やっちゃば一代記 思い出(24)
大木健二の洋菜ものがたり
戦時の配給物資
トッピーナンポ(キクイモ)
中国から復員(昭和21年)、市場に戻って間もない頃のことです。店の前を通りかかった人が「あれ!、憾み骨髄のキクイモ(トッピーナンポの和名)
があるよ!。」と懐かしそうに近寄ってきました。戦時中、キクイモは配給物資として長野県などで大々的に栽培されていました。中国に5年間赴任していた私は、その頃の日本の食糧事情が良く分からないままに、たまたま通りかかった人から、戦争にまつわるキクイモのことを聞かされたのですが、
この一件が私をキクイモにこだわらせるバネになりました。
戦争と言えば、終戦直後の銀座界隈は服部(現精工舎)と二、三のビルを残すのみ。1丁目付近はカボチャ畑で、隅田川から東は一面焼け野原でした。
帰国してすぐ服部の並びにあった教文館(書店)に行きました。その裏手の地下室への入り口のところに架けられていた、黒人が足で地球を持ち上げている藤田嗣治画伯の壁面をいの一番に見たかったからです。が、もう建物すらありません。銀座の変貌ぶりには愕然とするばかりでした。そんな戦時下を思い出させる野菜ですが、いまだにあまり人気がないのが実情です。
かつて銀座松屋の裏通りに十八屋というレストランがありました。帝国ホテルの二番シェフ(副料理長)だった人が経営していましたね。お客様がせいぜい十二、三人でいっぱいの、こじんまりした店で、主人は料理が自慢だから酒は出さないという一刻な人でした。映画監督の山本嘉次郎さんや著名音楽家ら文化人がたびたび訪れ、とりわけキクイモやセロリの煮込み料理には定評がありました。築地市場の私の店にセロリやキクイモの煮込みを持参、わたしに食べさせてくれたりしました。当時は一流のレストランかホテルでしか食べられなかった料理です。涙が出るくらい美味しかったのを思いだしますね。昭和30年代にはその十八屋も店をたたみ、同時にあんな暖かい交流の機会もなくなりました、残念でした。
※トッピーナンポ(キクイモ)
原産地は北米東北部です。17世紀初頭にヨーロッパに導入され、飼料用、野菜用、果糖・イヌリン・アルコール原料として世界各国に分布しています
キク科ヒマワリ属の多年生草本。草丈は3メートルに達します。地下に数本から数十本の匐枝を生じ、先端は肥大して塊茎となります。地上部が繁茂すると、急速に塊茎が肥大しますね。主として漬け物かな?肉質がしまり、香気があるので煮物にもいいでしょう。
米国が原産で、インディアンがコロンブスにご馳走したのがヨーロッパに知られるきっかけになったと言われています。
アーティチョークに味が似ていることから、「ジラ・ソロ・アーティチョコ(イタリア)」「エルサレムアーティチョーク、サンチョーク(アメリカ)とも呼ばれています。日本では戦前、戦中に煮込み、から揚げなどに利用されていました。そのほかはグラタン、てんぷら、味噌漬け、パレスチナスープと、メニューは豊富ですが、レストラン、ホテルなどの業務筋ではあまり使われず、需要はきわめて限られているようですね