九條です。
いまから1280年ほど前の天平13(741)年3月14日のこと[01]。
聖武天皇[02]は、各国に国分寺と国分尼寺を造ることを発願し、その思いを「国分寺建立の詔」として発布しました[03][04]。
その聖武天皇の願いを読み解いてみたいと思います。
原文は漢文ですが、読み下してみると非常に美しくリズミカルで格調高い古代日本(奈良時代)の文章です。お時間がお有りの時にでも、ぜひ味わってみてください。
ですから今回の「読み下し」は、いつもよりかなり丁寧に「ふりがな」をつけてみました。^_^
※なお、今回の講読内容は、去る2024年1月18日に投稿した以下の【古代史 基礎講読 02】『聖武天皇のこころ ~大仏造立の詔~』よりも少しだけ難しくなっています。ですから今回は「読み下しのための基礎的な語句解説」もつけてみました。^_^
今回の聖武天皇の「国分寺建立の詔」は、日本史(とくに古代史)においては基礎的な文献のひとつとなっています。「大仏造立の詔」よりもメジャーな文献です。
では、早速…。
【註】
[01]平安期の『類聚三代格』に拠れば二月十四日
[02]第45代天皇。平城宮または紫香楽宮か?/741(天平13)年9月には恭仁京(山背国相楽郡/京都府木津川市)京域に左京右京を定めたが結局この恭仁京は完成することはなかった
[03]『続日本紀』天平十三年三月乙巳条
[04]律令下においては基本的には天子による臨時の意思表示を「詔」とし、常時ものを「勅」とした(『令義解』による)
[05]国史大系版『続日本紀』(前編)吉川弘文館 1974
[06]天平九年十一月
[07]金光明最勝王経
[08]護世四王
[09]『金光明最勝王経』は古代において護国経典(国を護り国の民を護り平和と幸福をもたらす経典)とされていた
[10]『妙法蓮華経』(略して『法華経』)は古代において『薬師経』とともに滅罪経典(人々の罪や穢れの一切を消滅させる経典)とされていた。なお古代を通して見ると『妙法蓮華経』よりも『薬師経』のほうが重んじられていたと言える
[11]国分僧寺。国分寺(正式名:金光明四天王護国之寺)のこと
[12]国分尼寺(正式名:法華滅罪之寺)のこと
※1997年に行なった市民講座向けの講義ノートから抜粋・編集しました。
©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
剽窃・無断引用・無断転載等を禁じます。
【これまでの講読】