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「わたしたちの願い」-『事実と創造』500号に寄せて-

 斎藤喜博が創刊した雑誌『事実と創造』は1月に創刊500号を迎えました。
本誌、発行人の一人となりましたので、これからの本誌の在り方として「わたしたちの願い」をとりまとめました。以下にご紹介します。
 ご高覧頂けましたら幸いです。

わたしたちの願い
・ わたしたちは、子どもの事実から出発するものでありたい。
・ わたしたちは、子どもとともに創造していく授業をめざしたい。
・ わたしたちは、子どもの無限の可能性を信じたい。
・ わたしたちは、論戦によって学ぶ立場でいたい。
・ 本誌は、この「わたしたちの願い」に賛同する全国の実践家の発表の場、交流の場でありたい。

新しい酒は新しい革袋に盛れ
 『事実と創造』は、創刊五〇〇号を迎えました。
 「新しい酒は新しい革袋に盛れ」は、『新約聖書 マタイ伝』の一節で、新しい思想を表現するためには、それに応じた形式が必要であることを述べたものです。その新しい革袋として、「わたしたちの願い」をとりまとめました。
 ただ、これは本誌が四九九号にわたって積み重ねてきたものを「古い酒」であると考えたからではありません。お読みになればおわかりいただけるとは思いますが、基本的には本誌を創刊した斎藤喜博をはじめ当時の方々の願いそのものもでもあると考えています。その願いを新しい形で、全国の実践者に伝えたいと考え、新たにとりまとめたものです。
 創刊時より、学校をめぐる状況も変わってきております。また授業研究、教師教育の捉えられ方も大きく変わっています。
 例えば「主体的、対話的で深い学び」が現行学習指導要領のキーワードとなっていますが、それは私たちにとっては新しいものではなく、ずっと昔から取り組んできたとも言えるものです。ある意味、時代がようやく私たちに追いついてきたとも言えるのではないでしょうか。
 しかし、そのような状況の中で、教育実践を伝える重要な役割を果たしていた教育雑誌が次々と休刊し、厳しい出版事情から売れるようなハウツー本ばかりとなり、インターネットを活用できる若い教師だけが、実践を伝えることができるようにもなっています。
 それだからこそ、教師自身が対話を通して学び合える場が必要だと強く考えます。そして、その教師が学び合える場に本誌がなることで、我が国の学校教育にわずかでも寄与したいと願い、次のような「わたしたちの願い」を標榜することといたしました。
 それぞれは、本誌を創刊した斎藤喜博の次のような考えをもとにしています。

「わたしたちは、子どもの事実から出発するものでありたい」
 斎藤喜博は次のように述べます。

およそすべての教育は、あくまでも児童の現実に出発し、児童の心の上に帰るものでなくてはならない。『教室記』

教師がつねに事実から学び進歩することによって、子どもを学ばせ進歩させることができる。『斎藤喜博の仕事』

 おそらくどの教師であっても、これを否定することはないでしょう。
 しかし、研究授業を見ていると、そうではない教師が多くいます。
 ある授業で、教師は特別支援教育でとられている指導法で授業をしました。その教師が参加している研究会でも高く評価されている有名な指導法です。
 ところが、その授業を受けている子どもたちは習熟度別で一番できる子どもたちです。半分以上が低学年から塾に通い、中学受験もします。ですから、その子どもたちは教師の指示をポカンとした顔で聞いていました。「なんでこんな簡単なことをやらせるのだろう」と思っていたでしょう。
 この教師も「子どものためによい授業をしたい」と願ってはいたでしょう。それでも子どもを見ていなかったのです。この教師は極端な例ですが、実際には、子どもを見ないで、教師用指導書や教育書に書かれた実践をなぞるだけの授業も多くあるでしょう。
 だからこそ、本誌では子どもの事実から出発した実践にこだわりたいと考えております。

「子どもとともに創造していく授業をめざしたい」
 斎藤喜博は、多くの書籍で「創造ある授業」について触れています。

 「私は、教育という仕事は、『イデオロギー』とか『生活認識』とかいうことではなく、文化財を正確に子どもに獲得させ、それをさらに拡大し深化し再創造する力を子どもにつけていくことだと思っています。そしてそれは、すべて『授業』によって実践されるのだと思っています」『授業入門』

「教育の仕事は、『まとめよう』『完結させよう』とする仕事ではない。つねに新たな始まりをしているものであり、いつでも前の実践の到達点から出発し、つぎの新しいものをつくり出していく創造的な仕事である」『授業の可能性』

「教師が、先人の歩んだ道だけを安易に歩むということをしないで、未知の世界に向かって、一日一日を探究し、創造していくということは、そのまま子どもにそういう生き方を教えることになる」『授業入門』

「授業はいつでも再創造の連続である。(中略)そしてそれは、ひとりの子どもとか、ひとりの教師とかだけで行われるものではなく、学級全体の豊かなコミュニケーションによって行われるものである」『授業』

 これは、多くの実践者が実感しているのではないでしょうか。授業の中で、子どもたちが何かを創造した瞬間に、ハッとした経験をみなさんもお持ちではないでしょうか。
 算数の「台形の面積の求め方」の授業でした。平成十年の学習指導要領の改訂で、台形の面積の公式はなくなりましたので、自分たちの求め方を考えようという授業です。子どもたちからは、台形を2つの三角形に分けて求める方法など、様々な求め方が出てきました。話し合いを通して、様々な意見を集約して、台形の面積の公式をクラスで作り上げました。子どもたちが見事に数学を創造したとも言える授業です。
 このような授業をしたり、見たりした経験のある実践者ならば、「創造ある授業」の価値を十分に理解していることと思います。
 しかし、実際には、予め用意された知識を伝達するだけの授業も多く見られます。台形の面積の公式を教えて、あとは練習問題という授業も数多く見られました。今回の学習指導要領の改訂で「主体的で対話的な学び」が強調されたのは、それがない授業が多いからとも言えます。
 だからこそ、本誌では、この「創造」にこだわり、「子どもたちとともに創造していく授業」をめざしたいと考えます。

「わたしたちは、子どもの無限の可能性を信じたい」

 学校教育は、どの子どももが無限の可能性を持っていることを信じ、それを無限に引き出すことを仕事としなければいけないのだ。『現代教育批判』

 教育という仕事は、その人間にも可能性があるということを信じないかぎりはじまらないものである。『教師の自由と責任』

 「子どもに無限の可能性がある」と言うと、必ず「それならばどの子も大谷翔平のような野球選手になれるのか」とか、「ノーベル賞をとれるような学者になれるのか」と反論する人がいます。確かにそうなれない子もいるでしょう。でも、目の前の子どもが大谷翔平のような野球選手になれない、ノーベル賞をとれるような学者になれない、と断言できるでしょうか。そう断言できない限り、可能性はあります。
 そして、「どうせなれないから」という授業をするのと、「可能性があるから伸ばしてやろう」という授業をするのでは、どちらがよいでしょうか。
 

 子どもたちの持っている無限の可能性は、表面に表れているものではないし、また固定しているものでもない。子どもたちの心の奥深くにひそんでいるものである。したがって学校教育においては、子どもたちの心の奥深くにひそんでいる可能性を、教師の授業という作業によって触発し引き出していかなければならないものである。『授業の可能性』

 私たちは、こうした立場に立ち、子どもたちの無限の可能性を信じ、そしてそれを引き出す授業を求めたいと考えます。

「わたしたちは、論戦によって学ぶ立場でいたい」

われわれは論戦によって勉強するという態度でありたい。われわれの論戦はあくまでも子どもを思い、学校を思い、教育を思うまごころの上にたった、純粋無我なものでありたい『教室記』

 ぼくはすぐれたもの偉大なものであったら、たといそれが自分の主義主張とちがっているものであっても率直に頭を下げようと思う。どこまでもどこまでも頭を下げようと思う。価値を認めないなどということは僕にはできない。『表現と人生』

 論戦をし、批判をされるということは、感情的にはたいへんなことです。斎藤喜博も、「事実で指摘し合い、批判し合うということは、感情的にはたいへんなことである。(『未来誕生』)」とも述べています。だからでしょうか、研究授業などでも講師は、授業者を褒め、差し障りのない結論で終わることもよくあります。それで「創造的な授業」ができるでしょうか。
 斎藤喜博も多くの批判にさらされました。出口論争という戦後教育界を代表するような論争にも巻き込まれました。高い評価を受けた子どもたちの合唱が音楽の専門家より批判されたこともありました。しかし、その批判を通して、さらに学び、新しい世界を拓いていくこともありました。
 批判や論争は苦しくもあり、つらいことでもあります。それでも私たちは、その批判や論争を通して、厳しく学ぶ立場に立ちたいと願います。

「本誌は、この「わたしたちの願い」に賛同する全国の実践家の発表の場、交流の場でありたい」
 斎藤喜博の個人雑誌 開く」を創刊しています(明治図書)。その第3集の編集後記に、斎藤喜博は、次のように書いております。

 一人一人が他に動かされるのではなく、そのときどきの自分のものをつくり出し表出して、それが他のものとひびきあって、さらに自分や他人の中に新しいものをつくり出していくという方向を持ってきたように考える。(中略)
 「開く」はそういう性格にしたいので、多くの読者からも積極的に原稿を寄せていただきたい。どういう分野での実践でも研究でもよいし、さまざまの地域や分野での生活記録のようなものでもよい、今の時代の中で自分を持って生きる人間の、さまざまな姿や考えを誌面に報告していただきたい。

 すでに「開く」は休刊しておりますのが、本誌もこの精神を継承し、「どういう分野の実践」でも、また「さまざまな地域や分野」でも、「自分を持って生きる人間」の「さまざまな姿や考え」を掲載していきたいと考えております。

 私は、今まで全国の千数百校以上の小・中学校を訪問しました。東京都千代田区のビル街に囲まれた小学校、東京都で中学受験者が七割を越えるような小学校、宝塚市の山村にある小中が一緒になった学校、長野県の白馬村の山々に囲まれた中学校、大阪市の児童生徒の半分が在日韓国人・朝鮮人という小学校、それから私立小学校、附属小学校など、様々な学校です。そして、どこの学校にも、真摯に子どもに向き合い、地道に実践を積み重ねている教師がいました。
 福井県の海と山とに囲まれた小さな学校の校長先生を訪ねたときです。とてもおもしろいものがあったと見せていただいたのが、その学校に伝わる「授業の心得」でした。「授業の第一は補導にある」とか「学習は地域から出発して、全国に展開し、地域に帰る」(細かな表現はうろ覚えです)など、教師主導ではなく支援を、そして地域教材の重要性でしょうか、そうしたことがまとめられていました。
 それは、大正時代に書かれたものです。おそらく木下竹次の出身地とも近いので、その影響もあったのでしょう。このように地方の小さな学校でも、百年以上も前に、こうした実践に取り組んで、そしてそれを後輩に伝えていた教師がいたのです。
 教育書を出版した教師、教育雑誌に寄稿する教師が褒め称えられ、注目を浴びます。しかし、書籍も出さず、雑誌にも寄稿することはないけれど、そうした教師以上の実践を積み重ね、子どもを育てている教師もたくさんいることを私たちは知っています。
 本誌は、このような教師の実践を伝え、交流し、そしてお互いに高めていくことができる場となることを願っています。
 ぜひ、この「わたしたちの願い」にご賛同いただき、ご実践をご寄稿いただけることを願っております。
(本誌発行人、学びの未来研究所共同代表、早稲田大学教師教育研究所招聘研究員)

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