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藤沢令夫著「プラトンの哲学」 現代にも突き刺さる言葉【読書ノート】
記事を書こうとすると考え込んでしまって中々投稿できないので、今回は本で気になった箇所を掲載し見解も書ければ書くノート的な書き方で書いていきます。ここnoteだし!
今回の本は、西洋哲学の祖と仰がれるプラトンの思想の全容を語る藤沢令夫著「プラトンの哲学」。
科学、数学、歴史学・・・数多の学問の祖である学問、「哲学」の創生を紡ぐギリシャ哲学の巨匠プラトンに関する本であり、
紀元前の人物である彼の眼差しは現在にも突き刺さる。
本書の冒頭で綴られる彼の言葉は、まさに現代に向けて突き刺してくるような言葉であった。
「金や評判・名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか?
この言葉の対象とならない現代人は、私含めてほとんどいないのではないだろうか。
彼(正確にはプラトンの師匠ソクラテスが語った)が語る「魂をできるだけ優れたものにすること」、その為の営みが哲学であった。
「幸福」をかたづくる「よいもの」として人々が血まなこになって求め、それを持つ人を羨むところの、富も、名誉・地位も、健康も、美貌も、強さも、生まれの良さも、そして言論の能力を核とする政治的能力も、
すべて「魂の卓越性」としての徳があってはじめて、人間にとってよいものとなり、幸福に寄与するものとなるのであって、魂が劣悪であれば、それらは有害なものに転じ、逆に不幸の因となる。
プラトンが語る「魂」とはどのようなものであるか。
彼は著書の「パイドン」でこう語る。
「魂は思惟と知の主体であり、
身体は感覚、欲望、情念、快楽などの主体であって、
身体のそれらの働きは、魂の働きである思惟と知を妨害する。
その意味で魂と身体は対立し、知を求める者は魂を身体から
引き離さなければならない。」
魂(思惟と知の主体)にとって、身体的欲望は対立する者であるという話は、漫画や映画といったフィクションを嗜む人であれば一度は目にしたテーマだとは思うが、そのテーマは紀元前の古代ギリシャから語られてきた。
今現代でさえ、自分の欲望が自分の主体であるかのように生きる人々が散見され、今でも色褪せないテーマであると思う。
それはあまりにも長い間、「個」を抑圧してきた時代が続いてきたためだろう。
社会や他者といった外側からの要請の中で自分を抑え、息苦しさを感じて生きた人々が、
自分の内側から湧き上がる欲望を応え叶えることに喜びを感じ、それに従い生きることが幸せであると感じるのは自然な成り行きと思える。問題なのは、自分の魂(思惟と知の主体)と身体的欲望の区別がつかないこと、意識されないことである。
その意味で魂と身体は対立し、知を求める者は魂を身体から
引き離さなければならない。
プラトンはその為に哲学を営んでいた。
これは本書にはない「パイドン」での話だが、
彼は哲学を「死の真似び」と表現していた。
哲学が求める真理の探究するには、
まずはあらゆるバイアスや誤認といった無知の元となる欲望が宿る身体から、自らの思惟を解放しなければならない。
この「魂(知と思惟の主体)」を「身体」から引き離す行為、
その魂が身体を離れ、天を登るように高次に登っていく様を、
彼は「死の真似び」と呼んだのであった。
そんなプラトンの語る哲学の中身とは、どのようなものであったのか。
その全容がこの本で詳しく語られていくことになる。
(続くかも)
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