教育観、授業観を転換するということ
今の教育界のキーワードに、「主体的、対話的で深い学び」や「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実」、「探究的な学び」などが挙げられます。基本的には、私は賛成の立場です。
「基本的には」と述べるのは、「このままで大丈夫なのだろうか」という懸念もあるからです。
そして、そうした取り組みは、決して新しいものではなく、今まで何度も出ては消えていったもののように考えております。
例えば、及川平治は、その主張である動的学習について次のように述べています。
これは、1921年の八大教育主張講演会で述べられたものです。今から100年以上前です。
この動的学習の例は「探究的な学び」とも言えるものではないでしょうか。
ちなみに八大教育主張講演会の登壇者とテーマは次の通りです。
樋口長市 - 自学教育論
河野清丸 - 自動教育論
手塚岸衛 - 自由教育論
千葉命吉 - 一切衝動皆滿足論
稲毛金七 - 創造教育論
及川平治 - 動的教育論
小原国芳 - 全人教育論
片上伸 - 文芸教育論
私が、まったく読んだこともない方もいますので、断定はできませんが、それぞれ今に通じるものがあると思います。
次は、奈良高等女子師範学校附属小学校の、戦後の発表です。いわゆる奈良プランと言われるものの元となったものでしょう。
子どもが、自身で学習の計画を立てて、自身で学習を進めていきます。今で言うところの自由進度学習のさらに上をいくものではないでしょうか。
私は、この『学習叢書 わが校の教育』にお名前のある先生の仕事をお手伝いさせていただきました。また、当時のこの学校で学んだ方から直接お話しを聴いたこともあります。本当に自由で、「今日何を勉強しようか」と友達と相談しながら登校していたそうです。
また、小原国芳は、
これも、1921年の八大教育主張講演会での講演をもとにしています。小原国芳の玉川学園でも、こうした時間割をなくして、前段にあるように個に応じた学びと後段の自由進度的な学びが実現されていました。
このように、今の教育界で「新しい」とされている取組も、それぞれルーツが過去にあるのです。
それが、今まで何度も消え、そして提案されることが繰り返されてきました。
大正時代の新教育運動、戦後の新教育運動、そして今の教育(細かいのはまだまだあります)。
たまたま読んでいた本に大正新教育運動の地方でも普及について書かれていて、例えば手塚岸衛は栃木県出身なので、栃木では全県をあげて多くの教師が手塚の学校へ視察に行き、それぞれの学校で、その実践を取り入れていたそうです。そのような熱とエネルギーが当時はあったようです。
(手塚が設立したのが自由が丘学園で、その後、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」の舞台となったトモエ学園に引き継がれています)
それが、なぜ消えてしまったのでしょうか。
大正新教育運動については、戦前、軍部の圧力もあったようです。木下竹次も奈良高等女子師範学校附属小学校を軍部によって追放されました。
戦後新教育運動も這い回る経験主義との批判もされました。
ただ、それだけが原因なのでしょうか。
私は、その原因の一つに、教育観、授業観があるのではないかと思っています。
東井義雄も「『新教育』のおかした誤謬」と題して次のように述べています。
私は、本当にこの通りだと思っています。生活科や総合を批判する教師の多くは、知識だけの学力観と、それを教えるだけの授業観のように感じています。
そして、多くの教育者は、その授業観、教育観の転換を述べます。
例えば、林竹二は次のように述べます。
林が「いま」と言ったのは、一九七四年のことです。
斎藤喜博は、林竹二と波多野完治との鼎談で、次のように述べています。
中野重人先生は、生活科の実施の頃に、次のように述べました。
他にも、多くの教育者が授業観、教育観の転換を主張します。
福沢諭吉も「学校はものを教えるところにあらず」とまで述べます。
それでも変わらないのは、知識として「授業観、教育観の転換の必要」を理解していても、実際のところでは、東井義雄が指摘した「実践を実際に支配し、行動を現実に支えているものは、案外、古い教育観であり、古い授業観なのではないだろうか」となっているのではないかと感じています。
それは、大正時代ですが小原国芳も感じていたようです。
明石師範の及川平治の学校を訪問して、その通りに授業をしろというのですから、及川平治の主張を理解しているのか怪しいですね。
さて、この小原の主張に、私の今の教育への懸念が端的に現れています。
1つが、「この通りの授業をせよ」というところです。自由進度学習、個別最適な学び、そうした実践を形だけまねるということが、多く出てくるのはないかということです。
形式だけを取り入れて、実際の子どもは置き去り、というようなことです。2つめが、「録音機には教育は出来ませぬ」です。大正時代にも、こう言われているのですが、今は、そのまま「動画」「ICT」に言い換えることもできそうです。
そうしたところからも、新しい取り組みを導入する前に、授業観、教育観を転換していかなければならないと思うのです。