大木健二の洋菜ものがたり 東京市場を牛耳る海軍相場 横浜の市場には凄い業者がいて、戦後しばらくは首都圏の洋菜相場を牛耳っていました。畠山国太郎さんがその人で、米軍海軍の野菜納めを一手に引き受け、畠山さんが買いに入るかどうかで洋菜相場が激しく動いたのです。 こんな逸話があります。 ある日、横須賀基地に近い走水付近で、双眼鏡で沖合を熱心に見張っている男がいました。不審に思われて当然の時代です。警官が事情聴取したところ 彼は青果問屋の従業員で、船団が寄港する頃を見計らって、船の
やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり 麻痺した市場機能(統制時代) エリートコース投げうち 青果業にカムバック 時局が切迫していた昭和15年夏、卸売市場が統制経済下に置かれると、 もう青果問屋の先行きも真っ暗。セリがなくなり、値段は固定、口銭すらままならなくなった市場と闇経済が跋扈する世情に見切りをつける気持ちもあって、外務省の領事館警察の採用試験を受けました。以来5年間は上海に赴任することとなり、野菜とは直接の縁がなくなりましたが、振り返ると、 上海で中国野菜をじ
大木健二の洋菜ものがたり 先取り 大根河岸の頃の先取りは潮加減で決まりました。洋菜の場合、当時の産地は千葉県で、ほとんどが船輸送。隅田川から京橋川を上って河岸に接岸できるのは満潮の時だけで、大問屋の荷受け場所も満潮の水位に合わせて作られていたので、その時まで荷揚げできません。早い時は午前3時に荷揚げすることもあり、それに合わせて取り引きされていたのです。 当時は野菜の容器が堅牢で、大きく重かったから、満潮時以外はとても荷揚げ作業は無理。それでも市場の衆はみんな力持ちでした。
大木健二の洋菜ものがたり 市場も人も転機・・・昭和10年代 パセリを刺身の妻に! 大根河岸から築地市場への引っ越しを記念する移転式典が行われたのは昭和10年2月11日。 京橋組と赤羽、神田からの新規募集組を加えた仲卸240軒の従業員らが参加し、楽隊を先頭に銀座通りを練り歩きました。ちょうど紀元節の日だったので、それはもう派手なものでした。 その翌年同じ日に勝鬨橋の開橋式があり、午前9時、正午、午後3時の橋が開く時間になると、見物客で膨れ上がり、若い私は人波から押し出されて
やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり 鶏肉と洋菜 東京の洋菜問屋の元祖と言えるのが持丸本店、梅村屋、持倉です。当時、洋食で使われていた肉類は鶏肉と野鳥です。梅村屋の小売部門、梅村屋鳥食肉店が西洋野菜を扱っていたことでも分かるように、鶏肉店が洋菜を扱うのは当たり前だったのです。神田青果市場では野鳥、鶏肉まで扱う青果仲卸が4,5軒あり、屋号に“鳥“の字を被せ、店の前には生きた鶏の入った鳥籠が幾つも置いてありました。仲卸の若い衆は、野菜扱いだけでなく、鶏の絞め方、羽、皮の剥
やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり 洋食新時代の幕開け 「スエヒロ」は忘れることのできないレストランです。 大阪商人の山根、千田、上島の三氏が新しい土地で、新しいことを始めたのですから、当時としてはその発想と行動力はたいしたものです。 開店当初の銀座2丁目越後屋ビルの1号店(昭和9年開業)ではカウンターに10人くらいの客しかいなかったのに、5階と6階に移ってからは破竹の勢い ランチはA・B・Cの3っで、スープに生野菜、フライドポテト、さやまたはインゲンの青み野菜にト
やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり ドンぶり勘定の河岸気質 当時 京橋の大根河岸にはそれぞれお抱えの山(産地)をもつ大問屋と、そこから買い付ける仲買がいて、小売店に売ったり、料理屋に納めたりしていました。 荷主は主に牛車、大八車、船の三つの輸送手段で荷物を運びます。大問屋は京橋川の岸壁に満潮時の水位に合わせた船着き場を設けていたほか、陸の上には荷主のための休憩所や仮眠所を用意していました。三長(元の東京中央青果)のような大きいところほど場所が広くとってあり、それだけ
やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり 1.洋菜の黎明期(昭和初期) 大根河岸と銀座界隈 昭和10年前後の銀座界隈は大変な賑わいでした。京橋大根河岸があった今の銀座1丁目付近から土橋の8丁目までの銀座通りは何百もの夜店が軒を連ね、人波でごった返しました。露店の棚に所狭しと並ぶベルト、ネクタイ 時計、ワイシャツなどに目を見張りながら、わたしも香具師の巧みな口上に聞き惚れたものですが、あまりの混雑に地元商店会と露店連合会との間で、夜店の撤退論争が繰り広げられたほどです。こ
大木健二の洋菜ものがたり ずんぐりもっくりの逞しさ失せる! マッシュルーム フランスではシャンピニオン、日本ではつくり茸または馬糞茸と呼ばれています。和名はおよそ飾り気がありませんが、栽培が人工的かつ馬糞を必要とする点で、こちらの方が生産実態に即した呼び方と言えるでしょう。 日本で種菌を用いる栽培に初めて成功したのが大正11年です。 森本彦三郎というキノコつくりの名人によって生産方法が確立されましたが本格的な生産、販売は戦後になってからです。その戦後マッシュルーム産業の
大木健二の洋菜ものがたり 男心くすぐる?ニューフェイス プティ・ベール 芽キャベツとケールを交配してできた純国産の新野菜ですね。 1991年11月に産声を上げて以来、消滅寸前の芽キャベツに代わり、サラダや肉料理の付け合せとして定着しました。ただし、産地の移り変わりは激しいようです。最初は茨城、北海道、千葉県成田、浜松、磐田と移動し、長崎県唐津からも出荷がありました。 芽キャベツの生産量が全国一多かったのは静岡県磐田市でした。このままではいずれ消えたしまう、という危機感を
大木健二の洋菜ものがたり チーズとワインにピッタリ 生食ソラマメ(ファーべ) 在来のソラマメは16世紀に渡来し、いまや和食の膳、ビールのおつまみとして欠かせませんが、生で食べる習慣はありませんでしたね。 生食用は私が1991年にイタリアから取り寄せた種をソラマメの大産地鹿児島は指宿の生産者に委託して3年間栽培してもらいました。その後、栽培を中断した鹿児島県の他に適地はないかと、当たりをつけていたところ、 1994年の秋、当時の東京築地青果の高橋勝男専務の紹介で、千葉県の
大木健二の洋菜ものがたり 命綱つないで採取 クレソン 戦前、三国園という関東屈指の生産者、というより採取家がいました。 唐草模様の風呂敷に柳行李(やなぎこおり)を担いで、わたしが奉公していた持倉と梅村屋、持丸(すべて卸売業者) の三店をよく訪れてきました。店頭で必ず「おたの申します。」と挨拶する腰の低い人でしたが、クレソンの採る方法を聞くや、たまげました。採取場は多摩川の是政付近(現府中市)で、まだ河川が整備されていない時代ですから、かなりの難所です。 奥さんが握る命綱を
大木健二の洋菜ものがたり 玉レタスの攻勢でじり貧?! ローメインレタス 戦前、レタスといえばチシャ系のローメインレタスの琴でした。産地の八丈島から週一回、船便だけの入荷で、思惑買いの対象にもされました。海がシケると一気に品薄高となるので、市場の業者はお天気の加減を見ながら、冷蔵庫にしまって置きます。それで儲けたり、損したりしていたわけです。 また、当時の八丈島ではセロリ、パパイヤも作っていました。セロリは米国コーネル大学が育種した「コーネル619」が先駆けです。これを昭和
大木健二の洋菜ものがたり パリっ子の生活に浸透 パリジャンキャロット 名前も歴史もユニークなニンジンです。資料をひも解いてみるに、フランスの古(いにしえ)の家庭生活まで透かし見えてきます。 1390年、グッドマンという紳士が新婚家庭の奥さん向けに、家政に関わる書物を著わしています。グッドマンは蚤(のみ)の撃退法から、夫をベットに迎える方法まで、微に入り細をうがつ解説をしていますが、ニンジンについても言及し、市場での買い方として『丸いピンポン玉のような赤い根っ子のニンジンが良
大木健二の洋菜ものがたり 戦時の配給物資 トッピーナンポ(キクイモ) 中国から復員(昭和21年)、市場に戻って間もない頃のことです。店の前を通りかかった人が「あれ!、憾み骨髄のキクイモ(トッピーナンポの和名) があるよ!。」と懐かしそうに近寄ってきました。戦時中、キクイモは配給物資として長野県などで大々的に栽培されていました。中国に5年間赴任していた私は、その頃の日本の食糧事情が良く分からないままに、たまたま通りかかった人から、戦争にまつわるキクイモのことを聞かされたので
大木健二の洋菜ものがたり なぜか細めは不人気 レホール 網走の小高い山に登った時、道端に野生のレホールがびっしり生えていました。北海道では、タコの足みたいになったレホールをすりおろし、醬油と合わせて、ご飯にかけて食べるそうです。ただし、栽培種はもっぱら粉ワサビの原料となり、生鮮品としては北海道以外への出荷はありませんでした。 それにしても、寿司や刺し身に使う本ワサビとはまったく違う品種なのに、 【粉ワサビ】という呼び名はいかがなものでしょうか?。消費者を紛らわすことになら