『星言葉』 この星の言葉には、力がある
『星言葉』。
『星言葉』という題名の本を、駅前の書店で見つけた。
この書店には、女子パウロ会の本を集めた小さなコーナーがある。
上の方の棚の狭いコーナーで、気がつかない人も多いかもしれない。
その中にあった『星言葉』は、晴佐久昌英さんという、カトリックの神父さんの本である。
「愛する、謝る、待つ、病む、死ぬ・・・・・
この星に生まれたあなたへ、きょうを変える50の動詞(ことば)」
そのまえがきには、
「見る」なら、ありのままを見たい。「聞く」なら、耳を澄ませてとことん聞きたい。毎日の生活の中での何気ない「食べる」「語る」「遊ぶ」「愛する」をもっとちゃんと楽しんで、この星を悔いなく充分に生きたい。
と書いてある。
偶然にも昨日読んでいた、辻説法で有名なあるお方の本に、
「はっきりとした心で生きること」
という言葉があって、頭に残っていた。
流すように仕事するのではなく、意識的にやるということだろうかと解釈して、私も心がけてみようと、朝、思い出していたところだった。
神父さんが書いたのに、この本には「神」という言葉は出てこない。
この星を生み育て、今も創造し続けている、いのちの源。このぼくを生み育て、今も愛している、まことの親。それを安易にひとこと「神」と呼んでしまうのでは、そのすばらしさを分かち合えない気がする。
しかし、神の愛についての本であるとことが面白い。
分かち合うのは、信仰を持たない人とも分かち合いたいから、という意味である。
「感じる」という動詞(ことば)の冒頭は、常日頃、私が考えていることだった。
学校は、考え方は熱心に教えるけれど、感じ方についてはどうなのだろう。
感じる力の重要性を教え、実際に感じる喜びを育む授業はあるのだろうか。読み方書き方計算の仕方、歴史の見方や科学の方法といった「頭で考える」と共に、存在の神秘や出来事の意味、愛の力や他人の痛みを「心で感じ取る力」を養い育てることは、教育の根源的課題であるはずだ。
感じる力をなおざりにして、考える力だけを育てると、どうなるか。
その1
オリジナルな思考やユニークな発想が生まれない。
考えるとは、ある特定の枠組のみの中で論理的な結論を得ることでしかない。
偉大な発明をした科学者や独自の思想を打ち立てた哲学者は、考える以上に、自分や宇宙をオリジナルに感じ取る力に優れていた。
その2
孤独になる。
考える力というのは抽象する力なので、生身の人間と向かい合うときにはあまりに無力だ。
自己の存在の重みを感じ、具体的な相手の生きる世界やその気持ちを感じる力だけが、深いところで人と人を結ぶのである。
その3
その1とその2の結果、生きる喜びがもてない。
オリジナルな自分が希薄で、他人との共感が希薄なのだから当然だろう。
自分自身がどう感じたか、それをどう表現するかがその人らしさのすべてであり、「人間」の喜びや感動は、そんな個性あふれる「人と人の間」にこそ生成するのだから。
まとめると、以上のような内容であった。
読んだことで、スッキリした。
「子どもが絵を描くこととは?」
と考えていたこともある。
この本にも、呼ばれたかな・・・と嬉しくなった。
考えることと感じることは本来、切り離すことのできない、人間らしさの象徴であるはずだ。そんな人間らしさを持たない若者が増えているとするならば、その原因の多くは、感じる教育の欠如にある。
「この星の言葉には、力がある。」というまえがきの言葉。
星言葉の受け手は、その『力』を受け取れる感性を持っていたいと思った。
『星言葉』として、自分の言葉が話せるように。