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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 鶏肉と洋菜
東京の洋菜問屋の元祖と言えるのが持丸本店、梅村屋、持倉です。当時、洋食で使われていた肉類は鶏肉と野鳥です。梅村屋の小売部門、梅村屋鳥食肉店が西洋野菜を扱っていたことでも分かるように、鶏肉店が洋菜を扱うのは当たり前だったのです。神田青果市場では野鳥、鶏肉まで扱う青果仲卸が4,5軒あり、屋号に“鳥“の字を被せ、店の前には生きた鶏の入った鳥籠が幾つも置いてありました。仲卸の若い衆は、野菜扱いだけでなく、鶏の絞め方、羽、皮の剥き方に長けていたものです。そういう時代ですから、スエヒロが牛ステーキを売り出したという事は革命的だったのです。
スエヒロで牛ステーキと一緒に人気メニューとなっていたのがアワビの炭火焼きです。ステーキと同じ値段で、備長炭が使われていました。焼く前にダイコンかニンジンでアワビの肉を叩いて柔らかくしていました。
スリコギなんかで叩かないところが味噌で、お客様でもそこまで知っていた人は少ないでしょう。
クレソンはさすがにアワビの付け合わせにはされなかったものの、ステーキブームのお陰で使われる量は急激に増え、洋菜分野の発展に弾みがつきました。
その頃、洋食に欠かせなかった主要野菜はジャガイモ、タマネギ、ニンジン、レタス、トマトです。いずれも単品の専門問屋が成り立っていました。ジャガイモなどは北海道産(倶知安など)を貨車単位で買い付け、今どのあたりを貨車が走っているかといった情報も逐一把握していたのです。またニンジンは千葉県津田沼、習志野鷺沼が大産地で、牛車か馬車で大根河岸に運ばれてきました。もっぱら長ニンジンつまり日本ニンジンで、短根の西洋ニンジンは少数派でした。
その西洋ニンジンは舟形した菰俵に5,60本が詰められて入荷していたので、真ん中辺りのニンジンは蒸れて悪臭を放っていることがよくありました。わたしはあまり大切にされなかった西洋ニンジンの恨みつらみの臭いだと思っていますが、若い人たちのニンジン嫌いは、この臭いが一因だったのかもしれません。
昭和40年代からは、西洋ニンジン(通称、三寸ニンジン)が日本を駆逐し、主役に取って代わっていきました。かつて雑誌社の依頼で日本ニンジンを追跡調査したことがあります。金沢市の和食店が使っているというので、仕入れ先を辿ると、埼玉県で生産されているということでした。三寸ニンジンは洋食の普及と足並みを揃えてシェアを拡大しましたが、日本古来のニンジンは埼玉県の片隅に追いやられていたのです。
※都市と農村
第一次大戦、大正デモクラシーを経て一抹の繁栄ムードが高まる大都市に対し、農山村部なかでも東北六県の農家は窮乏。昭和6年、9年の大凶作は都市と農村との貧富の差を際立たせました。9年の冷害により東北六県のコメ生産量は過去5年平均の半分、620万トン(被害額1億3千7百7十万円)そこそこにとどまり、どん底に陥った農家は娘を身売りしていたそうです。
同年10月末の記録によると、東北六県の出稼ぎ婦人は前年の5倍近い5万8千人に上っています。
農村が極度の生活難に嘆いていた一方で、銀座ではモボ・モガが流行、消費ブームが高まっていましたが、いまみたいに情報網が発達していなかったことも、こうした格差を生んだのでしょう。

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