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制度教育学について

 いっけいブックレット『授業の限界と可能性』の解説を書きました。斎藤喜博、林竹二、波多野完治による鼎談の解説ですから、非常に畏れおおいものです。ですから、解説というより、何らかの情報提供にしようかと考え、それぞれの関係がわかる文献を引用して紹介しました。

 実は、この文章は、その解説についての言い訳です。

 というのは、解説では波多野完治の文章を紹介しましたが、私自身、よく理解していないところがあります。例えば次の箇所です。

この意味では、斎藤の教授学は、制度教育学と同じ方向のものであり、日本にあって、制度教育学を先取りしたものだ、といってもよいだろう。斎藤の一番の功績であり、これによって授業がはじめて教育になり、且つ科学的検討にたえるものになった、ということができる。

波多野完治[『斎藤喜博全集第一巻解説』

 ここでの「制度教育学」という用語は、恥ずかしながら初めて目にしました。言葉から「教育制度」にかかわるものかとも思いましたが、斎藤喜博が先取りしたものと言うのもしっくりしません。しかし、解説で2カ所を引用をしたように、波多野の中では斎藤喜博を表現するのに重要なキーワードのようにも思えました。

 そこで、ネットで調べたら、非常に興味深いものでした。ですから、私が理解できていなくても、これは伝えるべきだと思ったのです。

 それは、日本のWikipediaでの次の解説です。

制度による教育学とは、20世紀のフランスにおいて、フェルナン・ウリとレイモン・フォンヴィエイユが創始した、教育法である。対話に重点を置き、子供たちに主体的に学級の運営に参加させることで、学ぶことの喜びや主体性を教える。「仏: Quoi de neuf? (今朝の言いたいこと)」という毎朝の時間は、生徒に自由に発表をさせ、家庭から学校の時間への移行と、話すことの訓練を行う。他に毎週自由討論の時間があり、様々なことを討議しながら、生徒は自らルール作り、制度作りに参加する。自分たちで学校のプログラムを作りながら前に進んでゆく学校である。また柔道の段位システムから、生徒に帯のようなものをつけさせ、その修練度レベルをいつも表示させている。

 これは、今こそ必要ではないかと思ったのです。
 ただ、これだけでは具体がわかりません。
 それでいろいろと調べてみましたが、日本の文献では見当たりませんでした。(『波多野完治全集』にあるかとも思いましたが、まだ全部を参照できていません。もし関連した文献がありましたら教えていただければありがたいです)

※以下の引用は、海外のサイト、Wikipediaをgoogle翻訳、DeepLで翻訳したものです。日本語が熟れていませんし、誤りがあるかもしれませんがご了承ください。

 さて、ここでの制度というのは、制度教育学を創設したフェルナン・ウーリーが次のように定義しています。

「与えられた場所、与えられた時間に、何が行われ、何が行われないかを定義できる一連の規則」

https://www.universalis.fr/encyclopedie/pedagogie-institutionnelle

 英語版のWikipediaでは次の定義です。

それぞれのパフォーマンスのレベルに応じた、つまり潜在能力に応じた場所、瞬間、地位、機能(サービス、ポスト、責任)、役割(会長、秘書)、多様な会合(チームのキャプテン、異なるレベルのクラスなど)、そしてそれらの効力を維持する儀式。

https://en.wikipedia.org/wiki/Institutional_pedagogy

 私がイメージした、いわゆる教育制度などの制度とは異なるものでした。

 そして、制度教育学自体について英語版のWikipediaでは次のように書かれています。

制度教育学とは、2つの要素を中心とした教育の実践である: 1.学習者の複雑さと、教育者が教室に持ち込む「無意識」。この無意識とは、教育者が教育機関の中で接する社会的、経済的、文化的、その他の暗黙の要素の多様性の別名であり、2.これらの心理社会的要素と生徒が知っていることの両方に介入する過程における教育機関の役割である。
しかしそれ以上に、創設者フェルナンド・オーリが構想したように、制度的教育学とは、制度的文脈そのものに常に疑問を投げかけるものである。従って、教室は決して想定された静的な場ではない。制度的教育学の動きは、1960年代後半以前の一般的な教育動向と真っ向から対立するものであり、そのほとんどすべてが、学習者間の社会文化的差異、学習における心理社会的要因、そして最も重要な教室における「無意識」の存在を均質化する傾向にあった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Institutional_pedagogy

 発祥の地であるフランスのWikipediaにはさらに詳しくありました。

制度教育とは、クラスやグループに制度を設けることである。その目的は、集団的に決定された「制度」(協議会、取引など)の設立を通して、クラス集団(生徒と教師の両方を含む)が自分自身とその学習を調整できるようにすることである。制度教育では、アイデアの循環と各個人の表現が中心となる。この教育実践の目的は、生徒と教師の主観性を考慮することである。制度教育学は、「バラック学校」(F. オリー、J. パン)を糾弾する。それは「教育官僚主義」(M. Lobrot)の流れに逆行するものであり、人間の解放と充実を目的とした教育目標を損なうことなく、それを正当化し、正当化する目的を満たすことだけを目的としている。

https://fr.wikipedia.org/wiki/P%C3%A9dagogie_institutionnelle

 そして具体的実践として、

重要な制度は、基本的に教室に設けられた「トーキング・ショップ」で構成されている。相互扶助と友愛が重視され、教師は子どもの発言を全面的に受け入れる。
What's new "のセッションは、生徒がクラスで共有したいことを伝える毎日の機会である。その目的は2つある。
子どもが自分にとって大切なことを共有することで、学校での活動に参加しやすくする。これは、学校と家庭の間の移行である;
生徒が本当に言いたいことをクラスで話すような実際のコミュニケーション場面を設定することで、口頭表現を促す。
何が新しいか」は、意思決定教育が学校の外で行われることに適応した形をとりながら、意思決定教育で再び取り上げられている。What's new? "は、「天気予報」、「調子はどう」?など。

https://fr.wikipedia.org/wiki/P%C3%A9dagogie_institutionnelle

 印象ですが、日本の学校の学活や朝の会での子どもたちの発表みたいなものでしょうか。
 ここで大事なのは、形だけを取り入れるのではなく、「相互扶助と友愛が重視され、教師は子どもの発言を全面的に受け入れる」というところではないかと思います。

 次のような解説もありました。
 CGé asblという平等を進める団体のようです。少し長いですが引用します。

唯物論、グループ・ダイナミックス、無意識への配慮を組み合わせたフェルナン・オーリーの制度的教育法は、二人三脚に基づいている:
第一のセクションは、子どもと生産(デューイ、マカレンコ)との関係を促進する技法(フライネットやその他の能動的教育学から採用)に焦点を当てている。
第2段階は、ビオンやルーインなどの伝統にのっとり、集団力学とクラス集団における子どもの観察に焦点をあてる。
第3の足では、ラカン、ドルト、フロイト、そしてJ.オリーやトスケレス博士を中心とする制度的心理療法運動の影響を受け、無意識の存在を考慮に入れる。それは、教師がセラピストになるという問題ではなく、必要に応じて作られた小さな施設の世話をするというものだった。教師は子どもたちと直接関わることはなく(つまり、二重の関係はなかった)、このケアは、たとえば非常に構造化されていない、大きな困難を抱えた子どもたちにも効果があることがわかった。
教室にはさまざまな「フォーラム」が設けられ、それらは制度的な力を獲得していった。朝のおしゃべり(または「コーゼット」または「新着情報」)、テキストの選択(子どもたちが書いた自由文の中から)、評議会に残された要となるもの。
協議会が重視するのは
関係性:協議会は言葉を束縛する場所であり、人々は恐れることなく発言でき、何を言っても罰せられることはない;
政治的:協議会では、子どもたちは権力を委ねられる。能力には責任が伴い、責任には権力が伴う。また、苦情を言ったり、批判したり、提案したり、助けを求めたりできる場所でもある。生徒が自分自身と教師との間で権力を共有し、意思決定ができる唯一の場所なのだ。子どもたちが言葉の世界に入り、それによって自分の居場所を確保するための、特権的な瞬間なのだ。
施設教育は非指示的アプローチを頭ごなしに否定する。やりたい放題にされる子供は、成長したいと思うはずがない。子供は法律に立ち向かうことはできても、霧に立ち向かうことはできない。教室には、破られない法律がなければならない。もしそうであれば、私たちは協議会に相談します。
教室が自分の居場所であり、安心できる場所であり、生活できる場所であり、物事を解決できる場所であると子どもたちが認識すれば、子どもたちは次第に学童としての生活を主導するようになる。自分たちの取り組み、率先した行動、自分たちの居場所に対する誇り、自分たちがすべての場所を占有してはいけないという枠組みなどを通して、学ぶことの味を再発見するのである。
このような教育法を実践するには、単なる1回のコースではなく、継続的なトレーニングが必要なことは言うまでもない。インスティテューショナル・ペダゴジーの実践者たちが、チームを組織したり、自分たちの仕事を分析するためにモノグラフを書いたりするのはこのためである。

https://changement-egalite.be/la-pedagogie-institutionnelle/

 そのほかフランスでは、「制度教育学」の本の出版社のサイトなど、いくつもありましたので、関心のある方はご覧になれるとよいでしょう。

 以上、いろいろと見てきましたが、はっきり言えば、まだよく分かっておりません。
 お読みになった方で、いろいろと教えていただけることがありましたら、ありがたいです。

 斎藤喜博は、「授業はコミュニケーションの組織」だと述べます(『授業』)。そして斎藤喜博だけでなく、林竹二も対話を通した学びが基本にあります。斎藤喜博の学校ではどの子ものびのびと発言し、教室にあたたかな居場所が確保されています。
 こうしたところからも波多野完治が、「制度教育学」が斎藤喜博と同じ方向性であるというところは、なんとなく理解できました。
 ですから、やはり解説で引用すべきだろうと考えました。

 フェルナン・ウーリーの弟であるジャン・ウーリーが国際会議で「制度教育学」という表現を提案したのは、1958年です。普通の感覚からすれば「古い」ものでしょう。そして斎藤喜博、林竹二、波多野完治も、「古い」教育者でしょう。
 でも、多くの学校現場は、それに追いついてもいないのではないか、果たして学校教育は進歩しているのか、それが今の私の実感です。

 そうしたところからも『授業の限界と可能性』をお読みいただければ嬉しく思います。


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