【H】【用語理解】アイデンティティ・ポリティクス/ポリティカル・コレクトネス/キャンセル・カルチャー(下)
この記事は以下の記事の続きです。以下の記事の冒頭にこの記事を含む全体の要約があります。
3、ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャー
ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーは、アイデンティティ・ポリティクスがテーマとする各種の属性への差別の問題を、制度や権利に関わる政治問題から、言語表現の問題へと広げ、さらに普段の言動のような日常道徳の問題へと拡張したものである。
具体的には、ポリティカル・コレクトネスは、アイデンティティ・ポリティクスが取り扱うような各種の属性に関する「差別的」とされる表現を、差別的でないとされる「政治的に正しい(politically correct)」な表現に置き換えていく運動であり、転じて、日常の生活において差別的とされる表現を使ったり、差別的とされることを言ったりする人に対する批判の運動である。
キャンセル・カルチャーは、この後者の批判運動が過激化した形態であり、差別的とされる表現を使ったり、差別的とされることを言ったりする人に対して徹底的なバッシングを行い、その人の持っている仕事や職業上の地位をキャンセルしようとする運動である。
犯罪を行った人が刑罰を受けるのは当然だが、キャンセル・カルチャーは犯罪でなく刑罰が与えられないものに対して、その代わりに社会的な地位剥奪という制裁を加えんとする一種の私刑であるところに特徴がある。
これらはよく言えば、制度や権利に関わる問題を政治的に解決しても、いまだに社会に残存している差別(意識)を取り除こうとするためにアイデンティティ・ポリティクスの政治戦略を発展的に拡張するものである。
これらを悪く言えば、制度や権利という最も重要な部分の問題は解決され現実の状況も改善されつつあるのに、残存する相対的に瑣末な問題で騒ぎ立てて必要以上に問題を大きく見せ、誰かの問題点を攻撃することで政治的・道徳的な優位を確保し続けようとすることであり、アイデンティティ・ポリティクスの政治戦略の無理な延命措置である。
私としては、前節の末尾において述べたように、このポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの運動が、アイデンティティ・ポリティクスが扱ってきた諸属性の人々の一般的な状況の改善と、そこから漏れる人々、典型的には強者とされる自国民男性の状況の劣化という情勢下で花開いたために、どうしても後者の見方のように悪く捉える方が妥当なのではないかと思う。あるいは、そう捉えられても仕方ないという風に思う。
4、左翼政治の弱点について―際限ない先鋭化と弱者性を盾にする権力
このポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの展開には、左翼政治の二つの悪い面がよく現れている。
第一は、左翼政治が際限のない先鋭化に走りがちなことである。左翼は合理性を基本においているため、左翼政治を担う狭いサークル内においては、理性の論理が人間の現実を無視する形で純粋に追求された結果、より原理主義的で過激な意見の方が何か真性なものとみなされやすく、正しいものとされがちである。
そのため、左翼政治は際限なく先鋭化し、一般庶民の意識から離れすぎて自滅することがしばしばある。1970年前後の全共闘運動の末期に、武装闘争の準備のために山に籠った連合赤軍の面々が、一部のメンバーに対して、彼らが十分に共産主義的でないことを反省せよと「総括」を迫った挙句、リンチして殺害するという山岳ベース事件が生じた。その異様さによって新左翼運動は一気に大衆の支持を失ったのである。
第二は、弱者性を盾にする権力の問題である。これは左翼が権力を握ったときに生じる問題であり、前世紀の社会主義革命政権に典型的に見て取れる。こういった革命政権は労働者や小作農などの弱者を代表するものとして権力を握ったわけだが、この権力は従前の強者とされた人々を徹底的に弾圧した。その極北がカンボジアのクメール・ルージュであり、資本家のみならず知識階層はほとんど根絶やしにされたという。
このような権力、権力を握る立場として極めつきの強者でありながら、弱者を代表しているとの自意識を持っている権力が一番暴力的であり危険なのである。それは日常的な場面において、被害者意識を持っているときにこそ、私たちが一番攻撃的になることを考えてみれば推測できることである。私たちは被害者というつもりで反撃するのだが、そのとき私たちの力が実はとても強かったらどうだろうか。これほど危険なことはないだろう。
ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの問題には、この二つの左翼政治一般の弱点がよく現れている。
それらはアメリカ民主党の支持者に代表される現代社会の強者たる一部の高学歴エリートらの内輪の知的・道徳的マウンティング競争として過激化・先鋭化していき、庶民の実感から遊離していった。それどころか、それはともすると強者たる高学歴エリートたちが、弱者の権利の美名の下に、「政治的に正しくない」庶民の言動を叩くための道具になることもあったのである。これでは庶民にそっぽを向かれて当然であろう。
もう一点付言すれば、アイデンティティ・ポリティクスの問題点は、こういった左翼政治一般の抱える弱点に加えて、ある部分ではグローバリゼーションを支える機能を果たし、いわばグローバル企業のイデオロギーのような様相を呈したことにもあったといえよう
多様性を言祝ぐことは世界中から優秀な人材が集まるシリコン・バレーでは自然なことであるのだろうが、それはそれ以外の場所では、製造業の海外移転を促進して工場労働者の仕事を奪い、移民を流入させてサービス産業労働者の賃金に下落圧力をかける、そのことを正当化しているに過ぎないと受け取られたかもしれないのである。
5、結語—左翼政治の戦略転換の必要性
私は、アイデンティティ・ポリティクスを戦後の高度経済成長以後(ポストモダンと呼んでおこう)の先進国の状況にある程度以上に適合した左翼政治の形態として位置づけた。
それは当初は妥当性のある戦略だったが、その後の現実の展開は、それが扱う諸属性の状況のある程度の改善と、それに漏れる属性(自国民男性)の状況の劣化のなかで、アイデンティティ・ポリティクスの妥当性を徐々に失わせていったと思う。
その過程の最終段階で顕著に花開いた思われる、アイデンティティ・ポリティクスのポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーへの発展は、際限のない先鋭化と弱者性を盾にする権力という左翼政治の一般的な弱点を露呈するものであり、アイデンティティ・ポリティクスが行き止まりにぶち当たっていることを象徴している。
左翼政治の一般的な弱点に留意しつつ、左翼政治の戦略転換が必要とされると考える所以である。