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あの日あの時

大木健二の洋菜ものがたり
 東京市場を牛耳る海軍相場
横浜の市場には凄い業者がいて、戦後しばらくは首都圏の洋菜相場を牛耳っていました。畠山国太郎さんがその人で、米軍海軍の野菜納めを一手に引き受け、畠山さんが買いに入るかどうかで洋菜相場が激しく動いたのです。
 こんな逸話があります。
ある日、横須賀基地に近い走水付近で、双眼鏡で沖合を熱心に見張っている男がいました。不審に思われて当然の時代です。警官が事情聴取したところ
彼は青果問屋の従業員で、船団が寄港する頃を見計らって、船の種類と数がどの程度か調べていた、と釈明に四苦八苦したそうです。畠山さんの従業員であることが分かってやっと解放されたのですが、そんな危険を冒してまで沖合を探らなければならなかった理由は、海軍に納める野菜があまりに多く納入見込みが狂うと大きく損をするからです。
その頃の米国海軍は、一船団で航空母艦、駆逐艦、護衛艦、補給船など少なくとも6,7隻に上りました。一度航海に出ると40日は洋上生活です。仮に乗組員一万人としても120万食分の野菜が必要です。規模が規模ですから
船に積み込む前に見込みで手当てしておかないと間に合いません。リスクを避けるためにも、双眼鏡で船団の規模を探っておく必要があったのです。
こうした情報作戦がうまかった畠山さんも静岡産メロンの仕込みでは失敗、
粒よりのメロンが揃えられず、小さいメロンを納めて信用を落としたという話です。ともあれ畠山さんの力は、当時、海軍相場、畠山相場と恐れられるほどの勢いがありました。この畠山相場に翻弄されていた築地市場の一業者として、わたしは情けないのと、口惜しさで米海軍に納入業者に加えてくれるよう申請したものです。ようやく一隻分だけ認められ、いざ横須賀に納めに行くと、基地門前でストップされ、基地内のトラックに野菜を積み替えさせ作業にしている傍らを畠山グループの車がフリーパスで通過していきます
基地内の免許を得られるメドも立たなかったので、これでは勝ち目がありません。それ1回こっきりで海軍納は中止です。
畠山さんとは、その後も八丈島のセロリをめぐって張り合いました。なにせ向こうは当時珍しかった冷蔵庫を所有していましたから、その冷蔵庫にセロリが保存されているかどうか、検討をつけて手当てしたものです。冷蔵庫になくて、こちらにあれば儲かり、向こうにあれば損しました。八丈島からは週一便の割合でしか入荷しませんから、腹の探り合いです。
 ※仲卸復活
戦後の統制解除は贅沢品とされた22年10月の果実から始まり、23年7月一分水産物、同12月漬け物、24年3月蔬菜と順次解除され、消費者も「質より量」の配給品には目を向けなくなってきたのです。また昭和23年10月、東京都は東京都中央卸売市場業務規程の全文を改正。統制下の荷受け機関を卸売人として回帰させ、仲買人制度も復活させたのです。
この年と翌年にかけて許可されたのは、卸売人が水産物・蔬菜19社、果実21社、仲買人が水産物1,238人、果実366人、蔬菜96人でした。生鮮食料品の統制が全面解除された昭和25年に中央卸売市場は本来の機能を回復し、取り扱い量も戦前の水準まで増加したのです。施設面では、終戦後、広大な土地と建物を保有する市場施設を進駐軍が注目、築地市場は全施設の4分の1が接収され、洗濯工場・駐車場として転用されました。統制解除後は入荷量が増加したため、市場側が接収解除を陳情、昭和30年までにすべてが返還されたのです。

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