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『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』レビュー:小説家、批評家、翻訳家や目指す人におすすめ

日本では児童文学の「ゲド戦記」シリーズや「西のはての年代記」三部作で知られるが、『闇の左手』などの一般向けSF小説や詩、評論も多く手掛けたアメリカの作家、アーシュラ・K・ル=グウィンが、小説の創作について書いた本。

プロの作家が先生として指南するクラスではなく、参加者たちが対等に作品(文章)を評し合う「合評会」を実践してきた経験を基に、その会で実践できるテーマを説明し、マーク・トウェインやヴァージニア・ウルフなど英米の著名作家の小説から例を引き、練習問題(エクササイズ)を提示している。また、仲間と切磋琢磨するより一人で練習したい人にも役立つ本だとしている。

テーマにみられるル=グウィンらしさ

テーマは、クリエイティブ・ライティング(文芸創作)のワークショップによくある「登場人物」「会話」などはなく(それらに関連はしてくるが)、意外にも「文法」に関連するものが多い。それだけ、英語を母語として英語で創作する場合にも、文法をきちんと押さえた文章を書ける人が多くはないということなのかもしれない。

「リズム」「語りの視点(point of view)」「語りの声(voice)」などが重視されていることは、ル=グウィン自身の作品を考えてみても、実際に書く際のそうした点の難しさをを思ってみても、納得できるところだ。

英語で書くのと日本語で書くのとでは当然違いが出てくるが(文字量から「時制」などの文法まで)、英日の違いを考慮した翻訳や訳注が試みられている。英語を解する読者は、作家の小説から例を引く「実例」では原文の英語も掲載してほしいと思うかもしれないが、紙幅を取ってしまうし、英語がわからない人には余計になってしまうので、掲載は難しかったのだろう。

「正しい文法」は重要だが「風紀」との混同に注意

ル=グウィンは、構文や句読点などの文法ルールを守らないと文章はめちゃくちゃになる(方言や独特の口調などで一貫性を持たせない限り)とする一方で(p. 44)、「正しい言葉遣い」を押し付けて権力を振りかざす危険性を指摘している。

正しい言葉遣いは風紀の問題ではなく、社会と政治の問題であって、しばしば社会における地位身分をあらわにするものだ。
(p. 43)
正しさ警察の独善は、わたしが嫌悪するものだ。
(p. 43)

日本の英語学習者・教育者の間でもしばしば論争となる、次のような「文法警察」の言い分の例が挙げられている。

Its'me.は間違いで、It is I.と言わなければならない。
Hopefully,を「願わくば(I hope)」の意味で用いるのは間違いだ。
・名文家はThere is ~.構文を決して使わない。
総称の(単数)代名詞はheであって、each one、anybody、a personをtheirで受けるのは間違いだ。

最後の例は、ジェンダーレス(性差のない)代名詞として、あえて選んで使っているのだ、とル=グウィンは述べている。politically correctの態度なのだと。(pp. 47-48)

文法全般に関しては、「ルールを知っていてこそルールを破れる」という真理も強調している。

ルール破りをするには、そもそものルールの理解が必要だ。うっかりミスで革命は怒らない。
(p. 45)

▼性差のない(ノンバイナリー)代名詞についてはこちらも参照

▼It's me.とIt is I.については『カンマの女王』ブックレビューも参照

同じ章(第2章)で、インターネットで文章を書く際の絵文字(エモーティコン)についても触れている。それは、「言葉だけでは感情と意図が伝わらないときの、物悲しくもささやかな申し訳だ」(p. 45)。

(日本において)LINEでほぼ絵文字だけで会話が成り立っている(という錯覚?)様子を見ると、それを言葉の「退化」というべきか「変化」というべきか、考えてしまう。

社会やコミュニケーションによって言葉も変化するなら、言葉で「くどくど」と述べる方が「わからずや」扱いされ、絵文字や数秒の動画による一瞬の表現で伝えられる人が評価されるようになるのかもしれない。たとえそれを嘆く人がいても。

だが個人的には(まだ)、少なくとも自分が思考するには言葉が必要と考えているので(視覚的なイメージや、言葉ではない音などで思考する人ももちろんいると思う)、言語表現を放棄せずにいたい。

散文には散文のリズムがなければ

私はヴァージニア・ウルフが書く英語の文章にすらすらと流れるリズムが心地よくて大好きだ。おそらく一般的に言われていることだと思うが、本書でも、ウルフ自身が、文体とはリズムであり、書きたい内容があってもリズムに乗れなければ書けない、と述べる文章が引用されている。(pp. 71-72)

第4章では「繰り返し表現」をテーマとし、単なる冗長・重複の繰り返しは戒めながらも、同じ言葉の効果的な繰り返しは肯定している。

日本でも、「英語は同じ語の繰り返しを嫌う」と習うが、新聞記事や論文ではその傾向があるものの、ある言葉でしか表せない概念があればその言葉を繰り返すことになるだろうし、ル=グウィンが言うように、そもそも、

「彼女はたっぷりのクリームに、たっぷりのお砂糖、たっぷりのお茶を楽しんだ」と、「彼女はたっぷりのクリームに、みっちりのお砂糖、たんまりのお茶を楽しんだ」は同じではないのだ。
(p. 80)

また、

辞書の言葉は、自分のものになっていない言葉だ。
(p. 80)

と述べているのも、重く響く。

現在時制と過去時制、どちらで書くか?

日本語では必ずしも「来る」が現在を、「来た」が過去を表すとは限らず、文脈やリズムによって選択がなされる場合が多々ある。

例:店員はその日の昼下がり、時間を持て余していた。あまりに暇なのだ。だが3時半頃、客が一人訪れた。店員はその人物を目で注意深く追う。

「脚本は現在時制で書かれてるように見えるが、実際には命令の含意がある」(p. 102)という問題もあり、英語と日本語の「時制」について深い知識でもって明確に説明することは私には難しい。しかし、日本語の文章で、過去の出来事や心情だからといって、一律に「だった」「した」と書けば、文章の流れやリズムが損なわれ、かなり違和感や不自然さが残る場合が多いのは確かだ。

ただ、英語では「時制」はもっと確固たるものであり、同じ時点のことを述べているのに、両者がごっちゃになることはない(地の文と会話文とでは当然違ってくるが)。

本書では、「動詞の時制」(p. 101-)という項で時制について詳しく記述されている。

英語の小説では、以前は過去時制が多く用いられたが、現代では現在時制を用いるものをよく見掛ける。では、2つの時制の違いは何なのかというと、下記の考察が面白かった。

確かに現在時制と過去時制には大きな違いがあるが、それは臨場感の差ではなく、複雑性や規模の差だと個人的には思える。(略)過去時制を使えば、参照する時間と空間をたえず行ったり来たりできる。そのほうが人の心の動きに即しているし、たやすく動き回れる。(略)現在時制での語りは、ある種ずっと人為的な緊急事態が立ち上げられているみたいで、テンポの速いアクションにはうってつけの語り口トーン ともなる。
(p. 105)

当たり前のことではあるが、各時制の効果を踏まえて、小説の特徴や目的に応じて慎重に選択すべきなのだろう。

語る視点と声を操る

第7章「視点(POV)と語りのヴォイス 」は、本書の肝だ。本章での説明や実例、中でもル=グウィン自身による、同じシーンを、視点を変えた別の語りで書いた「セフリード姫」の実作例には感嘆する。

「主な視点」としては次のものが挙げられている。

一人称
三人称限定視点
潜入型の作者(<全知の作者>)
遠隔型の作者(<壁にとまったハエ><カメラアイ><客観視の語り手>)
傍観の語り手(一人称使用)
傍観の語り手(三人称使用)

これだけの視点を操り、一貫性をもった視点と声で語ることはもはや神業に思える。だが、鍛錬を積めば磨いていける力でもあるように思う。

J・R・R・トールキン『指輪物語』から引いた「キツネの視点」の実例(pp. 149-150)も、潜入型作者のなせる業だという。これも非常に興味深い例だった。

第8章「視点人物の切り替え」ではさらに高度な技が解説されている。「訳者解説」で、第8章の内容は翻訳に際しても留意すべき点だ(p. 250)と述べられていた。そのとおりだと思う。

物語に常にプロットがあるとは限らない

第9章では、プロット(筋)があるだけでは物語にはならないし、素晴らしい物語に確固としたプロットが存在しないこともある、と述べられている。

筋は説明できないが、とてもよい小説、というのは確かにある。

長編小説を書くなら、あらかじめ全体のプロットは決めてから書き始めるのかなというイメージを持っていたが、そうできなくても大丈夫で、なんならまずは短編を書いてみて、それが長編に発展することもある、とル=グウィンは言う。自身の創作経験からの言葉なのだろう。

計画や筋書きの立てられない性分でも、心配は要らないということだ。(略)必要なのはおそらく、ひとりふたりの登場人物か、何かの会話、何らかの状況、ひとつの場のようなものであって、そうすればそこに物語が見えてくる。執筆を始める前にそのことを考えて、少なくともいくらかは作り上げてみるのだ。するとたいてい自分の進む方向性はわかってくるから、あとは語りながらやれば何とかなる。
(p. 170)

「訳者解説」では、ル=グウィンがウェブサイト「ブック・ビュー・カフェ」で行ったオンラインワークショップ「物語という大海をわたる(Navigating the Ocean of Story)」で集まった質問とル=グウィンからの回答が引用されている。

「物語の行き先と行き方をはっきりと知るために、短篇から始めるのは、おそらくいいアイデアでしょう。長篇の場合、書き始める前に、その行き先と予定している行き方がわかっていると意識しておくのが、いちばんいいことだろうと、まず言いたいのです」
(pp. 247-248)

もちろん、やみくもに書き始めるのではなく、「航海の見通し」を立てておくのが大切なのだろう。

村上春樹も、のちに長編小説につながった短編小説を書いている(短編「螢」と長編『ノルウェイの森』など)。もっとも、才能ある作家だからこそそうできる、のかもしれないが、長編小説を書きたい誰しもが試してみていい手法なのではないか。

▼オンラインワークショップ「物語という大海をわたる(Navigating the Ocean of Story)」の内容が掲載されたサイト

クリエイティブ・ライティングの在り方

ル=グウィンは、クリエイティブ・ライティングの執筆ワークショップについて、プロの作家の追従者を生んだり、ワークショップ依存になったり、参加者がけなされて立ち直れなくなったりするといった弊害を指摘している。

しかし、本書で紹介されている合評会の原則(人格攻撃をせずに文章を評する、など)を適用できれば、講師がいるワークショップも意義あるものとなり得る。

▼英語圏のクリエイティブ・ライティングの学びについて書いた記事

■本『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グウィン著、大久保ゆう訳


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