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雑感記録(308)

【夜の戯言集3】


書くことは無いけれど、書きたいという衝動はある。

これは前にも古井由吉のエッセーを引用して何だか自己肯定なることをしてしまった。自分自身の正当性を確かめる。何だか虚しいような生き方をしてしまっているような気がしなくもない。誰かに自分の正しさを担保してもらわなければ生きられないとは哀しい人間であることを痛感させられる。

正しさというのは暴力的である。最近本当に感じる。日々生活をする中で常に正しさを求められる。守られるべき正しさは有るべきだが、どうでもいい正しさなどは唾棄すべきである。しかし、どうでもいい正しさとは何だ?とふと考えてしまうものである。

人間生きていれば、何が正しくて何が正しくないかと判断しがちである。この判断基準とは一体どこから来るのだろうか。慣習か?環境か?経験か?僕はいつもそこで揺れ動いてしまっている。誰かが「これは正しい」という時に疑うことをせずに受け入れられてしまう正しさというのはやはり怖いものがある。

誰しも正しさを求めている。僕もそうだ。言ってしまえば正しさを欲している。しかし、その正しさを手に入れた瞬間、それが一瞬にして風に吹かれる砂となって手から零れる。そして次の正しさを求めてまたどこかへ彷徨い続けるのかもしれない。

僕はこれまでnoteにあることないこと散々書いてきている。僕は自分で書いた文章を読むことが好きだから、自分の記録を読み返す。だが、どうも読んでいると僕の語る基準はいつの間にか「自分にとって好きなこと」から「自分にとって正しいこと」へと移行しているかもしれない。というよりも、好きであるということは同時に正しさを生んでしまうのかもしれない。

好きであるということは、圧倒的にそれを肯定してしまうことである。例えば、人を好きになること。これはその人を全力で肯定しようとする行為そのものであって、それが自分の中で正しさとすり替えられる。恋仲になった人間たちのすれ違いというのは言ってしまえば、彼氏彼女のことを肯定できなくなってきたことの現れである。

受け入れることは肯定することではない。受け入れることの方がよっぽど凄い行為だ。「肯定」という言葉は単純に「肯定/否定」という二項対立を孕んでいるからである。「僕は彼女のことが好きだ」というのは同時に「僕は彼女のことが嫌いだ」ということも含んでいるのではないか。だから「私のどこが好き?」と聞くのではないだろうか。好きを確かめるという行為は、好きに内包されている嫌いという否定を避けるための手段である。


好きと正しさが繋がる。

これは先にも書いた通り、圧倒的肯定な訳で、そこは同じである。好きということはそれを肯定することにある。そして正しさも、「今自分がやっていることは正しいのだ」と信じることで圧倒的肯定を生む。好きが正しさにスライドして行くことは何ら不思議な事ではない。あまりにも無責任な言い方だが、自然のことであると言ってもいいだろう。

だが、僕等の生活や世界はそんな「好き/嫌い」「正しい/正しくない」「肯定/否定」といったものだけで語りつくせる程生易しいものでは決してない。そこには衝突が生まれる。今、これも僕の肌感なので説得力は1ミリもない訳だが、何でもかんでも明瞭にそして曖昧模糊とした態度は徹底的に排除されるような、そんな印象を抱いている。

例えば恋人との喧嘩、夫婦間の喧嘩なんかを想像してみるといいかもしれない。大概、こういう喧嘩の場合は何故か男性側がとかく原因になりがちだが、男性側はその場を鎮静化させようと「まあまあ」的な曖昧な態度を取る。しかし、女性からすると原因と結果を明瞭に提出されなければ納得がいかないものである。

これを仮に男性側が怒る立場で原因と結果の提示を明瞭にしろと女性側に言ったら大抵話が脱線する。「あんたはいつもこうで…」「あの時も…」というように変な方向へ飛んでいく。言ってしまえばそれも曖昧模糊でスライドさせている。そしてまた別の明瞭性ある回答を、そしてまた別の明瞭性ある回答を…というように場はどんどんと曖昧模糊の方に転倒している。

勿論、僕はだからと言って全てを「まあまあ」的な態度でやり過ごすのは良くないというのは百も承知だ。言語化できるものについてはきちっと言葉に落し込んで話すこと、自分の考えていることを伝える努力はすべきである。だが、それ以外の部分で正しさを求められるのは辛い。誰にだって言葉で語れない複雑な感情を持っているのである。

しばしば、好きだったら言葉に出来るとか、態度で示せということを声高に叫ぶ連中が居る。僕はそういう人たちを見ると腹立たしくなる。それは言語というもの(態度というものも言ってしまえば「ボディランゲージ」みたいなもので、一種の言語とも言える)が絶対的な神様でもあるかのような様相を呈してしまっていることに腹立たしさを感じるのである。

言葉を僕等は毎日使って話している。その延長線上で自分自身の内面も全て言葉に出来ると勘違いしすぎではないかと僕は思っている。ハッキリ言えば言葉にそこまでの力があるとは僕は思えない。文学を学んできた人間が大口叩いて言えたことでは決してないが、しかし言葉を選ばず言うのであれば、文学的な思考や感性が無い人程、言葉に対して何故か極端なる信仰をしている。僕はいつも不思議だなと思う。


正しさというものも、今こうして僕が「正しさ」という記号を与えているからそれが「正しさ」として眼前に現れるだけである。正しさなんて言うものは言葉で表現できない。それは好きということもまた然りである。どれだけ言葉で「正しさ」を書いても言っても、「好き」を書いても言っても、取りこぼしてしまう部分は当然ある訳だし、何より「それが正しいのか正しくないのか分からない」ということなんて山のように存在する。

僕がここ最近目指している所はここにある。

僕のnoteは平均5,000字程度で書かれる。しかし、実際の所これだけでは足りない。事実、僕の記録の殆どは自分が書くことに疲弊したから辞めるパターンが多い。これが「正しい/正しくない」というのは至極どうでもいい。今僕はある種「このぐらいの文字数書いてやっているんだぜ」という自慢じみたことを書いてしまった訳だが、これが良いか悪いかなんて言うのは結局分からない。正直、僕にだって分からない。

その「良い/悪い」「正しい/正しくない」「好き/嫌い」「肯定/否定」が曖昧模糊とする所にこそ可能性があるような気がしている。ズラすこと、はぐらかすこと。今、そういう態度を敢えて取ってみても良いんじゃないのかと感じている。それと同時に相手のそういう態度を受け入れる度量が必要だとも僕には思われて仕方がない。寛容になりたいということである。

寛容になるということは、これまでの話を敢えて踏まえるとするならば「受け入れる」ことに他ならない。これは肯定でも否定でもない。ただ無条件に受け入れる。「自分にとって」という主語をまずは取り去り、それをそれそのものとして受け入れることである。だがこれは如何にも安直な「相手の嫌いな所も受け入れる」という言葉と同等に捉えて欲しくは決してない。

これは単純な話で、受け入れる以前に「嫌い」という「好き/嫌い」という二項対立の構図が前提として存在しているうえでの言説だからである。とこう書いてはみるが、中々難しいものだ。実際やろうと思って出来るものでは決してない。そして何よりこれが危険なのは、昨日の記録でも少し触れたが「これはこういうもんだ」という認識に陥りがちになってしまうことにある。倦怠期のカップル、熟年の夫婦みたいなものである。

人の思考というのは流動的である。読書をしているとそれがよく分かる。読んだ時々の本に影響を受けるからである。自身の生活や世界の中で些細な事でも何かは起きる。例え平凡な日常であっても些細な変化というものは存在する。その全てに影響を受ける訳ではないにしろ、少なくとも若干の影響を受けて考え方や生活の仕方、見方。ひいては世界との接し方も変わることだってあるだろう。

そうすると自分の中に定立している「正しい/正しくない」「好き/嫌い」「肯定/否定」といったものが少なからず綻びを持って眼前に現れてくる。その時を逃さないこと。その端緒が曖昧模糊とした何かである。僕はこれを掴み取りたい。そして、これを発展し拡張させる場こそが「あそび」の空間であると僕は信じているのである。


読書をしないことの危険性は僕はここにあると考えている。つまりは、二項対立に容易く回収されてしまうことである。そしてもっと言ってしまえば、これは僕の過去の記録を読んでくださっている稀有な方々はお分かりかもしれないだろうが、読む本も大切になってくると僕には思われて仕方がない。

やはり僕は小説を断ったとは言え、根底にあるのはそれな訳で、どうしてもそれ無しで語ることは出来ないらしい。まあ、それ無しで語ろうとも決して思っていない訳だが…。ある意味で「あそび」というものこそが文学の場であると言っても過言ではない。

何度も繰り返し書いて恐縮だが、僕にとっての目下の敵は自己啓発本である。別に読む分には構わない訳で、それを必要としている人は読めばいい。YouTubeでもそういうコンテンツを見ればいい。誰かが要約しているものでも読めばいい。それは各々の自由である。ただそこに書かれていることは「正しさ」にまみれている。それが僕は危険であると感じている。実際、そこに書かれていることの全てが正しいとは全く以て思わないが、そこに書かれていることを実践して成功した人間が書いているのだから「正しさ」を持ってやって来るのは当然の帰結である。

だが、だからと言ってその正しさに迎合してはいけない。そうすると判断基準が狂う。これは「正しい」とか、これは「好き」だというように二項対立でしか物が語れなくなってしまう。一瞬の予断も許さない何か。僕等は考えもせずに正しさを受け入れてしまう。

話は些か脱線するが、僕は言葉で全てを語りつくせてしまえるものに実は興味がない。例えばある小説でも、詩でも、映画でも、美術でも何でもいい。その作品の良さを語る時にパッと「ここが良かった」と説明出来てしまえる作品にはあまり興奮しない。寧ろ「何となく動かされた瞬間」を持てるものの方が興味をそそる。僕がこれまでnoteに書いてきたあれこれは、実際noteに言葉として表現してしまっている訳だが、事実あれで全てが語りつくせている訳では決してない。まだ言語化できていない「何となく」の部分が沢山ある。

これこそが肝心である。同じ作品をいつ読んだり見たりしてもその「何となく」がその都度新しい発見を与えてくれる。そしてその「何となく」を紐解いていくことが僕にとっては面白く、それが文学のもたらしてくれる一種の効用だと思っている。


二項対立はとかく人を真面目にさせてしまう装置だ。

これは「正しい」、これは「好き」…。究極「やる/やらない」という二項対立へ。宙吊りである状況を許さない。だから常に意味や意義というものを求めてゾンビのように地を彷徨っている。そういう中で僕等は何かを求め苦しみ、そして辿り着く先は不安定な正しさである。ひいては不安定な好きである。

無論、真面目であることは良いことだ。そういう勤勉さの中で生まれた技術や革命などによって人類が発展してきたことはまた事実である。だが、そのような真面目さが求められすぎるこの世界で不真面目であることがどんどん許容されなくなってきている。ほんの些細な不真面目でも矢面に挙げられ、非難され晒される世の中である。

ここも今のところの僕の課題でもあって、昨日の記録で書いたが「真面目に不真面目」を追求するにはどうしたらいいのだろうと考えている。しかし僕がこうして真面目に労働し生活をしている時点でそれは難しいのではないだろうか。常に真面目さを求められる場から離れるべきか、あるいはその中に居ながらどうハズしていくのか。現実味があるのは後者である。

そう考えると、僕に唯一ハズせる場といえばこのnoteでしか現状はあり得ないのである。自分自身でそれが出来ればそれで十分なのではないだろうか。と何だか纏まりのつかないような文章で締めようとしている。

さて、何を自分でも書きたかったのかよく分からない。

僕はいつでも戯言を語りたい。夜だけじゃなくてね。

よしなに。













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