お茶のお稽古では、亭主となって自分が点前をする(お茶を点てる)時間の他、 人のお点前を拝見させてもらう時間があります。 この人のお点前を見るのも大事なお稽古のひとつです。 見取り稽古といいます。 私はこの見取り稽古がとても好きです。 足運びから始まって、道具の扱い、お茶を点てて出し、お茶碗を取り込んでから片付けまで、ご亭主になった気分で、ついついじっと見つめてしまいます。 ご亭主の足運びや道具のあしらいを見ながら、自分も同じ動作をしている気持ちになる。集中しているのになぜかリ
『数学する身体』 著者:森田 真生 氏 数学には苦手意識しかないから、そもそも書店では手に取るはずのない本なのだけど、著者の対談記事を読み、興味を持って購入。 読み終えての感想。 恐らく、私は今後何度もこの本を読み続けるだろうと思う。 人の「心」というものを私はどう捉えるか、それを考える上で大切な取っ掛かりがこの本にはあるような気がしている。 前段、数学は頭の中・脳の中にとどまるものではなく、身体性・肉体性を持つもの、更には社会的文脈にも関わることが述べられる。数学的な
茶道を習っています。 子どもの頃母から習い、また最近になって別の先生に入門して5年半です。 一緒に習う方は、年上、ご年配の方も多いです。 茶道をやった経験のない方も多く、所作を覚えるのにご苦労する方も多いです。 心の迷いや声が実際に口に出てしまう方もあり(ごめんなさい)、正直にいうと静かにやってほしいと思うこともあります。 しかしある時、その方のお点前される手がとても優しいことに気づいてしまいました。隠れていた個性でした。 自分が見えている部分だけが、相手の全部ではない
こうして文章を書く練習のため、そして自分なりの発信の仕方を模索するため「とにかく書いてみよう」と思ってnoteに登録などしてみた訳だけど。実は登録する数ヶ月前から、投稿ネタの確保のため、いくつか文章を書き溜めていた。お気に入りのノートに手書きで書く、何ともない普通の事柄。後から後から言葉が出てきて、筆が止まらない。ノートの1頁分くらい、すぐに書けてしまう。会社員時代、書くことにものすごく苦労していたので、なぜこんなにもすらすら言葉が出てくるのか、おかしい、と訝しむほどであった
6年前に仕事を辞めて以来、子どものいない気楽な主婦として過ごしてきた。 気楽な主婦、というのは、おそらく周りから見ればそう見えていたであろう、ということであって、自分の内面は、怒りや苦しさが渦巻いて、まさに疾風怒濤、大嵐であった。6年かけ、様々な角度でこれまでの人生を見つめていくことで、私はゆっくりと回復し、心の内はちょっとずつ落ち着きを取り戻した。取り戻した、というかこの6年間は、私にまるで別の人生に生まれ変わったかのような明るさと落ち着きを与えてくれた。 そんな中、、、
童謡 赤とんぼの歌詞が好きです。 「夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か 山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか 十五でねえやは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた 夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」 (作者 三木露風) おそらく自分で気づいたことではなく、 どこかで読んだか、聞いたことだと思うのですが(詳細は記憶していません)、、 夕暮れ、目にした赤とんぼから、幼い頃の思い出の世界に入っていく。 歌詞の2番では、過去の
子どもの頃から本とか、書かれたものを読むのが好きです。 書かれたものを読むことで、知らない世界のことを知ったり、書いた人がどんな気持ちでこれを書いたのか考えたり、あるいは書いた人とはまったく関係のないところで、自分の心の中に深く入っていくことが出来るからです。 小説家の村上春樹は、書くことによって自分の考えを切り出していく、といったようなことをよく書いていると思いますが、私にとっては読むことによって、人の書いたテキストによって、場合によってはそこに書かれていることとは大きく離