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「人間」という「動物」にも変化が当たり前にあっていい:2021年10月4日(世界動物の日)

昨日の朝はとある勉強会に参加して、「AIに負けない子どもを育てる」という本についての発表を聞いた。
自身の学びをアプトプットする場ということで開かれている勉強会で、いつか私も発表をしてみたいと思う。

本書のテーマは「AIが苦手とする読解力を人間が身につけるにはどうしたらいいのか?」。発表の中で本の中にもある下記のような問題を出されて参加者全員で考えた。

アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
グルコースからできているのは、デンプンと(   )である。

(1)セルロース (2)アミラーゼ (3)酵素 (4)形

理系の知識がなくとも答えは文章の中に書いてあって分かるようになっている。マレーシア時間で朝8時過ぎ、頭の良い体操になった。

筆者は本書の中で日本人の読解力の低下、キーワードの暗記に特化した学習法である「AI読み」に警鐘を鳴らし、親、学校、個人ができることを提言している。

発表を聞いている中で、ふと今私が一緒に働いているマレーシア人たちのことが浮かんだ。

彼らは読解力の問われる日本語を仕事で使えるくらいに話すことができ、学校や会社、外国人との会話は英語、家庭や友人同士などではマレー語/中国語を使い分けている。

それぞれの言語にそれぞれの文法、文脈から読み取ることは異なっているはずなので、英語で精一杯の私からすると、彼らの頭の中は「AIか?」と言ってしまうくらい感心する。本当に彼らの頭の中の言語の切り替え構造はどうなっているのだろう。

今回の発表の中で、「語彙力」を磨いていくという話もあった。
語彙力は「どれだけ多くの言葉を知っているか」および「どれだけ言葉を使いこなせるか」に関する能力、を意味する表現だ。

言葉は知っていて意味が分からないと使いこなせない。それを鍛えていくのは家庭での子どもへの接し方が大事だそうだ。

もちろん、大人になってからも語彙力は鍛えられる。
私の場合は、もともと電話での営業やテクニカルサポートと呼ばれるITのヘルプデスクを経験しているので、「目の前にいない相手に対して、言葉だけで分かりやすく相手に伝わるように話す」ことについてはずっと鍛えられてきた。

そして、今では日本語話者のマレーシア人たちに日本語で説明するときに、難しいことがはなるべく平易な言葉に言い換えたり、逆に熟語で言ったほうが分かりやすいときには敢えて熟語に言い換えたりと日本人同士で話すよりも言葉のバリエーションが広がっている

(※ルー語を含む)

冒頭のアミラーゼの問題をマレーシア人の日本語話者に聞いてみたら、答えはどうなるのだろうか。
彼らはいわゆる「正しい日本語」を勉強しているので、もしかしたらみんな正解を答えられるかもしれない。


10月4日は世界動物の日。動物の守護聖人であるアッシジのフランチェスコの聖名祝日で、イタリアのフィレンツェで開かれた環境保護家による「国際動物保護会議」で制定された世界的な記念日だ。

AIに負けない子どもを育てる」の勉強会の後、こんな記事を読んだ。

なかなか、衝撃的なタイトルでデジタル情報を使いこなせない人間たちがこれからは「超人」と「動物」に分かれていくという内容だった。

昨今の世情からも情報へのリテラシーが問われている。読解力や語彙力も同様に文脈からの勘違いから嘘の情報が流れたり、逆に勘違いさせるようなミスリードを生んでしまうような情報が錯綜していることをよく見るようになった。

対談記事の中では「動物的な人間」「超人的な人間」「AI」の3つがバランスを取って今後の社会を創っていくのではないか、また、どれも必要で双方が持ちつ持たれつだ、ということも語られている。

確かに、情報は発信する人と受ける人がいて、仕組みを作る人がいればそれを使う人がいて初めて成り立つものだ。

「超人」と「動物」という分かりやすい言葉で表現をされているのだけれど、その住みわけはきっちりしたものではなくて、間に「AI」が入ったり、ある分野では発信者でも、別の分野では情報を受けて仕組みを使う側になるかもしれない。

つまりは、そういった世の中でこれから大事になってくるのは、やはり情報を正しく理解する力、言語を正しく読み取る力ということで、「読解力」が注目がされているのではないだろうか。

岡本教授によると、「超人」と「動物」はそうなろうと思ってなっているのではなくて、気がついたらそうなっていたということ、すでにいろいろなところで、分かれていく契機は見えはじめているそうだ。

生物学的には人間も「動物」だ。
だが、「人間はみな同じか?」という問いに対しては、能力や体力などの個体差はあるので、同じではない。
私は日本語と英語しか話せないけれど、マレーシア人の同僚たちは当たり前に3つも4つも言葉を話す能力がある。

対談記事を読んでいて、記事の中では「超人」と「動物」に分かれていくとあるけれど、分かれるというよりもより「動物化」が進んでいっているのではないか、と感じた。

ここ数年で、仕事だけでなく生活の中にも、デジタル情報がどんどんと浸透してきていて、大きく社会は変革を続けている。

「デジタル情報を使いこなせない」人間が大半を占める社会では、「人間」という「動物」として「AI」とは異なった存在として生きていくためのひとつの術として「読解力」があるのではないだろうか。

世界動物の日、もちろんこの世界は「人間」という「動物」のものではない。

自然界の動物たちが環境に合わせてその体や生き方を変えてきたように、人間も同様に今が変わるときなのかもしれない。

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