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ICT教育を進めるときに考えたいこと:セサミストリートが示唆するもの

 世界で最も子どもに影響を与えた教育番組が、セサミストリートなのではないでしょうか。
 このセサミストリートの教育面で中心となったのが、発達心理学者でハーバード大学のジェラルド・レッサー教授です。
 私は、大学時代にレッサー教授の授業を受けました。講座名は、「Children's communication and media」だったように記憶しています。
 レッサー教授は、日本の教育番組の調査のため来日され、その際に私の所属していた新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)で半年だけ授業をもったのです。
 そういうこともありましたので、セサミストリートは肯定的に考えていました。

 セサミストリートは、科学的な実証データをもとに番組作りが進められています。
 しかしメディア研究者の浜野保樹は、それについて「科学的実証データをもとにするということは、言い換えれば子どもが生理的に反応してしまうものを基準として番組を作るということである。理性的に制御できるものは除かれてしまうきらいがある」と指摘しています。
 つまり子ども自身に関心があるかないかよりも、生理的につい見てしまう、CMなどで使われている手法を応用して番組作りがされていたということです。
 私もYouTubeなどのサムネイルのおかげで、関心よりも生理的に見てしまっていることが多々あります。きれいなお姉さんだったり、いるはずがない巨大な生物だったり、私が見ようと思っていないものでも、ついクリックしてしまいます。

 これは、「アメリカは多様な文化を持つ社会なので、共通の言語や教養を前提にできず、人間の最も根源的な生理的反応を前提にして、映像が作られる」(浜野)ためでもあるようです。
 そしてそれは、「視聴者である子どもを映像的おもしろさの奴隷にすることにほかならない」と浜野は批判します。

 『セサミ・ストリート』が番組で行っている学習面での配慮の行き着く先は、努力しないなまけ者の学習の姿である。そこには、何もしないで学べることこそが最も望ましいという思想が存在していることは否定できない。(中略)「最小の努力で最大の効果」ということを教育の場面でつきつめれば、注射器のようなもので知識を注入できればそれでよいということになる。しかし、現実には、何の努力もなしに知識を注入できる技術などというものは存在しない。(中略)
 『セサミ・ストリート』では実験データを元に、いたれりつくせりの配慮を行う。努力なしのシステムにする。すべての疑問に答えるようにできるかぎり番組だけで完結させる。後で調べようとか、友達に聞いてみようとかいった余分な努力はさせない。その内容を考えないでいれなくするのではなく、分かったような気分にさせる。学習を誘発するのではなく、完結させるようにしている。できるだけ無駄を排除し、自らが学ぶ文脈がそぎ落とされていくのである。

『マルチメディアマインド』

 浜野保樹は、メディア論の研究者で教育の専門家ではありません。それでも、ここで指摘されていることは、的確で、多くの示唆に富みます。

 これから導入が進むデジタル教科書等のICTを取り入れた教育でも、こうしたセサミ・ストリートと同じようになる可能性もあります。

 もちろん、セサミストリートに価値が無いということではありません。
 実際に、計量的に測定できる範囲では意図通りの効果を上げてもいます。さらに学校へ通えない子ども、様々な理由で学びから排除されてしまっている子どもなどの救いになっていたでしょう。

 ただ、学校教育では、学習者が「おもしろさの奴隷」にならないように配慮しなければならないと考えるのです。

 生理的に反応して学習しているのは、「主体的な学習」とは言えるのでしょうか。
 「効率的な学習」が、本当に子どものためになるのでしょうか。

 こうしたことについて改めて考える必要があるのだと思っております。


本稿は、拙著『よい授業とは何か』(学文社)の一部に加筆修正したものです。

引用文献
浜野保樹 『マルチメディアマインド: デジタル革命がもたらすもの 』 ビー・エヌ・エヌ、‎ 1993年


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