「教育」「学習」「学び」をどうとらえるのか
めがね旦那さんが、私のポストに応えてnoteに記事を書かれました。たいへんありがたいことです。そして、それへの返信としてまとめてみました。
基本的には、めがね旦那さんの書かれたことには同意です。「個別性」の問題、「自己責任論」の危険は、確かにあります。
ガート・ビースタ『よい教育とは何か』はタイトルは知っておりましたが(拙著のタイトルとも似ていたので)、読んでおらず、そのような指摘があったことは勉強になりました。
「『生徒』や『児童』の代わりに『学習者』という言葉が頻繁に使用されることに見てとれる」
という指摘も、確かに昨年に南アフリカの先生方の研修に携わったとき、南アの先生は、「生徒」ではなくて「learner」を使ってましたね。
これは、以前、指導案にやたら「支援」が使われるようになったのと同じような印象です。
さて、気になったところは、言葉の問題でした。
「教育」「学習」「学び」がどのような意味として使われているのかですね。
X(旧Twitter)の特性上、どうしても言葉が曖昧になりがちです。
年末も、「一斉授業」について、議論ぽいことをX上でしましたが、これも双方の一斉授業の認識が異なっているからだと思いました。X上では、そういうことが往々にして起きます。
おそらく、めがね旦那さんは、「教育」「学習」「学び」をこのビースタをもとに意味をとらえられていたのでしょう。
めがね旦那さんのnoteでは、「教育」と「学習」「学び」が対比されますが、私の考えるところの 「教育」「学習」「学び」は、対比される位置づけではありません。
これは、どちらが正しいとかではなくて、言葉の定義、とらえ方の違いですね。
だから「『学び』『学習』抜きに『人間形成』ができるのですか?」と、めがね旦那さんの考える「学び」「学習」についてたずねたのです。
「学び」「学習」「教育」の言葉の意味は、非常に幅広いものです。だから、例えば「対話的な学び」「深い学び」のように「○○な」がついた形で表現されることも多いのではないでしょうか。そうするとわかりやすくもなります。
「教育」についても、例えばパウロ・フレイレは「銀行型教育」と「問題解決型教育」のように分類、表現してます。
そして、フレイレは「銀行型教育」を次のように指摘しています。
「銀行型教育」では、「本来の人間になる機会を奪われてしまう」と言います。つまりは、人間形成ができないということですね。
ここで大事なのは、人間形成をするときの「人間とは何か」なんです。フレイレは「人間とはそもそも探求していく者」と考えています。だからその探求を阻害するような、知識を与えるだけの教育では人間形成ができないのですね。
私は、このように教育の側面をとらえていたので、「探求」的である「学習」「学び」が人形成に寄与するのでは、と考えていました。
そして、それを考えるときには、「教育観」「学習観」そして「子ども観(人間観)」という哲学抜きには語れないのだろうと思います。
ここはめがね旦那さんの指摘の「それを論理的に支えるのが哲学である」と近いのではないでしょうか。
そしてめがね旦那さんは、
「僕は今こそ『教師』という言葉における『師』という側面を強調したいと考えていて」
とも言われます。
私は、これにも賛成なんですが、だからこそ「教師」の立ち位置が問われるのだと思います。
ざっと「銀行型教育」の教師と生徒との関係を紹介しますと、
そして次のようにも述べます。
フレイレは、「銀行型教育」を否定しますが、学習者が独りで学べということではなくて、教育者も必要だと考えています。それが「よき同志」としての教育者です。
「銀行型教育」の教師は、「師」と言えるのか、どういう「教師」ならば「師」と言えるのか、教師教育の研究も続けておりますので、それを考えていきたいですね。
めがね旦那さんのnoteで、まだ理解できないのは「『測りやすい学習』と『測りにくい教育』」という指摘です。
この場合の「学習」と「教育」は、どのような意味なのでしょうか。
「銀行型教育」のように知識を入れ続ける教育であれば、むしろその方が測りやすいです。
ですからnoteの記事でも、どんな意味で「教育」「学習」「学び」を認識されているのか、もう少しお書きいただけるとありがたかったですね。