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【H】【用語理解】アイデンティティ・ポリティクス/ポリティカル・コレクトネス/キャンセル・カルチャー(上)

この「用語理解」シリーズは、よく使われるものの意味が難しい用語に関して、私なりに理解を深めようという趣旨のものである。

主に扱うのは、気軽に使って何か言った気になってしまうが、人によって意味やニュアンスが異なることも多く、実は何も言っていないという結果になってしまう恐れがある、そういう用語である。

本シリーズは、そういった用語について、少なくとも私はこういう意味で使うということを確定するための記事であって、別に何か客観的に正確な知識を述べるものではない。なので用語「解説」ではなく用語「理解」と称する。


初回である今回は、「アイデンティティ・ポリティクス」「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」という、近年の左翼政治を彩った一連の政治戦略・政治手法について語る言葉について、私なりに理解を深めていきたい。

第1節では、この記事を要約する。第2節で「アイデンティティ・ポリティクス」、第3節で「ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャー」を扱う。第4節ではこれらに見て取れる「左翼政治の弱点」を論じ、第5節は全体のまとめとする。

本記事は、このうち第2節までとし、第3節以降は次回の記事に回す。

1、この記事の要約

(第2節)アイデンティティ・ポリティクスは、分厚い中間層が形成され、男性労働者の弱者性が消失した戦後の高度経済成長以後(ポストモダン)の先進国の状況に適合した左翼政治であり、いまだ強く弱者性を帯びていた女性・外国人・障害者・LGBTQその他の諸属性(アイデンティティ)の権利を擁護しようとする運動である。

(第2節)他方で、その後の現実の展開は、それが扱う諸属性の状況が属性によって程度に違いはあれどある程度まで改善したこと、またその諸属性から漏れている属性(戯画的に言えば「自国民異性愛健常男性」)の状況が相対的に劣化していったこと、こういったことを通じてアイデンティティ・ポリティクスの妥当性を徐々に失わせていった。

(第3節)この過程の最終段階で生じたように思われる、アイデンティティ・ポリティクスのポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーへの発展は、権利や制度に主に関わっていた政治問題を、言語表現の問題や日常道徳の問題へと拡張するものだった。

(第4節)この拡張は、一面では、その実、「際限のない先鋭化」と「弱者性を盾にする権力」という左翼政治の一般的な弱点を露呈するものであり、アイデンティティ・ポリティクスが行き止まりにぶち当たっていることを象徴している。

(第5節)これら全ては、これらにも見られる左翼政治の一般的な弱点に留意しつつ、左翼政治を刷新することが必要とされていることを強く示唆している。

2、アイデンティティ・ポリティクス—ポストモダン左翼政治の本流として

「アイデンティティ・ポリティクス」とは、女性・外国人・障害者・LGBTQなど、社会的に抑圧されているとされる一定の「属性(アイデンティティ)」に焦点を当て、そのアイデンティティの権利擁護をはかる政治運動である。

私は、これは戦後の高度成長期以後の時代状況(ポストモダンとも呼ばれる)に一定程度以上に適合した、左翼政治の戦略だと思っている。

製造業を中心とした戦後の高度経済成長は、日本の「一億総中流」に典型的に現れているように、労働者階級を豊かな中間層へと押し上げた。

このことは、搾取され窮乏化した労働者階級を組織することによって資本主義社会を転覆するという、それまでの左翼の主流を占めていたマルクス主義の左翼の戦略を非現実的なものとした。

いささか戯画的に言えば、自国民の健常者で異性愛者の男性は、労働者として働いて十分な賃金を得て、結婚して専業主婦の妻に支えられながら、しっかりと家族形成をして幸せな暮らしをしていたのだ。そこには弱者性がもはやなく、それこそ「歴史の終わり」ではないが、世界史の一つの到達点であったのだ。

これだけでは左翼としては商売上がったりである。左翼政治とは、社会を上下ないし強弱を通じて認識し、弱者の側に立って強者を撃つことを基本とする政治なのだから。

ここで取られた戦略が、先の戯画から漏れている、あるいは戯画のなかで抑圧されている諸属性を取り上げることである。それはたとえば労働市場で差別されていたり排除されていたりする外国人や女性や障害者であり、結婚のような性愛制度から排除されていたLGBTQである。もちろん、このような各種の差別や排除には、広範な社会的な差別や偏見もつきものだった。

また、この動きと関連するものとして、発展途上国への視線というものもあるだろう。先進国は豊かで幸せになった。その陰で負担を強いられている発展途上国が新たな弱者として発見されることになったわけだ。

さて、この戦略は総じていえば左翼政治として妥当だろう。人間の歴史は王と奴隷がいる時代から始まって、全ての人間が人権を持つものとして平等であるというところまで進んできた。この平等化は進歩であると思うし、平等をさらに実質化していくことに左翼政治の眼目がある。

強きを挫き弱きを助ける左翼政治として、先の戯画がある程度まで達成された時代状況においては、「アイデンティティ・ポリティクス」へ移行することは、相当程度正しい選択だったと私は思う。

問題は、こういった運動の成果もあって各種のアイデンティティに対する諸々の差別は(各属性ごとに程度の差はあれ)徐々に緩和されつつあったなかで、先の戯画で描いた幸せな自国民男性中間層が解体されていったこと、そのことに対応する左翼政治の戦略転換が行われなかったことである。

1970年代以降のサービス産業化や、1990年代以降のグローバル化の中で、先進国の製造業が空洞化し、製造業労働者を中心に形成された分厚い中間層が、ITや金融、そして製造業で研究・管理業務等に関わる一部の仕事という高収入層と、サービスの現場に従事する低収入層とに分化したのである。

このように、かつてのマルクス主義が取り組んでいた経済的な格差の問題が前景化してくるなかで、左翼がアイデンティティ・ポリティクスに没頭していること、これを「文化左翼」と呼んで批判的に取り扱うことは、すでに90年代からアメリカの哲学者のローティによって行われていた。

しかるに、左翼政治の戦略転換が左翼の主流において起こることはなく、2010年代、一方ではアイデンティティ・ポリティクスが扱うような各種の属性の人々の社会進出や社会での活躍が進み、他方では自国民男性中間層の階層分化が進んで、ますますアイデンティティ・ポリティクスの妥当性が失われていくなかでこそ、それは最後の花を開かせることになる。

それがポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの隆盛であると私は思う。これを次節で取り扱う。

続きの記事はこちらです。

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