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【フィールドノート】子どもと自然との関わりについてのフィールドノート始めます。―「遊ぶ」「学ぶ」「居る」をキーワードに―
自分自身のことって、よくわかりそうで、わからない。だって、身体を映す鏡はあっても、心を映す鏡はないのだ。
かたつむり見習いがライフワークなことには違いないのだけれど、もうちょっとマジメ(?)に考えて、最近になってようやく、自分が探求していることが見えてきた気がする。ざっくりイメージ図を描いてみたら、こんな感じになった。
理論的テーマとしては、人(子ども)が「遊ぶ」「学ぶ」「居る」ときの自然との
かたつむりとかなしみ
かたつむりという生きものを、人間の感情にたとえるなら、かなしみという感情にもっとも親和性があるかもしれない。
『ごんぎつね』で知られる児童文学作家、新美南吉の童話の1つに『でんでんむしのかなしみ』という作品がある。主人公のでんでんむしは、自分の背中の殻の中にかなしみがいっぱいつまっていることに気づき、嘆く。そして、友達にそのことを話すと、友達の殻の中にも、同じようにかなしみがいっぱいつまってい
ふと、ウクライナの自然が気になる
せっかく現代はインターネットがあるのだから、どこかでシェアされるあやしげな情報戦に巻き込まれるのではなく、そこにある自然や、人々の暮らしに自分から触れたい。
カタツムリ関係で、ウクライナ北部の写真家、ヴャチェスラフ・ミシチェンコさん。
ネット上でよくシェアされたので、リンク先のファンタジックな写真には見覚えのある人もいるんじゃないだろうか。
あまりに幻想的過ぎて、作り物感がしてしまうくらい。
童謡『かたつむり』の「ヤリ」を恋矢だと言うのはもうやめて
童謡「かたつむり」の歌詞「ツノだせ ヤリだせ 頭だせ」について、「ヤリ」を「恋矢(れんし)」のことだとする説があるが、それは違うだろうと私は思っている。
6月20日(日)放送のNHK『ダーウィンが来た!』では、童謡「かたつむり」の「ヤリ」が「恋矢」であるとする説がプッシュされていた。
『ダーウィンが来た!』は好きな番組だし、カタツムリを特集してもらえること自体はうれしいし、ほかの内容はとてもお
「片思い」から始まる子どもとの関係
直前まで一緒に遊んでいても、何かあるとすぐ「お母さんがいい」と言い出す。
朝起きたときに母親がおらずに私だけだと、泣いてしまう。
困ったときには頼ってくれない。
ときどきふと、父親って何なのだろうと思う。(ため息交じり)
●
生まれたばかりの赤ん坊は、自他の区別があいまいだとされる。
それは無理もないことだ。
だって、いきなりこの世に生まれ出てきて、情報処理の仕組みもできていないのに、音や
私はここにいてもいい
私が端っこにいたことで、
誰かが「端っこもいいな」と気づいたかもしれない。
私が一人でいたことで、
誰かが「一人もいいな」と気づいたかもしれない。
好きなことを好きでいたことが、
誰かを救ったかもしれない。
自分のいる意味なんて、自分自身ではわからない。
誰かが勝手に気づくこと。
そして気づいた人だって、わざわざ教えてくれるわけではない。
土の上を歩けば足跡が残る。
そのくぼみは、小さな小
完全な生きものなんていない
吉野弘さんの「生命は」という有名な詩がある。一部を引用する。
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
(…続く)
一個
大きい強いだけじゃない
「男の子は、大きくて強いものが好き」
そんな一般論は、少なくとも少年時代の私には当てはまらなかった。
かたつむりが大好きで、ほかにも色々な生きものに興味があったけれど、強いことや大きいことばかり強調されている生きものには興味を惹かれなかった。
たとえば恐竜。
身近な生きものじゃないというのもあるけれど、当時子ども向けのメディアで紹介される恐竜は、ティラノサウルスに代表される恐竜の「大きくて強い
酔うと言葉が出なくなる謎
私は酔っ払うと、しゃべることができなくなる。
悩んでいるわけではないんだけれど、共感する人はいるのかなぁという興味本位で書いている。
もともと口数は少ないけれど、酔うと単に無口になるのではなく、思いを表現したくても言葉が出てこなくなる。
言葉が出せないことが無性に悲しくなってきて、涙が出ることもある。
呂律が回らないというのとはまったく違う。
イメージとしては、心の中に「考えるゾーン」と「し