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雑感記録(366)

【「リアル」と「現実」の狭間で】


今日、僕が好きな作家さんの展示を見に行って来た。

小林敬生さんを知ったキッカケは、僕の記録で何回も登場している、僕の恩人である社長が教えてくれたことによる。つい先日、社長が東京にいらっしゃるとのことで、彼女の紹介も兼ねて一緒に食事に行って来た。いや、誘っていただいたというのが正しい表現だ。その時に小林敬生さんの個展が銀座でやるとのことで、社長がいらしたということを知った。僕もぜひ行きたいと思い、会期の最終日である今日銀座のシロタ画廊へ行って来た。

かつて僕は社長と一緒に地元で開かれていた小林敬生さんの展示を見に行ったことがある。作品やそれらについて考えてことなどは過去の記録を読んでもらうといいかもしれない。この記録を書くにあたって今日の個展帰りにお酒を片手に銀ブラしながら読んだのだが、考えていることや思ったことなどは正しくその頃に書いたことと全く(というと少し違う様な気もしているが…)一緒である。

しかし、今回は新作も見られるとのことで、当然に上記の記録とは違う作品を見てきた訳である。感覚としては同じかもしれないが、やはり受ける印象というものは変わるものである。今日はそれについて思ったことや考えたことを少しばかし書いてみようかなと思い、こうして書き始めた次第である。


風景画は額縁から流出するだろうか

画家は目前にあるものとは全く異ったものを画いてしまった。しかもそれは我と我が心の意図したものとも全く違っているのだ。近景にあるのはありふれた目薬の小壜ででもあるらしい。そして中景には空があり、遠景には動物の趾のようなものがある。と同時にそれらがすべてセピアに近い色調で画かれているために、全体の印象は一枚の樫の厚板の多様な木理のようでもある。
何者もそれが何処であるかを指摘できぬだろうし、またそれが何なのかすらあえて言い出す者はなかろう。だがその画は何ひとつ抽象化し得ていないし、それはまたいかなる人間の心象にもその対応を得てはいない。そのような画は当然どんな室内の、どんな壁面も期待できないのだが、そのことによって画又は画家が罰せられることもないのである。それはただ現世の無数の事物への、偶然のそれ故に誠実な窓の如きものであり、その窓を通して我々の見るものが何であるかはいつまでも隠されている。
おそらくは無口な工人の手になる丁寧な細工の額縁のみが、その画の価値を推測し得る唯一の根拠であるが、画がその額縁を超えて流出せぬとは何者も保証しない。

谷川俊太郎「風景画は額縁から流出するだろうか」
『定義』(思潮社 1975年)P.56,57

銀座まで行くには大手町駅か日本橋のどちらかで乗換えをしなければならない。大手町で乗換えするならば丸の内線、日本橋で乗換えするならば銀座線である。どちらも銀座駅に着くのであるから、正直どっちでもいい話ではある訳だが、僕は悩んでしまった。強いて言えば、大手町が日本橋の1つ前の駅であるということぐらいである。どうしたものかなと考えながら乗っていた訳だが、しかし悩む必要すらなく大手町駅が先にくるのだから、そこで乗換えをすればいい。僕は大手町駅で下車し、丸の内線に乗り換えた。

丸の内線に乗ること自体があまりないので、ドキドキしていた訳だが実際乗ってみると普段利用している路線と毛色が違うことに面白さと窮屈さを感じた。外国人の乗車率が尋常ではないのである。僕の乗車した車両がたまたま多かっただけなのかもしれないのだろうが、それにしても外国人がやたら多い。日本に居るのに、どうも日本に居るのかどうか分からなくなる。飛び交う言葉は外国語ばかりであった。

銀座駅に降り立ち、まず人の多さに辟易としてしまう。僕は出口に向かって歩くのだが、銀座駅は頭がおかしいぐらいに出口が沢山ある。これは地下鉄あるあるだと思うのだが、出口を間違えると目的地から遠ざかってしまうということが起きてしまいがちだ。今日はあらかじめ「A3」出口であることを確認していたのでそこに向かった訳だが、それでもそのA3出口を見付けることがそもそも難しい。一たび立ち止まってしまえば、人の波にさらわれてしまう。

僕は上に表示される黄色の表示を見ながら進んで行く訳だが、しかし歩けども歩けども全く以てA3出口に辿り着かない。近づいたと思ったら離れて、離れたと思っていたら実は近づいていたりと何だか訳が分からない。地下鉄はやはりダンジョンである。電車とは現代のミノタウロスかもしれないと馬鹿みたいなことを考えながら人の波にうまく乗り出口へ向かう。無事に出口が見え、階段を上がればやっと地上に出られる!という僕の淡い期待は一瞬にして砕け散る。


地上に出ると銀座は歩行者天国だった。

僕も神楽坂に住んでいるので歩行者天国が大体どんなものかは分かっているつもりであった。しかし、銀座は規模感がおかしい。もちろん神楽坂と比べると道路の広さも違う訳だから当然違うけれども、それにしてもなんだこのカオスは…。僕はここに在るのにここにない。そんな感覚を抱いてしまった。自分の存在の不確かさみたいなものが突如として襲ってくる。僕という存在が掻き消されてただ思考だけが漂っている感じだった。

どことなく浮遊感を感じながら、ただ黙々と目的地であるシロタ画廊に向かう。不思議なことに、大きな通りからそれて細い路地に入ると忽然として人が消える。僕ははたと後ろを振り向き、そのギャップに余計に苦しめられる。僕は虚構を生きている。だけれども、僕の身体はここに在るということは確かではないが在るということだけのみがうっすらと薄い膜を被ったような形で、手触りだけが頼りである。

シロタ画廊に着き、いよいよである。

階段を下ってシロタ画廊に入って行く訳だが、入口すぐの所から作品が並ぶ。「あれ、見たことない作品だな」と思った訳だが、当たり前な話である。それは今年に製作された作品だからである。僕は食い入るように作品を見た。入口の作品は色が付けられていて、今まで触れてきた作品はモノクロのものだったので新鮮だった。モチーフとしてはやはり自然が主に置かれていて、不思議と安心した。

進んで行くと、多くの人が居て賑わっていた。美術館の展示とは異なり、画廊なので様々な人たちが交流をしている。これも僕にとってはかなり新鮮である。美術館へ行って作品を見るとなると、静かに黙って黙々と作品と向き合うというような暗黙の了解が存在する訳だが、それとは真逆な光景が眼の前に広がっていたのである。更に嬉しいことに、小林敬生さんが在廊していらしたのだ。話しかけようかなと思った訳だが、小林さんのご関係者の皆様が次々に話していたので、お忙しそうで話しかけるのが憚られた。

小さい会場に所狭しと並ぶ作品に僕は心を奪われて長居してしまった。作品に描かれるその自然を見た時に、僕はふと「ここに在る」と感じたのである。ここに辿り着くまでに失われた僕がスッと舞い戻って来た瞬間がそこにあった。手触りとしてやって来る僕の存在みたいなもの。別に格好つけて書いている訳ではなく、本当にそれを感じたのである。今まで触れてきたものがそこに存在していた。

そこに描かれるものが僕の存在を喚起する。これまでにない経験である。そこにある自然はあくまで虚構としての自然である。だが、やけにリアルさを以て眼前にやって来る。「リアル」と「現実」の狭間に僕は居るんだとふとそんなことを考えてしまう。この空間は正しくそんな感じで、「あそび」としての空間がここに存在していると感じた。

ゆったりした時間の中でぼくはそこにある「リアル」と「現実」の狭間でお互いを行き来しながら作品を身体全体で愉しみ、画像右の画集3冊セットを購入してシロタ画廊を後にした。


 自然てのはわれわれの外にあると同時に、内にあるものなんだね。言語が生まれたおかげで、人間は内と外の自然をどうにかこうにか秩序立て、整理し、飼い慣らしているような気がしてるけど、どっこいそう問屋がおろさない。訳の分からない衝動を動物的本能なんて呼んでお茶を濁してるだけさ。
 地震も雷も台風もこわいけど、本当にこわいのは自分自身という自然で、これにはダムも作れなきゃ、運河も通せない。外の自然よりはるかに制御し難いものだな。しかも内なる自然と外なる自然派、どうしようもなく固く結ばれていて、人間の魂と呼ばれるものはその結節点みたいなものなんだよ、きっと。

谷川俊太郎・和田誠「自然」『ナンセンス・カタログ』
(大和書房 1982年)P.93

シロタ画廊を後にして、僕はお酒を片手にのんびり銀ブラして帰宅する。

再び僕は銀座の歩行者天国に揉まれながら日本橋を目指す。周囲を見渡せば外国人だらけ、写真を撮る者たち。何だか僕は日本に居るのに日本に居ない感覚になる。先程の丸の内線と同じ感覚である。そして僕と言う存在がまたしてもどこかへ連れていかれる感覚に襲われる。展示された画で恢復した自分自身という存在がまたしても消えかかって行く。人の波に僕と言う存在が失われていく。

今僕が歩いている場所は虚構であり、僕は虚構を生きている。実際、僕が僕であるという確証を得ることは僕自身でも難しい。単に、「僕が僕である」と思いたいから僕と言う存在が在る。きっと僕は虚構の住人である。しかし、身体はどうかと言うと地面を踏みしめ歩き、背中に滲む汗を感じ、臭い匂いを感じている。身体は現実にある。思惟する僕はリアルにある。一体僕と言う存在はどこにあるのだろうか。

小林敬正さんの画を見ていた時、身体と思惟が協調し同じベクトルに向かって進んでいたのだと思う。身体は物理的に画を向き、思惟も画の方向を向いている。そしてその画は物理的に現実にそこに存在し、画はリアルである。そう考えると僕はリアルと現実の狭間を行き来していたことになる。これは芸術における分野そのものがそういう特性を引き出すものなのだと思う。リアルと現実の狭間。そしてその中で、両方の世界を行き来すること。これこそが「生きる」ということなのかもしれない。

ここ最近、本当に僕は何処を生きているか分からなくなる。

しかし、今日展示を見に行ったことでつかめたことの1つは、先の繰返しで恐縮だが「リアル」と「現実」の狭間で両者を身体と思惟のお互いが行き来することこそが「生きる」と言うことであり、自分がここに在るということを認識できる手段であるのではないかと思われる。そんなことを考えてみたものの、僕は本当によく分からなくなっている。今、僕はここに在るのか、そもそも僕は存在しているのか?僕は僕自身の存在すら怪しい所に居る。

生きることは難しい。

そういうことを考えた1日であった。

よしなに。

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