こうあってほしい、という願望が現実を曇らせる~自分が見たい世界を見たい~
今日も1日お疲れ様です(^^♪
それでは、今回のnoteいってみたいと思います。
今回のテーマは『こうあってほしい、という願望が現実を曇らせる』という内容です。
こうあってほしい、という願望が現実を曇らせる
この1文は、
『シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラビカント』という本から引用したもので、この本はエリック・ジョーゲンソン氏によって書かれたものです。
ナヴァル・ラビカント氏が何者か・・・今回は掘り下げません。
よろしければ、ご購入いただき、読んでいただけたらと思います(^^)
この本を読み進めるうちに、
この1文に出会い、激しく共感しました。
目の前に繰り広げられる『現実』と思っている情景は、感情というスパイスによって脚色され、その中の感情の割合がより大きくなることで、もはや『現実』自体がゆがめられてしまう。
確かにな・・・と。
自分自身が恐ろしく客観視の持ち主であれば話は別ですが、人間誰しも喜怒哀楽の感情が出来事とセットに存在していると個人的には思っています。
その割合に個人差があるだけで。
自分が見たい世界を見たい
日常生活で目の当たりにする、あらゆるシチュエーションには、
予測というのが存在すると思うんですね。
例えば、
あるものを運ぶときに、その重さを予測することで、発揮する力や体力を無意識のうちに計算して実際の行動が起こされます。
また、誰かにプレゼントするときに、どれを贈ると喜ばれるのか、思いを巡らせると思うんです。
そしてその予測の中に、結果に対する自分自身の願望だったり、希望というものが内包されていると思うんですね。
そして結果が予測したものではないと、無意識のレベルで大なり小なりネガティブな感情が生じたりすると思うんです。
ここで予測と表現した部分は、本文中の先入観と置き換えてもいいかもしれません。いずれにしても、物事に対する思い込みや先入観、自分自身の経験に基づく予測に頼りすぎると、自分が見たい世界を見たいがために、「現実」がゆがめられてしまうということがあるんじゃないかと思っています。
でも、それ自体は別にイイとかそうでないとかではなくて、そう言うことってあるよね~という感覚と同時に、自分の先入観と、「現実」という2つの見方を使い分けることができると、感情に振り回されない見方ができるんじゃないかと思っています。
今回は『こうあってほしい、という願望が現実を曇らせる~自分が見たい世界を見たい~』について書かせていただきました。
この本については、かなり多くの着想が得られると感じていて、深く共感した部分についてはまたnoteでお届けしたいと思っています(^^)
また、あしたね~(^^)/~~~