食べ方にまでこだわる?!ソクラテスはウザいだけの嫌われ者!!~それでも、その言葉が時代や国境を越えて浸透していく理由について~
(文末の記載を除いた本文は約4900文字、読了までの参考時間は10分程度です。)
きっかけは「ソクラテスの言葉を引用した辻蘭室の書」
6月7日付のFacebookにおいて、長崎歴史文化博物館(公式HPのURL)がこの様な投稿をしています。
辻蘭室(1756-1836)はオランダ語を中心に様々な外国語の研究に人生を費やした江戸時代の蘭学者。蘭室はこの書においてソクラテスの言葉を引用し、それを「オランダ語の言葉を漢語に訳して書いてみる」ことをしています。
#蘭語漢訳 というやつですね。
人は生きるために食べ、食べるために生きるのでは無い
様々な言い回しに作り替えられて慣用句・ことわざとして古今東西様々な場面で使われてきた言葉です、大哲学者プラトンの師匠である哲学において原点にして頂点とされてきたソクラテスの言葉とされています。
難しい言葉ですね、「食べることは生きがいで、生きがいを楽しみに生きることは悪いことなの?」とムスッとなってしまう人もいるでしょう。ちなみに僕は「ええ言葉やなぁ」となりつつも、内心「筆記体のアルファベットは嫌ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」となっていました。
食べることは生きる上での目的か手段か
ネットを検索かけてみるとアレクシウスという別の人がこの様な内容の事を断言している様です。「よく考える人は愉しむべきである。その中で人生に寄与する(メリットがある)ものは3つ。食を愉しむこと、飲を愉しむこと、恋愛を愉しむこと。他の全ては添え物である。」と。
食べることを含む3つは、愉しむためには最上のメリットを生み出す。
食べるために生きるな、生きるために食べよ。
この2つの言葉を並べた時、人は上の言葉に好感を持ち、また下の言葉は否定されたと捉えられて不愉快に囚われる人が多いでしょう。
しかし「基本的には同じことを言っている」し、「下の言葉は上の言葉の価値観までを否定してない」ことがポイントになってくると僕は考えます。食べることは大事だと主張している基本姿勢は変わらないですから。切り口が違うだけ。
ソクラテスは「鶏が先か卵が先か」を言ってるだけ
「後は添え物」と断言しちゃってるアレクシウスは、中々ぶっ飛んだ思い切りの良い生き方をしてるかもしれませんが。要は「卵から鶏が産まれる様に、生きがいがあって愉しみが生まれる」と言っています。「鶏が居るから卵が産み落とされる様に、人間が居るから生きがいや愉しいが存在する」と考えるソクラテスは、逆に「愉しいことはとても良いことだね。(だが、生きがいがあるから愉しいのではなくて、愉しく生きるという目的があるから愉しいのであって、生きがいになるとされる物さえあれば愉しく生きれるわけでもない。それに愉しさが常に一定してる人は少なくて、むしろ増減することで辛くなる人が多いので。)然しながら君の様な手段の目的化は良くないよ。」と言っているのではないでしょうか。だとすれば随分と省略されて()の中が多い言葉ですw
※解釈は人それぞれなのでこれだけが正解とは僕も言いません、あくまで僕の解釈としての一例ね。
生きがいは人それぞれで人々はそれでも苦悩していく
んで、まぁ、心のバランスを保てなくなって、手抜きを始めたり落ち込んだりするわけですよ。
「日夜働いてもお金を稼げないから苦しい」
「どんなに娯楽や恋愛に費やしてもつまんない」
「最近は食べてて美味しく感じなくなった」
常日頃、現代を生きる日本人が悩むこともそれにある。アレクシウスの様に生きたいと多くの人が憧れてそれを目指していく。ソクラテスも生きがあること自体やそれが大事なことまでは否定してないし、どちらの意見も正解で間違っていません。単にアレクシウスの方が快活でアッサリとしている「都合がいい」ポジティブな言葉だから耳心地が良く、ソクラテスの方が後ろ向きで嘆きつつ「ウザい」説教臭くてネガティブな言葉だから、人々はアレクシウスの言葉に共感していくに過ぎない。
ソクラテスが嘆いてる「手段の目的化」は何故良くないのか
これは単純です。手段や方法は向き合い方、すなわち「中間地点」の1つ1つであって、目的や夢の様な「ゴール」ではないから。
なのに手段や方法にこだわってこれしかないそうするべきだと、「やらなきゃやらなきゃ!」に追われて自他を追い込んだり、「やったんだから報われるべき!」とか「苦しいんだから助けてくれてもいいじゃないか!」と自己中心的に見返りや救済を求めてトラブルになったり、「彼氏にこれだけ尽くしてるのに報われない」「俺は仕事を頑張ってるのに上司や同僚は認めてくれない」等と悩むことで自己評価を過度に下げていく。あるいはマンネリ化したり飽きてやめてしまうこともある。
ソクラテスが嘆くのはスタートやゴールを絶対にな無くすなということ
人間は「目的」「目標」「きっかけ」「夢」様々な事を忘れがちな生き物です、何故ならば中間地点でいつも迷子になるから。
どうやったらそれを可能な限り避けて、見失いかけてもまたそれを再認識出来るか。ソクラテスはその為に「手段の目的化は避けなさい」といつも嘆く。それが耳障りでウザいにも関わらず、「確かにそれが大事ではあるんだよな」とか「そっか固定観念に囚われて気づかなかったけれど、そう言われたらそうかも」と一定評価をする人はちゃんと居て、その中で成長したり成功した人が居たからこその哲学の偉人なのでしょう。
ソクラテスやニーチェは基本的にはただのウザい人
誤解やお叱りを恐れずに断言調で言えば、その時代の国や社会から見たソクラテスやニーチェの評価の大半は俗に言う「ウザい人」である事は間違いない。ただ、その中で同時代または時代や国すら超えて彼らを遠ざけたりせず、彼らの言葉や価値観に耳を傾けつつ真剣に考える「別の存在」が居て、その人達の中から偉人や成功者が現れたに過ぎないのです。ソクラテスやニーチェ自身は成功者ではなく、むしろその結末だけに注目されれば、偉人というよりむしろ落伍者と言われかねない。
アレキサンダー大王の様な伝説の英雄でもなければ、マザーテレサの様に救済に尽くそうとしたわけでもなく、チャップリンの様に笑顔を広めたわけでもなく、ライト兄弟やニュートンの様な先駆者や大発見をした人でもない。
誰に頼まれたわけでもなく、ただ遮二無二に考えに考えぬいて、ただひたすらに日夜悩みまくって、それを周りに伝えようとしたらとてつもなくウザがられた。ただ、それでも多くの人に影響を与えつづけ、人類の進歩に一役をかっている。哲学という学問は基本的にはそういう立場にあり、「学問になり切れなかった出涸らし」「科学には含まれない学問とは呼べない半端者」などと哲学者自らを皮肉ることもある。
そんな哲学において、ソクラテスとニーチェは知名度も貢献度も高い2大巨頭で、ウザい人と認識されながら死後は哲学の大偉人と讃えられる。
避けてたものを珍重し始める、人類というものは面白い生物ですねw
ソクラテスやニーチェってどんなひとだったの?
散々哲学やソクラテスについて荒っぽい書き方をしてるので、「そこは違うぞ」とお怒りの方が居るかもしれません。僕は蘭学や哲学を専門に扱う研究者やら専門家ではなく、知識や伝え方が拙い点があるでしょう。ただ、そこには今後書くnoteに繋げる意図もあるのでご容赦ください。また、ソクラテスやニーチェについてなんて浅学非才な僕がまとめなくても、先哲や優秀な方々がそれこそ山の様に2人の評価を書き上げています。そこに今更僕が書き上げる意義はないでしょうが、2人について僕が今後書きたくなる可能性も無きにしも非ずだと思うので、URLを添付する場所としてこの項を作っておきます。予定は未定、未定が予定なので悪しからずw
原点にして頂点「ソクラテス」は人類史上最強のニート?
⇒工事中
批判を恐れぬ大暴言「神は死んだ」ニーチェが目指していたものって?
⇒工事中
それはともかく話を戻そう
閑話休題(それはともかく)、脱線しすぎたので話をソクラテスと哲学から、辻蘭室の書と手段の目的化に戻しましょう。
辻蘭室が何故母国語の日本語ではない中国語やオランダ語を勉強する必要(つまり手段)があったのか、それは彼が京都の医者の家に生まれ、常に知らない技術や考え方を学び続ける責任があったからでしょう。あるいはその中で知らないものを愉しいと感じる彼個人の欲求や価値観があったかもしれません。鎖国という特別な事情を持つ母国日本の特別な事情も勿論関係しています。
というのも彼の研究対象が「諸外国の言語」「その文法」「天文学」「地理」「博物学」など多岐に渡り、中にはこの書の様に「哲学」まであったり。外国語や文法についてはとにかく様々な国々を調べてますし、本業であるはずの医療に関わるはずの製薬に関しては他より多い程度。彼が様々な事物に興味を示した「まるで百科事典か何かの様な人物」であることは、彼の遺した事跡からも明らかで、当時の京都を代表する #蘭学者 として彼の名声を高めていきました。
何故江戸時代の辻蘭室は遠い昔の遠い国に生きたソクラテスの言葉を引用して書に認めたのか
ここから先は僕の考察でしかなく、不確定な領域を出ません。辻蘭室さんは過去の偉人で直接話を伺うわけにもいきませんから正解が分からないからです。
とはいえ、彼の境遇や研究姿勢、あるいはわざわざ「生きるために食べよ」なんて言葉を引用することから様々な事が考察出来ます。先述した通り一つは彼が医師の家系であり、様々なものわ学ばなくてはならない。しかし、時は江戸時代で医学の発展している中国やヨーロッパに留学するわけにはいかない、だって鎖国ですからね。
そんな中で彼に許されたのは長崎から入ってくるオランダや中国経由の書籍や価値観、そしてそれを用いての研究の日々であったことが考えられます。また、東洋医学・西洋医学それぞれに傾倒していく当時の医者が殆どのなかで、医学とは関係ない地理や哲学まで学びます。そして、この書をしたためるうえで蘭語漢訳の題材として、選んだのはオランダの人でもオランダの言葉でもなく、医学とは関係ない哲学の言葉でもないソクラテスのものとされる格言。
そこにはどういう意図があったのか、もちろん面白い言葉だったから書いた程度の事かもしれませんが、一定の意図があったからだったと前提の上で更に考察すると「ソクラテスの知らないことに貪欲な生き方に惹かれた」「自分の研究や生き方において手段の目的化を避けたかった」「辻蘭室さんは博識なだけでなくとてもグルメな人だつた」等と解釈出来ます。3番目は別にふざけてませんよ?w
僕は2番目の理由だったのではないか、と考察の上結論付けています。辻蘭室は立身出世して出羽守や正四位下まで地位を高めた人だということが判明しています。それは医者・研究者として生き、鎖国という状況下で許される限りの事をしてきた。医者という立場や研究の蓄積はあくまでも手段や結果に過ぎず。当時の彼や日本の医学の立場、あるいはその事跡から滲んでくる様々な事を学びたいと願う個人としての貪欲さ。彼にとっては手段や方法に固執する事無く、「辻蘭室は目的を忘れずに生きたい」と願い、この書を蘭語漢訳でしたためたのではないか。……そう僕は愚考します。
考えることや学ぶことに終わりはないから慢心して驕るなとソクラテスは語る
結局の所ソクラテス的価値観においては、働くことも学ぶことも恋愛することも飲食することも、全ては手段や事象に過ぎず、手段の目的化は避けなくては自分が迷子になって苦悩する。自分が生きることがあくまでも目的であって主軸であり、それを無くすな、見失ったら思い出せ。
古今東西老若男女を問わずに、現代の日本にも通じる言葉で、ウザいながらも耳の痛い言葉で、様々な事を憂いて「もっと生きることを愉しくしなさい」と投げかけてくる。
愉しく生きる事に全力おじさんだったソクラテスの存在を、辻蘭室なりに考えたのでしょうし、辻蘭室の書からもまた我々はな何かを感じ取れるのかもしれませんね。
(6月15日、周囲の不和や通帳に記された給料の少なさに嘆きつつ.luckがお届けしました。ここまで読み進めてくれた方々に感謝申し上げます。)
引用元:長崎歴史文化博物館、Facebook
参考元:コトバンクやWikipediaを初めとしたネットの情報、これまで読み漁った記事や書籍、これまで会話してきた人々の主張や価値観、恩師の方々に教わった内容(特にS先生のもの)
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