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【古代史 基礎講読 06】我が国最初で最後の宗教戦争 〜丁未(ていび)の乱〜
九條です。
今回の講読も少し長い(本文約8,500文字/現代語訳のみで約2,600文字)です。すみません。^^;
長いですから、お時間がお有りの時にでもご覧になってくだされば有り難いです(現代語訳だけをご覧いただいても良いかと思います)。
さて、我が国の歴史上において、最初で最後の「宗教戦争」といえる争いが丁未の乱です。この乱は飛鳥時代、いまから1430年ほど前の用明天皇二年(587年)に起こりました。
我が国に仏教が伝来したのが宣化天皇三年(538年)もしくは欽明天皇十三年(552年)とされていますから[01]、丁未の乱は仏教公伝後35〜50年後に勃発した内乱となります。
『日本書紀』などでは(当時の最先端の大陸・朝鮮半島の文化を吸収したいとして)仏教導入に積極的であった大臣・蘇我氏および厩戸皇子を中心とした上宮王家(いわゆる崇仏派)と、我が国古来の伝統にもとづいた神道を重んじ、仏教を遠ざけようとした大連・物部氏一族(いわゆる排仏派)との争いのような体裁をもって書かれていますが、その実態は(宗教的・文化的理念の衝突というよりも)それまでの政治的な衝突、苛烈な権力闘争の末での戦であったと考えられます。
この「丁未の乱」と「乙巳の変」そして「壬申の乱」は、我が国の古代史上特筆すべき三大事件ですね。
とくに今回講読する丁未の乱については『日本書紀』作者の筆が乗っていて非常に勢いのある文体となっています。『日本書紀』の中でも非常に面白くて大きく盛り上がっているシーンです。よろしければ味わってみてください。
今回の「読み下し」は、いつもにも増して丁寧に「ふりがな」をつけてみました。このあたりは約35年前に私が卒業論文を書いたという、想い出深く私が好きなテーマなので。^_^
では、早速…。
【原文】
崇峻天皇記〔即位前紀〕
泊瀬部天皇 天國排開廣庭天皇第十二子也 母曰小姉君 稻目宿禰女也 已見上文也 二年夏四月 橘豐日天皇崩 五月 物部大連軍衆 三度驚駭 大連 元欲去餘皇子等而立穴穗部皇子爲天皇 及至於今 望因遊獵而謀替立 密使人於穴穗部皇子曰「願與皇子將馳獵於淡路」謀泄
(中略)
六月甲辰朔庚戌 蘇我馬子宿禰等 奉炊屋姫尊 詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞噛曰「汝等 嚴兵速往 誅殺穴穗部皇子與宅部皇子」是日夜半 佐伯連丹經手等 圍穴穗部皇子宮 於是 衞士先登樓上 撃穴穗部皇子肩 皇子落於樓下走入偏室 衞士等舉燭而誅 辛亥 誅宅部皇子宅部皇子 檜隈天皇之子 上女王之父也 未詳 善穴穗部皇子 故誅
甲子 善信阿尼等 謂大臣曰「出家之途 以戒爲本 願 向百濟學受戒法」是月 百濟調使來朝 大臣謂使人曰「率此尼等 將渡汝國 令學戒法 了時 發遣」使人答曰「臣等歸蕃 先※道+口(道の下に口)國主 而後發遣 亦不遲也」
秋七月 蘇我馬子宿禰大臣 勸諸皇子與群臣 謀滅物部守屋大連 泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀※手+它(手へんに它)夫・葛城臣烏那羅 倶率軍旅 進討大連 大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵 從志紀郡到澁河家 大連 親率子弟與奴軍 築稻城而戰 於是 大連昇衣揩朴枝間 臨射如雨 其軍強盛 填家溢野 皇子等軍與群臣衆 怯弱恐怖 三廻却還
是時 廐戸皇子 束髮於額古俗 年少兒年十五六間束髮於額 十七八間分爲角子 今亦爲之而隨軍後 自忖度曰「將無見敗 非願難成」乃※昔+斤(昔の右側に斤=斬)取白膠木 疾作四天王像 置於頂髮而發誓言白膠木 此云農利泥「今若使我勝敵 必當奉爲護世四王起立寺塔」蘇我馬子大臣 又發誓言「凡諸天王・大神王等 助衞於我使獲利益 願當奉爲諸天與大神王 起立寺塔流通三寶」誓已嚴種種兵 而進討伐
爰有迹見首赤檮 射墮大連於枝下而誅大連并其子等 由是 大連之軍忽然自敗 合軍悉被※白+十(白の下に十=黒い)衣 馳獵廣瀬勾原而散之 是役 大連兒息與眷屬 或有逃匿葦原改姓換名者 或有逃亡不知所向者 時人相謂曰「蘇我大臣之妻 是物部守屋大連之妹也 大臣妄用妻計而殺大連矣」平亂之後 於攝津國造四天王寺 分大連奴半與宅 爲大寺奴田庄 以田一萬頃 賜迹見首赤檮 蘇我大臣 亦依本願 於飛鳥地起法興寺
(中略)
〔即位〕
八月癸卯朔甲辰 炊屋姫尊與群臣 勸進天皇即天皇之位 以蘇我馬子宿禰爲大臣如故 卿大夫之位亦如故 是月 宮於倉梯
【読み下し】
崇峻天皇記〔即位前紀〕
泊瀬部天皇は、天国排開広庭天皇の第十二子なり。母は小姉君と曰ひたまふ。稲目宿祢の女なり。已に上文に見えて也り。
二年夏四月。橘豊日天皇崩。五月。物部大連の軍衆、三度驚駭。大連、元より余皇子等を去けて穴穂部皇子を立たして天皇と為さむと思へり。今に及び至りて、猟に遊ぶことに因りて謀に替へ立つらむと望みて、密かに穴穂部皇子に使人をつかはして曰さく「願はくは皇子と与に淡路に馳せ猟をせむとしまつる」とまをして謀泄りき。
(中略)
六月甲辰を朔とする庚戌。蘇我馬子宿祢ら、炊屋姫尊を奉りて佐伯連の丹経手、土師連の磐村、的臣の真噛におほせごとして曰ひしく「汝たち、兵を厳へて速やかに往きて穴穂部皇子と宅部皇子とを誅殺せ」といひき。是の日の夜半、佐伯連丹経手ら穴穂部皇子の宮を囲む。於是衛士先に楼の上へ登りて穴穂部皇子の肩を撃ちき。皇子、楼の下に落ちて偏の室に走り入りて、衛士ら燭を挙げて誅しき。
甲子。善信の阿尼ら、大臣に謂して曰はく「出家の途、戒を以ちて本と為す。願はくは百済に向ひて戒の法を学び受けむ」とまをす。是の月。百済の調の使い来て朝。大臣使人に謂ひて曰ひしく「此の尼たちを率て、将に汝が国に渡して戒の法を学ば令めむとす。了りたる時に発遣たむ」といひき。使人答へて曰ししく「臣ら蕃に帰りて、先ず国の主に※道+口(道の下に口)はむ。而る後に発遣てど、亦た不遅」とまをしき。
秋七月。蘇我馬子宿祢の大臣、諸の皇子と群臣とに勧めて物部守屋大連を滅すことを謀りて、泊瀬部皇子と竹田皇子と厩戸皇子と難波皇子と春日皇子と蘇我馬子宿祢大臣と紀の男麻呂宿祢と巨勢臣の比良夫と膳臣の賀※手+它(手へんに它)夫と葛城臣の烏那羅と倶に軍旅を率て、進みて大連を討つ。大伴連噛と阿倍臣人、平群臣神手と、坂本臣糠手と、春日臣(名の字を欠く)と、倶に軍兵を率て志紀郡従渋河の家に到れり。大連、親ら子弟と奴との軍を率て稲城を築きて戦へり。於是に大連、衣揩の朴の枝間に昇りて臨みて射ること雨の如し。其の軍強く盛りて、家に填ち野に溢る。皇子等の軍と群臣の衆と、怯弱え恐怖《おそ》れて三廻却還きつ。
是の時、厩戸皇子、額に束髮し、(古俗年少児の年十五六の間、額に髪を束ねる、十七八の間分ちて角子と為す。今亦た之を為す)。軍後に隨ひて、自ら忖度りて曰ひしく「将に見敗らゆること無かりて、願ひ成り難きこと非ざるべし」とのたまひき。乃白膠木を※昔+斤(昔の右側に斤=斬)り取りて疾く四天王の像を作りて頂髮に置きて誓を発して言ししく「今、若し我をして敵に勝た使めたまはば、必ずや当に護世四王の奉為りて寺塔を起立つべし」とまをしき。蘇我の馬子の大臣、又た誓を発し言ししく「凡そ諸の天王大神王等、我を助け衛りて利益を獲さしめたまへ。願はくは当に諸の天と大神王との奉為寺塔を起立てて三宝を流通くべし」とまをしき。誓ひを已へて種々の兵を厳へて進め討伐ちき。
爰に迹見首の赤檮有りて大連を枝の下に射墮して大連と其の子らを并せて誅しき。是こに由りて大連の軍忽然に自ら敗れつ。合りし軍は、悉く※白+十(白の下に十=黒い)衣をもて被ひて広瀬の勾原を馳せ猟して散れき。是の役に、大連の児息と眷属とは、或葦原に逃れ匿れて姓を改め名を換ふる者有りて、或逃げ亡せて向ふ所を不知者有り。時の人相謂ひて曰ひしく「蘇我の大臣の妻は、是れ物部の守屋の大連の妹也り。大臣妄しく妻の計を用もちひて大連を殺せり」とかたらひき。乱れを平之後に摂津国に四天王寺を造れり。大連の奴半ばと宅とを分ちて、大寺の奴田庄と為す。田一萬頃を以ちて迹見首赤檮に賜る。蘇我の大臣、亦た本願に依りて飛鳥の地に法興寺を起せり。
(中略)
〔即位〕
八月癸卯を朔として甲辰。炊屋姫尊と群臣、天皇に勧進天皇之位に即きたまはしむ。蘇我馬子宿祢を以ちて大臣と為したまひしこと、故の如し。卿大夫の位、亦た故の如し。是の月、倉梯に宮したまふ。
【現代語訳】
崇峻天皇記〔即位前紀〕
崇峻天皇(泊瀬部天皇)は、欽明天皇(天国排開広庭天皇)の第十二皇子です。母は小姉君と言われています。この小姉君は蘇我稲目の娘です。このことは先述した(欽明天皇記で述べた)通りです。
用命天皇(橘豊日天皇=崇峻天皇の兄)二年の夏の四月。用命天皇が崩御されました。翌五月に物部守屋を筆頭とする物部氏一族の反乱が3度もありました。物部守屋は以前から他の皇子たちを退けて穴穂部皇子を立太子させ天皇の位につかせようと企んでいました。
守屋はこの期に及んでついに穴穂部皇子を狩りに誘うことを口実として皇子を淡路へ呼んで皇位につかせることを企て、密かに穴穂部皇子に使いを遣わし、
「私、守屋は穴穂部皇子さまとともに狩りを楽しみたいと思っていますので、どうか淡路までお出ましくださいませ」
と嘘の誘いをしました。しかしこの物部守屋の謀はバレてしまいました。
(中略)
六月。蘇我馬子らは炊屋姫尊を奉って、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛らに以下のように命令しました。
「みなの者、兵を集めて速やかに穴穂部皇子と宅部皇子とを討つべし」
この日の夜中になって、佐伯連丹経手らの兵は穴穂部皇子の住む宮を囲みました。まず兵士は楼閣の上へ登ってそこに居た穴穂部皇子の肩を弓で撃ち抜きました。穴穂部皇子は楼閣の下へ転げ落ちて、その側に建っていた建物の中へ走り込んで逃げたのですが、兵士らは明かりを灯して穴穂部皇子を討ち取りました。
甲子。尼僧の善信(善信尼)らは、蘇我馬子に対して、
「出家者は仏教の戒律を守ることを根本とします。馬子さま、お願いします。私は百済国へ渡って仏教の戒律を学びたいと願っています。私を百済国へ派遣してください」
と願いました。ちょうどこの同じ月に百済国から朝貢の遣いが我が国に来ていて、天皇にご挨拶をしていました。蘇我馬子はその遣いの人に、
「善信尼たちを連れてあなたたちの国(百済国)へ帰り、彼女たちに仏教の戒律を学ばせてやってくれないでしょうか?」
と言いました。朝貢の人は、
「まず私たちが百済国に帰って、百済国王にこの件について許可を得なければなりません。勝手に日本の尼僧を百済国に連れて帰ることはできません。百済国王の許可が下りてからでも遅くはないでしょう」
と答えました。
秋の七月。蘇我馬子は、諸皇子・群臣たちを集め、物部守屋を征討する計画を明かしました。泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)と竹田皇子と厩戸皇子(聖徳太子)と難波皇子と春日皇子と蘇我馬子と紀男麻呂祢と巨勢比良夫と膳賀※手+它(手へんに它)夫と葛城烏那羅とともに兵を率いて物部守屋を討つという計画です。
大伴噛と阿倍人[03]、平群神手と、坂本糠手と春日臣(名の字を欠く[04])らとともに兵を率いて志紀郡[05]の渋河[06]の守屋の邸宅に到着しました。守屋はみずから一族の兵を率いて稲城[07]を造って戦いました。
物部守屋は衣揩[08]の朴の二股になった部分によじ登って矢継ぎ早に弓で矢を雨のように放ちました。守屋一族の軍勢はたいへん多くてしかも相当強く、巷の家に満ち野に溢れるようでした。蘇我馬子の率いる皇子や群臣たちの兵は物部守屋一族の兵のあまりの強さに怯え、恐れおののいて3回も後退してしまいました。
この時、厩戸皇子(聖徳太子)はまだ少年でしたが、髪の毛を束ねて蘇我馬子の軍勢の殿に控えていました。厩戸皇子はみずからこの劣勢で窮地に陥った戦況を見て、
「将に見敗らゆること無かりて、願ひ成り難きこと非ざるべし」
と言われました。
そしてすぐに白膠木の木を切って四天王の像を造りそれを頭の上に置いて、
「(仏教の守護神の護世四王[09]よ)いま、もし私を物部守屋の軍に勝たせてくだされば、必ずあなたたちへの感謝のしるしとして寺を建てます」
と誓願されました。これに倣い蘇我馬子も、
「全ての天の王、大いなる神の王たちよ。お願いします。私を助け守ってください。まさに全ての天の王、大いなる神の王たちために寺を建てて三宝を興隆させます」
と誓願しました。この誓願を終えて馬子らは三たび兵を整えて進軍を開始しました。
そのときです。迹見赤檮という人が物部守屋を弓で射抜きました。守屋の子らも併せて征討しました。このことがあって物部守屋という主を失った守屋軍は忽ちに負けてしまいました。
守屋軍の兵士たちは悉く黒い布を纏って広瀬の勾原を逃げ回って散り散りになりました。守屋の息子たちや一族の人々は、あるいは葦原へ逃げ隠れて姓名を変えたり、あるいは逃亡して行方知れずとなった人たちもいました。
時の人たちは「蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であろう。馬子は妻の計略をもって物部守屋を滅ぼしたのだ」と語りました。
この乱が治まった後、厩戸皇子(聖徳太子)は先の誓願を守って摂津国に四天王寺を造りました[10]。
物部守屋一族の半分の人と彼の家を大寺の田庄としました。また田一万枚を褒美として迹見赤檮に与えました。
蘇我馬子もまた誓願を守って飛鳥の地に法興寺を建てました[11]。
(中略)
〔即位〕
八月。炊屋姫尊と群臣たちは泊瀬部皇子に天皇の位につくよう勧め、天皇(崇峻天皇)は即位しました。
もとのように蘇我馬子を大臣とし、その他の官人たちもまた、もとの如くに任官しました。
この月、天皇は新しく倉梯宮を宮としました。
【註】
[01]このとき伝わった仏教の内容は(南都六宗のうちの)三論宗の断片だったと考えられる。三論宗の法灯は日本では現存しない。現存する日本最古の宗派は(南都六宗のうちの)法相宗
[02]国史大系版『日本書紀』(前編)吉川弘文館 1973年
[03]「人(ひと)」という人名
[04]名前の文字が欠けている
[05]現在の大阪府藤井寺市・同八尾市・同和泉市辺りにまたがる地域
[06]現在の大阪府八尾市渋川町あたりか?
[07]古代において急襲に遭ったときに藁や草木や石などで急いで造った急ごしらえの砦
[08]染色に用いる木。現在も大阪府東大阪市に「衣摺」の地名が残っている
[09]「護世四王」四天王の古称・別称
[10]「摂津国四天王寺」現在の大阪市天王寺区の四天王寺
[11]「飛鳥法興寺」現在の奈良県明日香村の飛鳥寺
※1999年に行なった市民講座向けの講義ノートから抜粋・編集しました。
©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
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