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雑感記録(352)

【ぼくのなつやすみ3】


この記録で「ぼくのなつやすみ」を締め括ろうと思う。

以下記録たちの続きである。

酒を飲んだ翌日の朝というのはあまり眠れた気がしないものである。とは言うものの、僕は途中からソフトドリンクばかり飲んでいたのであまり「酔った!」と大仰には言うことは出来ない。だからと言って、「じゃあ、俺は酔わなかったんだ」とこれまた大仰に言える訳でもない。実際酔ったと言えば酔った訳で…と言い訳を考えながらベッドから降りる。

時刻は朝の6:30だ。何故か墓参りに行く時には矢鱈早起きをして、ほぼパジャマのままで墓参りへ行く。父方の祖父、昨年の夏に無くなってしまった祖父のお墓は実家からそれ程遠くはない距離である。朝イチ、父親の運転する車でお墓へ向かう。父と母と僕の3人で眠気眼をこすってバケツやら、所謂「墓参りセット」を車に積み込み出発する。

朝、早いのには慣れっこだが、それにしても早すぎるのではないか。


 ある人が、自分は死者を相手にするよりほかに文体の成り立たせようを知らぬと言った。
 私はこんなことを考える。私は日常の暮しを重ねてきて、何の変哲もないある日、何の予感もなしに家を出て、そのまま帰らない―死んだ、と想定して、そこから遡って日常を描くことは、できぬものか、と。

古井由吉「死者のごとく」『招魂の囁き』
(福武書店 1984年)P.80

墓へ向かうと既に何人かは来ていて、早朝から墓参りをしている。朝から大変だなと思う訳だが、大概僕等もだよなと思いつつ僕はバケツに水を入れる。父親と母親で墓を掃除する。僕は蚊帳の外で、それを眺めているだけだ。手持無沙汰になった僕は周囲をキョロキョロ見回し、自然がいっぱいだなとただそれだけを感じた。

人は死んだら土に還る。僕の死に対するイメジはこれだ。何と言うか地球と一体化するということ、自然と一体化するということ。これこそが人間が最終的に行きつく先なのだとしみじみと感じる。そう考えると今、僕等が生きているということはさして重要なことではないのかもしれないと考えてしまう。先の記録にも書いた訳だが、自然を目の前にして人間なす術はないのである。

都会で生活すると自然というものは駆逐され、人工物だらけである。その狭間に墓が乱立し、自然に還るどころの話ではない。土には確かに還る訳だが、自然に還る訳ではない。僕は都会の墓には入りたくないなと心の底から願う。ある意味で忘れ去られるような、自然とより一体化できる場所で静かに眠りたいものだと、まだまだ先の事を祖父の墓を見ながら考えてしまうのであった。

父が線香を取出し火を付ける。

僕は昔から線香の匂いが好きである。どこか不思議な匂いがする。この匂いを嗅ぐとこの世に非ざる何かと一体化するという、言ってしまえばトランス状態に入ることが出来る。そしてこの匂いを嗅ぐことで故人を思い出すことが出来る。匂いと記憶というのは密接に関係しているのではないだろうか。線香を考え出した人物は本当に天才だと思う。そんなことを考えてしまうのである。

そそくさと線香をあげて、つつがなく父方の祖父の墓参りは終了した。


たばこ屋

 そのたばこ屋はお寺のとなりにある
 美しいかみさんがいて
 たばこの差出し方がたいそうよい
 上品な姉と弟の子供がいて
 いつかなぞはオルガンをひいていた
 それに
 顔つきのおとなしい血色のいい主人がいる
 もつと立派なたばこ屋は千軒もあろう
 そしておれもたばこを
 いつもいつもよその店で買つてしまう
 しかしおれは
 そのお寺のとなりのたばこ屋を愛している
 そのちいさな店に
 おれのさぶしい好意を寄せている

中野重治「たばこ屋」『中野重治詩集』
(岩波文庫 1978年)P.55,56

自宅に戻り朝飯をかっ喰らった後、しばらくして今度は母方の祖父の墓参りに行くことになった。昨年ぶりの墓参りということもあり、行かねば行かねばと思っていたものだから、やっとのことで行けるとの嬉しさと言ったら変な話だが、嬉しかった訳だ。僕はたばこ屋で購入した中南海を携えて、再び父の運転する車で1時間程度揺られて行くこととなった。

写真右側が当時、祖父が吸っていたものである。僕は写真左の中南海を吸っている。祖父の墓参りに合わせて僕も中南海を吸うことにしたのである。いつもはキャスターの1ミリだったので、中南海の1ミリを吸うことにした。しかし、やはり1ミリだ。ガツンと来るものがない。どことなく薬草感が漂うなと思った訳だが、これを美味いと言って吸っていた祖父の気持ちは未だに分からない。

車で祖父の家に向かい、そこで祖母を拾って墓へ行くこととなった。この墓は山の中腹にあり、墓に辿り着くまでの長い坂道を登って行かねばならない。これが結構しんどい。周囲は樹々で生い茂っており、虫がうじゃうじゃ飛んでいる。「今日はクマンバチはいないようだな」と自分の中で少し落胆する。

祖父の墓参りをすると決まってクマンバチが僕の傍に飛んでくる。不思議なものである。それも毎回だ。ブーンという羽音と共にやって来る。最初の頃は恐怖で逃げ出していた訳だが、回数を重ねるごとに慣れるもので僕の方に近づいてきても何とも思わなくなった。むしろ、そこに祖父の姿を重ねるぐらいには愛着を持っていたのだろう。

祖父の墓の前に行き、先程のように掃除をして線香をお供えした。

僕はタバコを蒸かし、それをお供えする。しかし、クマンバチは来ない。僕が1人で墓参りする時だけにいつも現れるのかなと思ってみたりもする。どことなく寂しさが僕の心の中に住まう。僕も一緒に1ミリのタバコを蒸かした。「これのどこが美味いだ」と思いながらも、何だかしみじみとしてしまうものがある。自分もタバコを吸える歳になったんだなと時の流れに苦しくなる。

結局、クマンバチは来ず、そのまま祖父の家に帰ることとなった。


祖父の家には僕の蔵書が置いてある。

東京に引っ越す前に、自分の自宅にあった本の一部を置かせてもらっているのだ。その本の状態を見て、「これは乾燥剤でも入れてやらんとマズいな」と思い、歩いて10分も掛からない所にあるホームセンターへ散歩がてら乾燥剤を買いに出かけた。

乾燥剤を買った帰り、小さい頃よく祖父と遊んだ公園へ寄り道した。この公園には今どきでは珍しく、灰皿が設置されている。僕はそこで遊具を見ながら過去の、小さい頃の祖父との記憶を手繰り寄せながらタバコを蒸かす。小さい頃は遊具も大きく見えたものだが、この歳ともなると小さく見える。きっと祖父も僕と遊んでいる時はこんな形で見えていたんだろうなと想像する。

ベンチに腰掛けゆっくり、宙に向かって上がる煙を見つめる。

ブーーーーン。

僕の背後で大きな羽音が聞こえる。その羽音は頭上に行き、僕の眼前に姿を現す。クマンバチだった。クマンバチはハチの中でも大人しい部類である。「ハチ」というだけで危険視されがちだが、実はクマンバチは大人しいハチである。ずんぐりむっくりした身体で、何ならかわいいまである。僕の目の前をただブーンと飛び廻る。僕は素知らぬ顔でタバコを蒸かし続ける。

今日はここで会ったか、じいさん。と心の中で呟きタバコを蒸かし続ける。すると、僕のベンチのとなりにクマンバチが止まる。大人しいものだ。きっとタバコの煙に誘われてきたんだろう。じいさんも中南海を吸いたくなったのかなと勝手に想像する。だが、クマンバチにはタバコは吸えない。代りに僕が思う存分、吸おうじゃないか。

しばらく過ごしたのち、僕はベンチを後にする。灰皿からは微かに煙が燻る。クマンバチは動く気配がない。「やっぱり吸えねえのは辛いか、じいさん」と心の中で話しかける。クマンバチは動かない。そうか、そうだよな…と思いながら満足して僕は祖父の家に戻った。


そんな訳で「ぼくのなつやすみ」は終了した。

良い夏休みだった。

よしなに。

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