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【おすすめ読書】「ケア」を見つめ直す3冊

オンラインカウンセリングサービス「mezzanine(メザニン)」の広報室が紹介するおすすめ読書。

今回のテーマは「ケア」。

「ケア」という言葉を『広辞苑(第五版)』で調べると、
① 介護、世話
② 手入れ
という意味だとされている。

だが、今回注目する「ケア」は、より広範な意味を持つ言葉として扱われる。

ケアへの注目の高まりは、近代以降に広がった合理主義的な人間理解/世界観からデザインされてきた「制度」や「社会」のあり方に対する疑問の投げかけでもある。


岡野八代『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』(岩波書店)

「ケア」について、なぜメザニンという心理カウンセリングサービスが取り上げるのか。その理由は、「ケアの倫理」が発達心理学から生まれた概念だからだ。

本書は、第二次世界大戦後から続く女性たちの社会運動を辿りつつ、それと「ケアの倫理」の提唱者キャロル・ギリガンの結びつきを丁寧に解説する。

キャロル・ギリガンは講師として、ハーバード大学で発達心理学の大家エリク・エリクソンの講座の一つを担当していた。
その後、道徳性発達理論の権威ローレンス・コールバーグと共同研究を実施するのだが、次第に従来の発達心理学の欠陥に気づいていく。

コールバーグが打ち立てた道徳性発達理論では、人間は成熟することで、より普遍的な正義の原理(例えば法律や慣習)に則って判断することを当然視するようになる、としてきた。
つまり、成熟した大人は「正しさ」を元に行動するようになるよ、ということだ。

しかし、女性たちはこれに当てはまらず、公的機関に頼る前に友人や隣人に相談したり、そのような行動を起こすことで人間関係にどのような影響を及ぼしうるのか、といったことを気にかける。

コールバーグの理論では、「正しさ」に基づかない行動をとることは「未成熟」とされるが、ギリガンはこれに疑問を投げかける。

ギリガンは、女性たちの「相談する」「人に頼る」「人間関係を気にする」といった行動ではなく、そうした行動を導き出す彼女たちの”道徳観”に目を向けるべきだと主張し、男性(中心の)社会が規範としてきた「正義の倫理」に対して、「ケアの倫理」もこの世界には存在していることを明らかにした。

ギリガンが提唱したことで始まった「ケアの倫理」に関する研究は、エヴァ・フェダー・キテイ、ジョアン・トロントといった後続の研究者、フェミニストに引き継がれていく。


東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)

気鋭の臨床心理士による、ケアの不思議を紐解く一冊。

まず、筆者の東畑さんは「ケア」と「セラピー」について整理する。
医師や心理士が病院やカウンセリングルームといった非日常的な空間・時間を設けて取り組む行為は「セラピー」、
反対に、日常の中で様々な困りごとに対処していくことは「ケア」とされる。

キャロル・ギリガンの後に「ケアの倫理」の研究に取り組んだ哲学者のエヴァ・フェダー・キテイは、おむつを変えるとか、車で送迎するといった日常の困りごとに対処する”素人仕事”を「依存労働」と名付けた。

依存労働は、「誰かのお世話を必要とする人」をケアする仕事だ。

これらはプログラミングとか、インサイドセールスとか、映像制作といった現代社会で金銭的な報酬が発生するような「労働」とは異なり、そこまで専門化していない。やろうと思えば誰でもできる。
そして、サービス化されたとしても、労働に対してその対価は低くなる傾向にある。なぜだろうか。

現代社会は、個人を「自立・自律」した存在と定義することで成り立っている。そこでは、誰かに依存することは「良くない事」とされる。

しかし、実際には誰かのお世話にならずに生きていけている人間は一人としていない。

生まれた時から人間は他の生物と違って歩行できないし、栄養を補給することもできない。自立することを良しとする社会では、人が実際には依存していることが不可視化される。

沖縄のデイケアに臨床心理士として志高く向かった東畑さんは、実際には自分が何かを「する」ことがそれほど求められておらず、むしろそこに「居る」ことが求められる現実に困惑する。


中西正司、上野千鶴子『当事者主権』(岩波書店)

フェミニズム、福祉のそれぞれの領域で「ケア」をめぐる議論をのぞいてきた。
最後は「ケアされる」人たちの権利について、考えてみる。

本書のタイトルでもある「当事者主権」とは、本書の表現を借りれば「私のことは私が決める」ということであり、そうした権利が女性や障がい者、子ども、性的少数者は奪われてきたということを訴える。

なぜ自分のことを自分で決める権利が奪われ、他人に「あなたに必要なのはこれでしょう」と決めつけられてしまうのか。
それは、先ほど紹介した社会の仕組みの前提となっている幻想、「自立・自律した個人」という発想によるものだ。

自立できていない、誰かの世話を必要とする人間は、自分のことを決める能力が無いと判断される。
そうして「あなたのため」という言葉と共に、当事者から自己決定権が奪われてきた。

自助能力を失うことは意思決定能力を失うこととイコールではない、という当たり前の事実が、長い間見過ごされてきた。

そうして、「支援者」や「専門家」は、ときに当事者の権利を奪ってきた。

例えば、心理士は心理学、臨床心理学を学び、カウンセリングや心理検査の技法に習熟している。その「専門性」が、発言に対して権威性を纏わせることは必然だ。

医療現場において、医師が患者に事前に治療方針を説明することを義務付けた「インフォームド・コンセント」は、専門家の専制体制を変えて、専門家と当事者による共同決定へとシステム転換を起こしている。

当事者の主体性が尊重される、そんな社会システムへの変化が求められている。


文:メザニン広報室


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