『手の倫理』伊藤亜紗著:介助やスポーツから「触覚」を考察する本
「触覚」について美学者が考察した本。研究者も一般の人も読めるように書かれている。
キーワードは、「ふれる」と「さわる」、「道徳」と「倫理」、介助・介護、スポーツ、コミュニケーション・伝達、信頼、共鳴、不埒など。
体育の授業が目指すのは、他人の体に失礼ではない仕方でふれる技術を身に付けること、と聞いて、著者の伊藤は感銘を受けたという(p. 24)。私は、そのように考える体育科教育学の研究者がいることに驚いた。体育の授業は、従順な忍耐と集団意識と勝敗意識や闘争心を植え付けるものだと捉えていたからだ(勝敗に関しては、最近は白黒つけなくなっているとも聞くが)。だから大嫌いだったが、その研究者の理念に基づいてカリキュラムを設計したらどうなるのかなと思った。
次の話も興味深い。
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1つのラベリングに閉じ込められていつも同じ役割を演じさせられるのはつらい。1人の人の中の多様性がすべて集まってその人になっている。付き合いを深めていくと、丸ごとのその人や、「意外な一面」も見えてくる。決めつけない。(pp. 48-51)
うつのときや、また病気でなくても、自分の輪郭が曖昧になって不安になることがある。布団の中で丸くなったり、水泳をしたり、何かを抱きしめたりすることで、安心感や心の安定を得る。(pp. 62-63、参考文献:與那覇 潤『知性は死なない 平成の鬱をこえて』)
触覚は、ふれたものの内部にまで入り込り、内側の流れを感じ取ることができる。(pp. 74-75、参考文献:ヘルダー「彫塑」『世界の名著38』)
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ラグビーのスクラムでは触覚で伝え合い動いていく(pp. 79-80)という話からは、コンテンポラリーダンスのワークショップでの、数十人で少しずつ1人に近づいていって、団子状(?)になりながら、全員がその1人の体のどこかに触れる、というワークを思い起こした。自分だけが触れられればいいのではなく、全員が触れられるよう、もぞもぞと体を動かしながら協力し合わなくてはならない。無言で。触られる1人は体育座りのような姿勢をして体の面積(?)を小さくしているから、大変だった。でもできた!あの体験は貴重だった。
全盲で赤の他人に身をゆだねる(道を歩くときなどに介助してもらう)機会の多い女性が、危険を覚悟の上で刹那的に人を「信頼する」ことに慣れてしまい、結婚してから3年間、夫を「深く信頼する」ことができなかった(pp. 107-109)という話も興味深い。ずっと一緒にいられるだろうと思うと、そうでなくなったときに自分が生きていけなくなるかもしれないことが怖い。だからほどほどまでしか自分の身を預けられない感覚?これは、介助されることがない人にとっても、起こり得る現象かもしれない。しかし、この話では、一瞬の信頼と永続する信頼が対比されているのが面白い。
言語などの「記号的メディア」の対極にある「物理的メディア」は、例えばストレッチの正しいフォームを体に触って教える、といったもの(pp. 114-115)。スープの入ったボウルを受け渡す例も述べられていて、これはすごくよくわかる。物を渡すとき、特に例えば小さいもののとき、かつ異性の場合、きちんと受け止める前に手を放すということが時折あったりして。いい大人になればさすがにめったにないが、子どもや若いときにはあったな。緊張した手の震えが伝わってきて、物が床に落ちてしまった後は気まずくて(笑)。
目の見えない人と見える人が両端を輪にしたロープを手に通して持ち、ランニングを伴走をする際の「シンクロ」の話(pp. 152-153)も、コンテンポラリーダンスのワークショップを想起させる。2人1組で「鏡」になって同じ動きをするとき、最初は一方が先導し、次はもう一方が先導し、最後は先導者を決めずに、互いを感じ取りながら同じように動いていく。シンクロした、つながった、と思えるときと、最後までつながれずにどちらかが先導したままのときがある。つながったと思えたときの感覚は本当に気持ちがいい。会ったばかりの素性も知らない人と一瞬でも一体感を味わうのだから。
共鳴は、体の輪郭に揺さぶりをかけます。逆説的にも、あずけることによって、自分の体は拡張していくのです。ゆだねると、入ってくる。(p. 169)
現に、私たちは「思わずさわりたくなる」という衝動を覚えることがあります。ふかふかのタオル、さらさらの髪、すべすべの肌、ひんやりした大理石……。単に気持ちよさそうだから、あるいは愛らしいから、あるいはセクシーだから、どうしようもなくひきつけられてしまう。昔も今も、触覚にはそうした性質があり、抗い難い欲望と結びついています。(p. 179)
ふわふわ、もこもこの縫いぐるみを触るのは(自分のものなら)OKだが、赤ちゃんのすべすべ肌や女性のさらさらつやつやの長い髪に触れるのは、時と場合と相手を選ばないと大変なことになる・・・。かなりの衝動に駆られることがあるが、じっと我慢。よかった、私だけではなかった!
しかし、本書で論じられる「不埒な手」はセクシャルハラスメント(セクハラ)にも関わってくる。
バレエやダンスの執筆・翻訳活動を行うNaomi Moriさんのツイートで紹介されていたSWI swissinfo.chの記事「ダンス界で明るみに出るハラスメント」には次のように書かれている。
だが、なぜダンス界でハラスメントが多いのか?ジュネーブで振付作品の創作と主催を目的とする「パヴィヨンADC(コンテンポラリーダンス協会)」を運営するアンヌ・ダヴィエ氏は、性的虐待はあらゆる社会分野で起きていると断言する。中でもダンス界で被害が多いとすれば、「この職業では身体が主な仕事道具であり、身体的な接触が多いから」だと話す。
日常生活でも、どの身体接触が問題のないもので、どの身体接触がセクハラに当たるかは、当事者の関係、起こった場所や状況によって、「基準」や「客観的判断」は難しい場合があるだろう。(された本人がセクハラと捉えればセクハラだ、ということは大前提として)
例えば、飛んできたボールや急発進してきた車に当たらないよう、一緒に歩いていた同僚が手を引っ張ったり、肩に腕を回して引き寄せてくれたりしたら、セクハラとは思わない(人がきっと多い)。だが、飲み会で(恋愛関係にない)同僚がずっと肩に手を置いてきたらセクハラだ(と見なす人が多いのではないか)。
しかしダンスの場合は、境界がもっと曖昧になりがちかもしれない。もちろん、ダンス界であろうがどの場であろうが明らかにセクハラだという言動もある。一方で、ダンスは身体に「触り触られる」ことが頻繁に起こるものなので、通常はかなり親しい人でなければあり得ないような体の部分に触ったり、姿勢を取ったりする。そのとき、踊りの一環として、ダンサーという職業人やアーティストとして、触っている、という触り方をする人が大半だとは思う(そう考えたい)。だが、中にはやはり(本書『手の倫理』が言うところの)「不埒な」触り方をする人もいるということを、上記のSWI swissinfo.chの記事は示唆しているのだろうか。
「不埒な」触り方かそうでないかは、触られている本人には即座に、ほぼ確実にわかる。しかし傍目にはすぐわからないかもしれない。ただでさえ上下関係や業界内での自分の立場を心配して言い出しづらい状況がある中、そうした見た目には「微妙」なセクハラに悩まされているダンサーもいるかもしれない。
演劇界もかなり「閉じた」場で行われる業界のため、パワハラ、セクハラが大きな問題となっているが、ダンス界も例外ではない。ダンスを見るのが好きな人間として、つらくても直視して考えなければいけない問題だ。
伊藤亜紗さんはダンスについてもいろいろと語っていらっしゃるので、引き続き注目したい。
※上記リンクから論文をPDFでダウンロードして読める。
※上記の記事では、ダンサー・振付家の砂連尾理さんの「チューニング」について書いている。