あの日あの時
大木健二の洋菜ものがたり
先取り
大根河岸の頃の先取りは潮加減で決まりました。洋菜の場合、当時の産地は千葉県で、ほとんどが船輸送。隅田川から京橋川を上って河岸に接岸できるのは満潮の時だけで、大問屋の荷受け場所も満潮の水位に合わせて作られていたので、その時まで荷揚げできません。早い時は午前3時に荷揚げすることもあり、それに合わせて取り引きされていたのです。
当時は野菜の容器が堅牢で、大きく重かったから、満潮時以外はとても荷揚げ作業は無理。それでも市場の衆はみんな力持ちでした。
仲卸の奉公人は二重前掛け(2枚重ねの前掛けで、60キロもあるジャガイモの俵を担ぐ場合、1枚を肩に捲り上げてから、そこに担ぎ上げ、藁屑などでケガをしないよう工夫していました。ただ、わたしは二重前掛けが買えなくて悔しい思いをしていましたが・・・
荷姿といえば、意外に厳重に荷造りされていたのが三保のキュウリです。
木箱で正味一貫目(3.75キロ)あったうえ、しっかり止め釘が打ってあったので、中を開けて品定めするわけにいきません。そこで目安にしたのがスミレの葉。鮮度保持に効果があるというのでキュウリの下に敷かれているものでこの葉が黄ばんでいるかどうかが鮮度を見極めるポイントとなりました。
輸送手段も貧弱だったし、冷蔵庫も普及していなかったので、生産者もわたしら流通業者も、知恵と汗を出さないとやっていけなかったのです。
築地での全量セリに戸惑う!
築地への移転で悔やまれる点が一つあります。築地市場だけが先取りの全面禁止を受け入れたことです。市場法では築地市場は本場、神田市場は分場となるそうで、中央卸売市場の雄である築地は模範市場でなければならないというので、取引原則とされたセリを全面的に採用、先取りはまかりならないことになったのです。
その一方、神田市場は売り場が狭いので市場が混乱するとの理由で、先取りが条件付き(一定比率に限定)で認められました。神田市場がその後スーパーマーケット納めで大きく成長する布石がこの時代に敷かれ、築地は取引高で大きく水を開けられることになるのです。
大根河岸時代の相対販売に慣れ親しんできた私たちにとって、このセリ取り引きは厳しい足かせでした。特に監督者の東京都の某役人は「蝮の某」と恐れられるほど勤務に忠実で、築地市場での先取りは不可能に近かったと言えます。この役人が神田市場に異動してからはさすがに監視の目を緩めたのですが、しかし、今の公務員の姿を観ていると、むしろ公僕の鏡とすべき人物かもしれないのです。
※符丁
ばんど(8)がけ(9)ちょうど(10)ちょんぶり(12)だりはん(45)などなど、関係者が取り引きに用いる暗号ですが、その歴史は古いようです。
青果市場の符丁(暗号)は徳川幕府の諜報機関だった服部半蔵一門のそれと同じで、どちらが符丁の本家かは不明ですが、江戸初期(1600年代前半)には
野市に近い形で青果市場が成立して以来使われてきたと言います。
浅間山の大噴火をきっかけとした大飢饉の際に、十万人以上の避難民を救済して幕府の覚えを良くした青果市場と、幕府を陰で支えた服部半蔵の使っていた符丁が同じというのはなにやら因縁めいているのではないでしょうか
今でも符丁は使われていますよ。