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ハンナ・アレント『人間の条件』の言及されっぷりを眺めてみた #2

読みびとのまさきです。

「ハンナ・アレント『人間の条件』の言及されっぷりを眺めてみた」の続きをお届けします。

なお、こちらのテーマ、前編・後編の全2回を予定していましたが、後編を予定していた今回の投稿が、書きたいことの2/3ぐらいで、6000字を超えてしまいましたので笑、全3回にして本投稿を#2としたいと思います!
(#1のリンクはこちら

ハンナ・アレント 牧野雅彦訳『人間の条件』(講談社学術文庫)

今回は、現代日本の思想界を引っ張る東浩紀さんの著作に触れていきたいと思います。

東さんもアレントの『人間の条件』を多くの著作で言及し、その思想の重要性を示しながら、時に批判的に、時に訂正しながら読解し、自身の主張展開に援用しています。

それでは、私が読んだ東さんの著作の中から、『人間の条件』への言及があった3冊を取り上げたいと思います。


◆東浩紀の言及① 『一般意志2.0』

まずは、『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社・2011年)です。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社)

『一般意志2.0』は、ルソーの重要概念「一般意志」をサイバースペースが発達した現代社会に拡張した、とても独創的な本です。その中で、「政治」や「公共性」の考え方について、自身の主張を、アレントやユルゲン・ハーバーマスの考え方と対比させています。

「一般意志2.0」は平たく言うと、インターネットに集積された人間の意志(意識・無意識含む)をそのまま政治に活用せよ、という考え方です。

それに対して、アレントは、「活動」の記載において、「人間は生身の固有の自分で政治に参加することに意味がある」と説きます。アレントの考え方によると、「一般意志2.0」は政治ではないと考えられてしまいます。

しかし、ここで東さんは重要な指摘を入れます。

しかし、あらゆる議論にはつねに落としどころがある──とまでは言わないにしても、少なくとも、ある特定の議論に参加しているかぎりにおいて、そのメンバーのあいだでは「落としどころを探るべきだ」ぐらいの理念は共有しているはずで(つまり議論の場そのものは共有できるはずで)、そこで手がかりになってコミュニケーションが成立するはずだ、というのが彼(ハーバーマス)の哲学の前提なのである。政治や公共圏をめぐるアーレントとハーバーマスの理論は、そのようなコミュニケーション観の上に組み上げられている。

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』P95

つまり、アレントの考え方は、人間は議論を尽くせば、共通の見解にたどり着くことができることを理想としているが、現代社会はそんな簡単ではないと言っているわけです。これはうなづける話です。そもそもいつまで経っても戦争やテロがなくならないわけですから。

これに関しては、アレントがこの本を書いた時代性がそうさせている可能性があります。アレントは20世紀前半の世界大戦を目の当たりにしている世代であり、人間の争いの極端な展開に呆然としたわけです。

そこで、彼女は思った。人間はこんなことではいけないと、もっと対話で平和を獲得できるはずだ、と。それが『人間の条件』を書いた動機だとしたら、「人間は話せば分かり合える」と理想を置くのもわかる気がします。

また本書の後半では、『人間の条件』で提示されている、人間の生の区分「ゾーエー」と「ビオス」にも言及しています。「ゾーエー」とは、動物的で身体的な生命のこと、「ビオス」とは人間的で精神的な「人生」のことです。

アレントは、『人間の条件』の中で、産業の機械として生きる「労働」は、動物的な生(ゾーエー)しか生きておらず、人間の条件を満たしていないというわけです。

では、いかに人間的な生、ビオスを生きるか、というと、大事になってくるのが「公共空間」です。つまり家に閉じこもっていては、ゾーエーしか生きられず、公共空間、つまり政治に参与することではじめて人間はビオスを生きられると言うのです。

ただ「公共空間」に出ることはリスクを伴います。私という固有名で参与する必要があるからです。いまの社会、SNSでも自分の名前を晒すことは一定のリスクを伴いますよね。政治に参与することは、自分の名前を出すということであり、それが人間にとってビオスを生きるために必要な勇気だとアレントは言うわけです。

しかし、東さんの「一般意志2.0」は、動物的な匿名の履歴こそが政治の柱になることを主張しており、つまりアレントの古典を引き合いに出すことにより、自身の考え方の新奇性を帯びさせていると読み取れます。これは、まさに東浩紀という優れた書き手がなせる技ですね!

◆東浩紀の言及② 『観光客の哲学』

さらに後年に出版された『観光客の哲学』(ゲンロン・2017年)でも、中盤からかなりのページを割いて、アレントの『人間の条件』に言及しています。

東浩紀『観光客の哲学』(ゲンロン)※後年増補版が刊行

『観光客の哲学』はだいぶ前に読んだ、かつ、後年に出版された増補版を読んでいないので、全体の理解があいまいで恐縮ですが、chatGPTの力も借りて少し復習しました笑。

この本は、「観光客」というメタファーを使って、現代人のあり方を論じた本です。観光客は、外部との接触を求めて、軽やかかつ無責任に移動する存在で、現代社会では、そうした身軽さが新しい生き方として推奨されるべきということのようです。そして、本書のなかで「消費」を考える補助線として、アレントを登場させています。

『人間の条件』で、「労働する動物」(=消費する動物)を強烈に批判したアレントの考え方に触れ、大衆消費社会を批判し、古き良き人間を取り戻す考え方を、観光客の対立概念として置いています

『人間の条件』についてはまず下記のように述べています。

アーレントもまた、人間には、生物学的な人間(ホモ・サピエンス)であることとは別に、「人間」として生きるために独特の哲学的条件があると考えた。そして現代では、人々はその条件を失っていると考えた。『人間の条件』は、人々がその条件を取り戻すために書かれた書物である。

『観光客の哲学』P103

恥ずかしながら、これを読んで、失っている人間の条件を取り戻すことを目指して書かれた本だという、『人間の条件』というタイトルに込められた意味をちゃんと理解した気分でした。

この本でも『一般意志2.0』と同様、「第2章 政治とその外部」において、アレントの「公共性」に注目していますが、東さんは本書でアレントの弱点を指摘しています。

しかし、このアーレントの哲学は、理論的には大きな弱点を抱えていることも知られている。なぜならば、そもそも彼女がモデルとして参照した古代ギリシアの都市国家は、奴隷制のうえに成立しているものだったからである。

『観光客の哲学』P107

確かに奴隷制がある時代と現代とでは、人間観は大きく異なると考えられ、その時代のポリスの政治を理想と掲げるのは限界がある気がします。

シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。

『観光客の哲学』P109

アレントは、相当強い危機意識で、人間の復活を考えていたのでしょう。そのため、少々強引な理論展開になってしまっていることを、國分さんも東さんも的確に指摘しています。政治色が強い本だけに、読む側の力量も問われる本だと感じました。

◆東浩紀の言及③ 『訂正可能性の哲学』

東さんの本で最後に取り上げるのは、昨年出版された『訂正可能性の哲学』(ゲンロン・2023年)です。この本で、東さんはアレントの『人間の条件』を見事に訂正しながら読み込んでいます

東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)

『訂正可能性の哲学』は、人間が一度行った過ちを訂正や謝罪することなく、「正しい」と貫き通さなければならない生きづらさについて問題提起し、行動を訂正しながら軽やかに生きることを説く、東さん渾身の一冊です。

その第1部「家族と訂正可能性」の終盤「第4章 持続する公共性へ」において、『人間の条件』の読み解きに多くのページを割いています。

まず『訂正可能性の哲学』より、下記を引用しします。

アーレントもまた、ふつうに読めば、開かれたものと閉ざされたものの対立を前提として思考し、公共性を考えるために家族を排除した哲学者である。

『訂正可能性の哲学』P112

ここでも冒頭から家族を取り戻そうとする東さん自身の考えの対立軸としてアレントが置かれます。「開かれたもの」を「公的空間=政治」、「閉ざされたもの」を「家族」と考えると良さそうです。

確かに、アレントは公的空間(ポリス)を大切にしたのだから、家族を除外する立場です。そして、前述したように家族内の奴隷の存在も除外しています。

ただ読み込むにつれて、アレントの洞察の深さも感じられます。まず、「複数性」の概念について東さんは下記のように述べています。

人間が複数いること。この単純な事実こそが、アーレントの政治思想をもっとも深いところで支えている。ひとは私的な領域では隠れている。そして公共においてはじめて「現れる」。それこそ人間が人間らしく生きることの根幹だが、そこで「現れる」とは必ずだれかがいる空間のなかに現れるということである。ひとりきりで「現れる」ことはできない。

『訂正可能性の哲学』P114

とてもわかりやすいですね。『人間の条件』でも、公的空間は「現れの空間」とも表現されておりますが、「現れる」ためには、人間が複数いなければ「現れられない」。だから「複数性」が必要なんですね。

さらにこのように続きます。

それゆえ、開放性としての公共性、すなわち「現れの空間」が機能するためには、まずは、現実に多数の多様な人々を受け入れている「共通の世界」が用意されていなければならないのだ。(…)アーレントのなかでは、開放性と持続性はそのような理路でつながっている。

『訂正可能性の哲学』P115

ここで、アレントの「公共性」が、「開放性」と「持続性」の2つに支えられていることがわかります。

政治に参与することが重要である時点で、開放性はわかりやすいのですが、そこに人間の作る「世界」が必要であることを論じ、「持続性」を指摘したのが面白い視点ですね。ちなみに、この「持続性」は「訂正可能性」と相性が良いので言及したと考えられます。

続いて、『人間の条件』の特徴である、3つの営為「活動」「仕事」「労働」についても言及します。

ここで「活動」を最上位に置く考え方に、東さんは異を唱えます。

労働が人間的ではなく価値が低いという主張はわからないではない。(…)けれども問題は、手を動かす作品制作までも言論や政治参加に対して劣位に位置づけられてしまっていることである。

『訂正可能性の哲学』P117

現代における、クリエイティブな制作活動が劣位に置かれていることに違和感があると述べるのです。ゲームや映像文化などにも精通している東さんらしい主張です。(ちなみに、東さんは「仕事(work)」を「制作(work)」と訳しています。)

しかし、さらにもう少し読み込むと、アレントの思想の中に、「仕事=制作(work)」の意味が見出せることを発見します。

ぼくたちは制作によってものをつくる。ものには客観性があり、制作者が死んだあとも持続的に存在する。その持続性こそが「共通の世界」に公共性を与える。それが『人間の条件』の基本思想だった。

『訂正可能性の哲学』P121

つまり、「公共性」には、「仕事=制作(work)」による「持続性」が必要だということです。そして、こう続けます。

本当の公共性は、活動と制作が組み合わされなければ実現しないのである。

『訂正可能性の哲学』P122

こうして、「活動(action)」と「仕事=制作(work)」は実は優劣がつけがたい営為であることが見えてくるのです。

これは『人間の条件』を読んでいて私もちょっと混乱していたところでした。活動が重視されているのはよくわかるけど、同じぐらい仕事を重視するような文脈であるように感じたからです。

東さんはここを見逃さず、この混乱をしっかり整理してくれました。

アーレントは公共性を開放性のみで定義したのではない。開放性としての公共性は活動によって可能になり、持続性としての公共性は制作によって可能になる。だとすれば、公共性の質は、活動と開放性だけでなく、制作と持続性の観点からも判断されなければならない。

『訂正可能性の哲学』P124

そして、アレントの思想が予想以上に深いことを東さんも認めるのです。

人間が多数存在することが、意見の多様性を生み出し、公共性を準備する。アーレントはまずはその複数性を維持する条件について考えた。そう理解すれば、彼女の真の関心はポリスとオイコスの区別よりさらに深く、世界の持続性そのものにあったのだとも解釈できる。

『訂正可能性の哲学』P127

確かに、何のためにアレントがこの『人間の条件』を書き残したかと考えると、世界を残したかったからと考えると合点がいきます。核開発競争がし烈を極めた時代だからこそ、尚更地球の危機を感じていたのでしょう。アレントはきっと地球の持続可能性を考えていたのですね。

そして、このようにまとめます。

世界が持続すること。ひとが生まれ、ものがつくられ、歴史がつながっていくこと。その肯定から始まるアーレントの政治思想は、彼女自身が家族という言葉を使わなかったとしても、ぼくにはまさに「家族の哲学」の名にふさわしいように思われる。開かれているとか閉じられているとかは、そのあとにくる話だ。

『訂正可能性の哲学』P128

綺麗なまとめ方ですね。素晴らしいです。

東さんは、冒頭は対立軸としておきながら、『人間の条件』を丁寧に読み解くことでアレントの主張を整理し、結果的に自分の考えと合流させてしまうというアクロバティックな美技をみせつけてくれました。

ただ驚きはここで終わりません。第1部をこんなことを述べて閉じるのです。

だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行ったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・といった訂正の連鎖の実践である。

『訂正可能性の哲学』P135

なんと、訂正可能性を主張するにあたって、その実践としてアレントの『人間の条件』も訂正して読み込むことを実践したのだというのです。もう言葉が出ません…。

私自身、アレントを軸にしてこの本を再読しなければ、この凄さに気付きませんでした。自分の思想を説明しながら、本の中でその訂正を実践し、その重要性を示すという書き方をしていたようです。東さん、すごくないですか?


以上で、東浩紀さんによる『人間の条件』の言及されっぷりを閉じていきたいと思います。

國分さんと同様、アレントを批判的に言及しつつも、自身の主張を論じるにあたり、対立概念としてアレントを置く手法でした。それだけアレントの思想が注目されているということの証左だと感じます。

そして、アレントが世界の持続性を大切にしているという解説は、『人間の条件』を味わう上で新たな視界をくれた気分です。

最後の#3で、ジェニー・オデル『何もしない』による『人間の条件』の言及されっぷりを眺めて、このテーマを締め括りたいと思います。

それでは次回もお楽しみに!

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