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自己表現という深い沼を泳いで
私たちはこの沼をどう泳げば良いのか。きっと誰もが迷いに迷って、時に溺れそうになりながら、この沼の魅力に魅せられている。
そう、私がハマっているのは自己表現という沼だ。
このnoteという場所で出会う人々は、同じ沼で泳いでいる同志なのではないかと思っている。
何かを書くこと、表現することは1人でもできてしまう。たった1人で、誰に見せなくても完結はできるのだ。
それでも、何らかの方法で世に送り出すということの意味。
そこには他者の反応が存在する。
自分の生き方や、考え、こうありたいという思い、それを一つの表現に詰め込む。その詰め込んだ思いが誰かに届き、波紋となる。
波紋と波紋が交わり、新しい出会いも生まれる。
その波紋が大きかろうと、小さかろうと、私たちは泳いでいる沼にできたその波紋を見て、またこの沼の深いところへ潜って行くのだ。
時に、しんと静まりかえる沼に心がざわめく。
時に、自分の心にさえも波立たず、何も生み出せない苦しみにも出会う。
それでも私たちは自分が作り出す美しい波紋を見たくて、この沼を泳ぎ続けているのだろう。
そこには自分の中に閉じ込めてきた想いや、誰にも言えなかった出来事も一緒に詰まっている。
泳ぎ疲れて、沼辺で休む人もいる。
別の沼に移る人もいる。
溺れてしまう人もいる。
そう、私は一度溺れてしまった人間だ。
ここではない別の場所で生きていた。
作り出した波紋が富となり、それで生活できるところまで泳いでいた。
沼を泳ぐ身としては、この上ない幸せだった。
幸せに満ちていた。
しかし、この沼には魔物が住んでいる。
他者の反応という波紋は、その美しさに魅せられることもあれば
それが大きな渦となって飲み込んでくることがある。
心無い言葉。
そういう渦がある。
どんなに小さな渦でも、一度そこに飲み込まれると自分自身の心もまた、その渦を大きくする一因となる。
私はその渦に抗えず、その沼を離れることにした。
そして誰かの沼を覗くことも無くなってしまったのだ。
ただひたすらに
誰の沼も覗かない生活。
沼に近づかない生活。
それで良いと思っていた。
思っていたのに
私はこのnoteという沼でまた泳ぎ出した。
長い長い空白の期間を超えて
また沼で泳ぎ始めた。
他の人の温かい沼を覗き
誰かの熱い思いと、その大きな波紋に心を揺さぶられ
この沼の魅力にまた魅せられていく。
自分の作る波紋だけではない。
誰かの作る波紋は生きる力になる。
あわよくば
自分の波紋もそうであってほしい。
そんな想いを胸に、私は今日もひっそりと沼にひたり、泳ごうとする。
私の波紋を綺麗だと言ってくれる、その一言に支えられ、またその深くを覗こうとするのだ。