
良い悪い、正しい間違っていると思っていることを疑ってみる
息子たちが学校に行けない、行かない選択(この言葉もどうなのかなと違和感を感じてる)をして、自分が息子たちに感情的になったり、強く言い募ってしまうのは何故なんだろう?と思考と感情を書き出しながら、問い直してきた。
そこで自分が良い悪い、正しい間違っているとジャッジしていることが在るなと感じている。
そしてそれはなぜそう思ってきたのかを問い直してみると確実にそうだと言い切れないことや、なぜそう思い込んでしまっていたのか不思議なものに出会う。
また、傷つきや痛み、悲しさ、怒り、切り離された感覚などが在って、すごい怖れになっていたんだなと感じている。
そして良い悪い、正しい間違っているというレッテルを貼って、それをどうすると良いのかという対処方法を考え出してきたんだなと思う。
私はいつもそれをやってきた。
由佐美加子さんのザ・メンタルモデルの世界に触れて、それが更に明確になった。
由佐美加子さんの本『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』のワークブック『ザ・メンタルモデル ワークブック: 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』を自分でやってみたり、ザ・メンタルモデルの講座に参加して、ワークを一緒にやる中でダメとイケてるを分けてきたんだなとわかった。
それを自分に課したり、それができないと自分を責める。
恥ずかしいから隠す。
そんなことを散々やってきたんだなと思う。
ダメなこと、悪いこと
例えば私の中でダメなこととして入っているのは
弱音を吐く、泣く、愚痴を言う、頑張らない、とりあえず挑戦しない、相手の気持ちを察知できない、相手の期待に応えられない、不安や怖れが強い、ネガティブ、判断が遅い、迷惑や負担をかける、自分の気持ちを優先する、
とてもできる事ではないなと今は思う。
それを自分に課したり、できない自分を散々責めたり、脅したりしてきた。
それが心身の健康に影響を与えていたし、身体の反乱がパニック障害だったんだと20年以上経って、やっとわかった。
自分をコントロールしないといけないと思い込み、コントロールし続け、身体がコントロールなんてできないんだと訴えていたんだなと思う。
どれだけ大きな声で伝えていてくれたのに、受け取らず、気づけずにきたのか…。
子ども達にもそれを課していた部分。(コントロールしようとする自分)
反対に子どもの意思や願いを尊重したい部分(コントロールに反抗して、願いから生きたい自分)
ここでいつも葛藤していたなと思う。
良いやイケてるの中に在る悪いやダメ
ワークの中で私は「ダメ」が恐ろしく多く、「イケてる」が恐ろしく少ない。
しかも「イケてる」はダメを改善しようと頑張っている自分で、根っこに「ダメ」「悪い」が隠れていた。
私が「イケてる」に書いたのは
誰かの役に立つ、ポジティブに考えて頑張る、てきぱきできる、相手の気持ちを考える、即座に判断し動く
これらの出身は「ダメな自分」「悪い自分」。
それを何とかしようと散々頑張っている自分。
できない時に散々責めてる。
日常のいろいろなことがこの「ダメ」から遠ざかって、「イケてる」に近づこうとする試みだったんだなと感じる。
そして本当の私は
どう感じているの?
どうしたいの?
という問いが抜け落ちてる。
ここに気づいて愕然とした。
私が大切にしたいこと、願うことにつながる
息子たちと対話をしたくていろいろ学ぶ中で出会ってきた、傾聴、対話、問い、オープンダイアログ、支配と被支配、トラウマ、脳、心理的安全性、NVC。
そこで感じるのは、自分は何を感じ、何を願うのかにつながることの大切さ。
一人一人違う価値観、願い、大切なこと、体験したいことが在る。
その満たし方、やり方、プロセスも一人一人違う。
見えていること、注目したいこと、好奇心や情熱が湧くもの、知恵や探求につながるもの。
それらが一人一人違う。
そこにつながらない限り、苦しさ、悲しさ、憤りを感じやすい。
また安心して、のびのびすることで、自分の中に在る力を感じて、活用できるんだと自分の学びや探求の中で感じてきた。
支配や秩序、システム、場、コミュニティなどが優先され、個が蔑ろになりやすい
私が良いと悪い、正しいと間違っている、ダメとイケてると思い込んできたのは、教えられてきたこと、見てきたことが在るなと感じる。
またそれぞれの想いや願いが対立する時に痛みや傷、憤り、悲しさ、孤独を感じ、自分の中でルール化したものが在る。
それどどんどん増やして、いつの間にか内在化し、自分を評価し、無理を課し、できないと罰してる。
またそれを他の人や子どもなどに押しつけているんだなと感じる。
NVCの感情とニーズは自分のものとして責任を持つ。
一人一人違う感情とニーズが在る。
それを正しさとして押しつけることはできない。


それぞれを大切にしなければ、結局全体の発展や安心は得られないんだと思う。
関係性が難しくなったり、誰かが自信を失くしたり、安心して最大限の力をはっきすることができなくなってしまいやすい。
だから自分の中に在る良い悪い、正しい間違っている、ダメイケてるのジャッジに気づき、自分とつながり、理解すること。
そして相手のことに耳を傾けることが本当に大事だと思う。
感情的になったり、喧嘩になる時はチャンス
自分が何に反応したのか
何を良い悪いとジャッジしているのか
自分に何を課したり、責めているのか
ここに気づけるチャンスになる。
感情的になった自分や相手を責めたり、
喧嘩したことを後悔するではなくて、
そこに在るたくさんの感情とその感情が伝えているニーズ(満たしたいもの、大切にしたいこと、願い、欲求)を感じて、受け取ってみよう。
またそこに在る怖れを感じていくと痛みや傷つき、悲しさ、憤り、寂しさなどに気づけるかもしれない。
そこも受け取る。
相手にも同じようにニーズが在り、怖れや痛みが在る。
私たちは誰もが怖れや痛みからたくさんのべきやルールやジャッジを使っている。
それも良い悪いではなくて、必要だったからできたこととして、在るものは在っていいと受け取る。
そこからできごと、自分、相手を理解していくことで見える世界が在るなと感じている。
それは効率や価値を出すこととは真逆かもしれない。
また短期的には良くないことのように思えたり、狭い範囲で考えると間違っているように思えるかもしれない。
でも長期的、全体性、関係性、持続可能などの観点から見るとそれが必要なことかもしれない。
もう一度ジャッジや怖れからではなく、元々の自分とつながり、
本当はどうしたいのか、
何を願っているのかを自分に問い直してみたいと思う。
怖れが強いものは傷や痛みの記憶が心身に在って、簡単ではない。
子どもやパートナー、両親、職場の人などに○○しなければいけないと強く言い募ってしまったり、それをわかってくれない時にすごく感情的になるものは自分の傷つきや痛みの体験が在るかもしれない。
また自分が痛みを二度と体験しないようにやってきたことで、上手くいってきたものは正当化されやすい。
自分では気づけなかったり、制御することが難しい。
だから共感的に聴いたもらうことで、受け取ってもらって、自分の痛みや傷を癒すことが力になる。
また問いを投げられることも気づきになる。
それが否定や強制ではない形でできる可能性がNVCには在るなと感じている。
共感サークルや様々なワークで自分の中に在る感情とニーズをどれも否定せず、感じて、受け取ること。
否定やジャッジ、アドバイスなどがない安心を感じる中で聞いてもらう体験ができる場はなかなか無い。
これからも地域で安心して在るものは在っていいを感じられて、自分につながれる場を創っていきたい。
今後の予定
①11/29(金)10時~16時
アロマケアで繊細さんをハッピーにのかずよさんとコラボ
内容は検討中です。子どもニーズカードやニーズカードを使う時間はつくろうと思っています。
②12/6(金)10時~17時
こころを見える化する「きもちのへや」2回目
コラボ めいめいさん・築地美津子さん(マチノパズル代表)
自分・パートナー・子ども・両親
自分のきもちや大切な人のきもちをカードを使って、見つめてみよう
子どもニーズカードの販売も在ります。
どちらも詳細は後日インスタにアップします。