ声と、調子外れの拍子に過ぎない。「あはれ」の語は、その俗世のサロンにおいて使われる意味を強調すればするほど、意味をなさない雑音の状態に陥る。そして、感動する心や人を思う心の「あはれ」は、ここでもそれぞれの人の孤独な沈黙の中に、そして記憶の中に消えて行くのである。
物語の要請と開かれたサブテキスト
宣長は、宇治十帖終盤において「あはれ」の語が文脈に従って意味を変え、時には宮廷社会の揶揄すらも含む傾向を見せることについて、彼自身の言語論に鑑みて、どのような説明を与えただろうか。『紫文要領』には、そうした説明の完璧な雛型が見つかる。
宣長の理論に従えば、すべからく意味ある言葉の響きはその意味生成の機序自体を「あはれ」という、いわば精神的生命の火種に負っている(火の比喩は単なる方便ではない)。文脈に関わる変化は本質的な問題ではない。たとえ「あはれ」の語が一般的にその語で示される社会通念の戯画となろうとも、それは「あはれ」自体の非ではない。反対に、そうした批判が批判として理解される限り、原初の「あはれ」は批判を超えた共同体の紐帯として響くだろう。「意・事・言」相称の言語観の統一を示す新たな保証として。宣長がこのように説明したであろうことは、疑いを容れない。
しかし、宣長の説明では、なぜ作中人物すら気がついていない心の動きを、「もののあはれ」という当時のクリシェ中のクリシェを用いて、コントラストを駆使して表現する必要があったのか 、という理由は分からないままである。なぜ『源氏物語』のこの場所において、式部は「あはれ」の語に二重三重の意味をもたせる必要があったのか、宣長は『源氏』を本質的に和歌と断定するが、そうした操作は本質的に物語作家のものである。なぜなら、物語とはどんなに短い、どれほど単純なプロットのものであっても、その中に二重の構造を敷き込んでいるものだからだ。文章や画像で面に出ている部分(テキスト)が一つの話を語るとすれば、書かれていない部分、聞えない部分(サブテキスト)はテキストの鏡像、反響、あるいは逆説といった別の話を語る。物語は人生のメタファーであり、ストーリーテリングは人間精神のアクションの要約である。我々は一度も教わる必要もないまま、子供の頃から二重の意味の中に生きている。我々は、言われたこと以上に言われなかったことを「聞く」。それを拒否するのは狂気のみである。式部は、道長の土御門殿サロンで培ったあらゆる物語の技法を動員し、自分の芸術の生死を賭けて、「あはれ」の複合性が顕現し、それぞれの「あはれ」が互いに互いの意味を打ち消し合い、最後には沈黙しか残らない、というクライマックスを何度も作り出したのである。
なぜだろうか。式部は何を表現しようとしたのか。
もう一つ、物語と相容れない宣長の一枚岩的言語論の特徴を述べよう。そこには時間軸というものへの考慮が一切ない(当然である、古語は唯一不変の言語とするのが宣長の基本的立場なのだから)。しかるに、物語とは、歌と逆に、本質的に時間の芸術である。それゆえ、前段の「手習」における「あはれ」の変質・多義化の例は、宣長が言うように「事と物とによりて、其の趣きかはる」(時と場合によって含意が変わる)といった種類の変化とはまったく別の原因から起こる変化なのだ。それは、端的に「衰廃」の現象なのである。だからこそ、社会における「あはれ」と個人のうちに秘めた「あはれ」のコントラストが必要となるのだ。
紫式部と同時代・同階層の読者たちは、心の奥で知っていた。『源氏物語』が終焉の物語であることを。歴史家は法華経の「末法思想」の影響を語る。しかし、同思想が、民衆一人一人の心の中に結晶していた人生のはかなさへの確信を制度化したものでなかったとは誰が言えようか。「あはれ」の語が和歌の特徴となったのは、紀貫之を発端とする、と宣長は言う。しかし、『源氏物語』においてそれがひときわスケールと陰影を増し、生きるという人間誰しもに関わる悲劇を象徴する観念となったということの意味を、宣長の言語論は説明しない。
この意味は、なぜ『源氏物語』が第41帖「雲隠」帖で終わらなかったのか、という問題の意味でもある。なぜ、紫式部は、光源氏がいなくなった後の世界を語らなければならなかったのか。「匂宮」、「紅梅」、「竹河」と続く帖には、語る喜び、書く喜びは見いだされない。いかに作者が苦労して、最適なプロットとセッティングを見つけ出そうと努力したかという跡ばかりが残っている。「橋姫」の冒頭「そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり」を見つけた時、彼女はようやく腑に落ちたようだ。そこから澱みなく、繰り返しなく、細部における一切の矛盾もなく展開する宇治十帖は、光源氏の物語に対するボーナストラックではない。それがなければ、「桐壺」に始まる皇族3代の盛衰の物語は終わる事ができなかったようなものだ。こうした作家のニーズを現代の例で探すとすれば、70年代に商業映画の世界である程度の成功を博した「映画を撮っているところの映画」というジャンルがあったが、そこに何か近いものがあるように思う。紫式部がはっきりと意図していたかどうかも分からない。そもそも作家個人の心理的バランスを図る方法であったとも思わない。その中のすべてのエピソードが、光源氏華やかなりし時代の宮廷のエピソードのネガであり、ミニチュアであり、戯画であるような宇治十帖は、物語という形式の要請であったのではないかと思う。
宇治十帖がそれまでの王朝絵巻のパロディーであり挽歌であるという位置づけは、さほど無理なく成り立つと思う。京都の王朝社会は「あはれ」の源泉にさかのぼる力を失い、制度の無為な再生産と自己の模倣に陥っているように式部の目には映っていただろう。「あはれ」がもはや本体のない影にすぎないことへの切実な意識は、しかしながら、物語のネガの上にまったく新しい時代の新しい階層の人々の、誰もそれまで語らなかった物語を作り出して行く。最後のヒロインが、11世紀の王朝が漠然とした軽蔑と恐怖と渇望を感じていた「東国」から来た人間である、ということは雄弁だ。
摂関政治が隆盛と同時に退廃の明らかなしるしを見せていた時、式部は男性社会が作り出した「あはれ」という概念に代表される価値体系、そしてその価値体系が正統化する排除と同化の原則が、見る見る相対化することを感じただろう。いかなる精神的価値であれ、その共有が自明のものではなくなった時代の情緒的言説は、どこに基盤を置くべきか。物語の「あはれ」はどこにあるか。シニカルな性情の中にも、深い共感を備えた女性であった紫式部は、そう考えたのではないか。パトロン道長の時代が終わった時代の物語を紡ぎ出す理由として。そして、刻々と変容する価値の間を渡って生きなければならない人間の宿命、彼女はそこに世界につながる道を見たのではないか。『源氏物語』54帖の最終帖は「夢浮橋」と名付けられている。我々はこのことをもっとよく考えるべきだ。
さて、そのような時代、共感の心理学(これがあなたなら、私なら、どう感じるか、という弁論)がどれほどの妥当性を持つだろう。現代、我々はそのような心理学が国境はおろか世代の壁さえも越えないことを知っている。宣長の「もののあはれを知ること」論が、それ自体閉鎖した言語観を構成しているのみならず、それが国境を越えなかった理由はこうした心理学にもあるように思う。一方、物語は国境を超え、時代を、階級を超えるのだ。
最後に、現実と物語に共通する二重構造の原則(テキストとサブテキスト)、これは言語学的にはどのような価値を持ちうるのだろうか。グローバルの圧力のもと、認知言語学が沈黙と想像力という「意識のサブテキスト」という領域を問題視し始めたのは、実は古いことではない。西洋言語学もまた、宣長と同じ「意・事・言相称」の世界に長く留まっていたのだから。この答えの核となるのは、「沈黙」の世界性だろう。「もののあはれを知る」のは日本人だけの特性かもしれない。しかし、沈黙を聞くのは人間である。
(2020年12月某シンクタンク研究雑誌に発表ー2次使用については権利者から許可取得済)
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