学びの未来研究所

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最近の記事

「日本を捨てる学力」と「日本を育てる学力」

村を捨てる学力」「村を育てる学力」  タイトルは、東井義雄の「村を捨てる学力」「村を育てる学力」から取ってます。  東井義雄が、これを考えたきっかけは、保護者の次のような意見からでした。  これは、日本農業研究所『永続農家の研究』に掲載された、当時の全国の農家の意見を集めたものです。教育をすると農業から離れてしまうから、長男は後を継がせるから勉強をさせないという農家が全国に多くあったそうです。それを東井義雄が引用しています。  これを読んで私の父のことを思い出しました。

    • 対話的な学習のために必要なこと

      私が見たベストな授業の1つに滝井章先生の「分数の割り算」の授業があります。 導入で問題を出したところ、子どもの1人が「ひっくり返してかけるといいと思います」と発言しました。すでに塾で習っていたようです。 普通の先生ならば「だまってて」というところかもしれません。 しかし、滝井先生は、指導案を捨てて、「そうなの、みんなに説明して」と言います。 その子は説明しますが、その考えに納得しない子どもも出てきます。その子も、なぜひっくり返してかけるのか、理由までは理解していないようでした

      • ICT教育を進めるときに考えたいこと:セサミストリートが示唆するもの

         世界で最も子どもに影響を与えた教育番組が、セサミストリートなのではないでしょうか。  このセサミストリートの教育面で中心となったのが、発達心理学者でハーバード大学のジェラルド・レッサー教授です。  私は、大学時代にレッサー教授の授業を受けました。講座名は、「Children's communication and media」だったように記憶しています。  レッサー教授は、日本の教育番組の調査のため来日され、その際に私の所属していた新聞研究所(現メディア・コミュニケーション

        • 制度教育学について

           いっけいブックレット『授業の限界と可能性』の解説を書きました。斎藤喜博、林竹二、波多野完治による鼎談の解説ですから、非常に畏れおおいものです。ですから、解説というより、何らかの情報提供にしようかと考え、それぞれの関係がわかる文献を引用して紹介しました。  実は、この文章は、その解説についての言い訳です。  というのは、解説では波多野完治の文章を紹介しましたが、私自身、よく理解していないところがあります。例えば次の箇所です。  ここでの「制度教育学」という用語は、恥ずか

        「日本を捨てる学力」と「日本を育てる学力」

          「教育」「学習」「学び」をどうとらえるのか

          めがね旦那さんが、私のポストに応えてnoteに記事を書かれました。たいへんありがたいことです。そして、それへの返信としてまとめてみました。 基本的には、めがね旦那さんの書かれたことには同意です。「個別性」の問題、「自己責任論」の危険は、確かにあります。 ガート・ビースタ『よい教育とは何か』はタイトルは知っておりましたが(拙著のタイトルとも似ていたので)、読んでおらず、そのような指摘があったことは勉強になりました。 「『生徒』や『児童』の代わりに『学習者』という言葉が頻繁に

          「教育」「学習」「学び」をどうとらえるのか

          質の高い対話、質の高い問い

          年末に、とてもよい刺激をいただいたので、ちょっとまとめてみました。 サッカーをやってきたので、ついサッカーに喩えてしまいますが、ご容赦ください(その昔は元旦と言えばサッカーだったので)。 サッカー界隈では、システム、フォーメンションについての議論が好きな人が多くいます。4バックがいいとか、3バックがよいとか、というものです。 ですが、そもそもキックが不正確、トラップが下手など、サッカーの技術がともなわないと、システムやフォーメーションをどう変えても強くはなりません。 あわせ

          質の高い対話、質の高い問い

          教育観、授業観を転換するということ

          今の教育界のキーワードに、「主体的、対話的で深い学び」や「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」、「探究的な学び」などが挙げられます。基本的には、私は賛成の立場です。 「基本的には」と述べるのは、「このままで大丈夫なのだろうか」という懸念もあるからです。 そして、そうした取り組みは、決して新しいものではなく、今まで何度も出ては消えていったもののように考えております。 例えば、及川平治は、その主張である動的学習について次のように述べています。 これは、192

          教育観、授業観を転換するということ

          ローカルニュースからの学び

           インターネットが登場したとき、「これで世界中の情報が手に入る」と考えられた方も多いと思います。当時、「インターネットと教育」の専門家の方と話をしたとき、「いや、実は地域のことを知るほうが多いのです」とも話されていました。  今の状況をよく見ると、例えばグルメサイトで、地元の飲食店を探すように、ネットを地域の情報を得るのに使われているほうが多いのではないでしょうか。  そして、ニュースもそうなんです。  私は富山県の出身ですが、大学から東京で生活をしています。そして、故郷

          ローカルニュースからの学び

          新聞には算数がいっぱい! NIE-MATH

           NIE(Newspaper In Education・教育に新聞を)は、主に国語と社会科で取り組まれています。実践報告は、それがほとんどでした。  しかし、新聞・ニュースは「算数」の有効な教材になるのです。  現行の「学習指導要領 算数」より、「データの活用」が領域として位置付きました。  学習指導要領の小学校6年生の目標には「身の回りの事象から設定した問題について,目的に応じてデータを収集し,データの特徴や傾向に着目して適切な手法を選択して分析を行い,それらを用いて問題

          新聞には算数がいっぱい! NIE-MATH

          ニュースは教材たり得るのか?

           NIEをご存知でしょうか。Newspaper In Educationの略語で、「教育に新聞を」とも訳されています。  私は、日本NIE研究会と日本NIE学会に所属して、これに取り組んできました。  元々、大学時代に慶應義塾大学新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)に所属して、二つのゼミで学びました。伊藤陽一先生と岩男寿美子先生です。  そうしたこともあり、最初に就いた教科書の編集の仕事で、「新聞を活用した教育」を意識するようにもなりました。  特に、平成元年

          ニュースは教材たり得るのか?

          「生い立ちの授業」「二分の一成人式」「組み体操」の問題の本質-子どもを見るということ

          「生い立ちの授業」、「二分の一成人式」、「組み体操」は、学校教育の中でも批判の的になっています。ただ、私は、これはそれほど問題とは思っていません。本当の問題は別にあります。この活動の形ばかりを批判するのは、かえって問題の本質から目を逸らすのではないかと懸念もしてます。  その問題とは、  子ども見ていないということ  です。  言い換えれば、  やってはいけない子どもにやらせていること  とも言えます。  例えば、「組み体操」のタワーは危険だと批判されます。とこ

          「生い立ちの授業」「二分の一成人式」「組み体操」の問題の本質-子どもを見るということ

          できなくてもよい、間違っても大丈夫

           過去記事で、「『学び』の過程に、間違いや失敗は必要です-オリンピックで思うこと」を書きました。  その補足です。  私も、そうなんですが、できなかったり、間違ったりすると恥ずかしいと思ってしまいます。  昨年、南アフリカの先生方に講義をする機会をいただきましたが、英語で話すときも、「間違ったらどうしよう」と不安だらけで、英語ではまともに話せませんでした(通訳さんがなんとかしてくれました)。  普段は、少々文法的な間違いがあっても、ちゃんと伝わるよ、と言っているにもかかわら

          できなくてもよい、間違っても大丈夫

          「わたしたちの願い」-『事実と創造』500号に寄せて-

           斎藤喜博が創刊した雑誌『事実と創造』は1月に創刊500号を迎えました。 本誌、発行人の一人となりましたので、これからの本誌の在り方として「わたしたちの願い」をとりまとめました。以下にご紹介します。  ご高覧頂けましたら幸いです。 わたしたちの願い ・ わたしたちは、子どもの事実から出発するものでありたい。 ・ わたしたちは、子どもとともに創造していく授業をめざしたい。 ・ わたしたちは、子どもの無限の可能性を信じたい。 ・ わたしたちは、論戦によって学ぶ立場でいたい。 ・

          「わたしたちの願い」-『事実と創造』500号に寄せて-

          授業は試合である-主体的、対話的で深い学びのために

          「授業は試合である」は斎藤喜博の言葉です。  この言葉の背景には、あるエピソードがあります。  教材は「大造じいさんとがん」です。詳細は省きますが、子どもたちは「文章のなかの、あちこちの語句を引いてきたり、前後の語句の文につなげたりして反ばくして」きました。  それを受けて斎藤喜博は、「汗だくでそういう子どもたちと格闘」しました。  その結果、「この授業では、子どもたちもそうだが、子どもたちと格闘することによって、むしろ私自身が、その教材に対しての、新しい解釈を持つことがで

          授業は試合である-主体的、対話的で深い学びのために

          「めあて」と「ふりかえり」

           Twitterで、「めあてとふりかえりはいらない」という教師と、それに賛同する多くのコメント見ました。  それで疑問に思ったのです。  「いらない」という教師は、普段、どのように学んでいるのだろう、と。  学習ではありませんが、私たちは、日常でも「めあて」をもって、その後に「ふりかえり」をよくしています。それは、ほとんどが無意識でしょう。  例えばどこかへ行くとき、到着時間という「めあて」をもって「間に合った」とか「遅れたのはあれがよくなかった」などのようにふりかえってい

          「めあて」と「ふりかえり」

          評価ってなんだろう5 ナンバーパーソンの悲劇

           タイトルは、ブレイディみかこ氏によるものです。早稲田大学の菊地栄治先生から教えて頂きました。少し引用します。 この数字は、例えば「珠玉の随筆を書いた14万部さん」とか「著書を上梓した32万部さん」などです。そしてみかこ氏は、高校時代の恩師を思い出します。「君たちは偏差値じゃないんだ」という言葉と。 これは、私が以前から考えていたことにピッタリでした。 最初にこうしたことを考えたのは、野球を見ているときでした。  日本のプロ野球中継でスピードガンが導入されたのは、197

          評価ってなんだろう5 ナンバーパーソンの悲劇