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人にだめとか言うなタコ/小説「人間失格(太宰治)」

あらすじ

この主人公は自分だ、と思う人とそうでない人に、日本人は二分される。
「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。

新潮社HP


自分にとっての「人間失格」

初めてこの小説を読んだのは小学生の頃、主人公の葉蔵はなんて愚かなのだろうと思った。他人にも自分にも嘘をついて、どんどんだめになっていって、最後は薬物に手を出して、ボロボロになる。これは「人間失格」だよね、だめな人だねと。

好きな人に勧められて、大人になった今もう一度読んでみたら、葉蔵への解像度が少し上がった。
葉蔵は弱さゆえに他者に対してどこまでも不誠実だ。面倒だから、自分に自信がないから、否定されたくないから、相手の求めることをするという種類の不誠実さ。他者の欲求で自分の欲求を殺すことは、他者を尊重するということから一番遠いと感じる。勝手に加害者にされるほど不愉快なことがあるだろうか。こんなの優しさではない、いい子なんかじゃない、ということは誰よりも本人が一番わかっているのが苦しい。その不誠実さは他人だけではなくて自分にも向けられ、体も蝕んでいく。

でも、それって「人間失格」なのか。弱いことは「人間」に値しないのか。それで人間失格なら「人間」のことを高く評価しすぎではないか。今ならそう思う。
小学生の私は、自分や自分の大事な人たちはみな賢く強い人間だという前提を持っていて、それ以外は目に入っていなかった。なんて傲慢で愚かなんだろう。今はわかる、私も周りの大事な人たちの多くも、それぞれに強く、それぞれ特定の側面ではとても弱い。そもそも、世界は自分の周りだけで完結しない。多くの時間をかけて、強さは素敵なことだけれど、弱いことは罪ではないという価値観に変化した。


世間にとっての「人間失格」

変わっていくのは自分の価値観だけではない。
この小説について家族と話している時に、父が「人間失格」の定義やその言葉の持つ力の強さは時代とともに移り変わっているのではと言っていた。父は、世間によって「人間失格」に当てはめられる人は今よりも昔の方がずっと多く、そしてそれは「そこでおしまい」の烙印であったと感じるそうだ。学生時代に読んだ時には、なんてひどい、怖い言葉だと感じたが、今はそうは思えないと。

父の感じていることを事実だとすると、その背景には、多様性が尊重されつつある流れや他者との距離感の変化があるのかもしれない。
私はひとまず自分の父のような人が、「人間失格」という烙印をあまり恐れなくなったことが嬉しい。人間は法の範疇で好きなようにしていいのだという私の思想の一部は彼が育てたものだから。



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