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雑感記録(57)

【米倉壽仁展へ行ってきた話】


最近、仕事に忙殺され書きたいことが山のようにあるのだけれどもそこへ辿り着く前にへばってしまう。自由な思考が奪われてしまうような感じがしている。これはいかんと思った僕は土日を利用し美術館へ行きリフレッシュを図った。案外これが功を奏したのか、結構色んな方向へ思考を巡らせる1つの手立てとなった。今日はその記録を付けようと思う。昨日つぶやきで書いたものについてである。

米倉壽仁展 透明ナ歳月詩情(ポエジイ)のシュルレアリスム画家

米倉壽仁という画家がいるらしい。山梨出身のシュルレアリスムの画家だそうだ。僕はこの展覧会に行くまで全く以て知らなかった。しかし、チラシの絵に惹かれ「時間があれば見てみるかな」と心ひそかに思っていたのである。ちなみにその作品はこちらである。

米倉壽仁『早春』(1940年)

僕はこれまで色々と美術館へ行っているのだが、実を言うとあまり絵の知識などはない。シュルレアリスムだのダダイズムだの、印象派だのと色々とある訳だが、正直よく分かっていない。というより、分かろうとしていないというのが本当のところである。別にそういった知識がない方が純粋に作品を愉しめるのではないかと僕は考えている。

これは美術作品だけの話だけではなく、小説や詩や哲学やあらゆることに言えることではないのかと思っている。要は謎のバイアスが掛かってしまい、純粋に楽しめなくなってしまうということだ。しかし、実はこれ難しい。何が難しいかというとある程度経験を積んでしまっていると感覚として分かった気になってしまい、その経験に基づくバイアスが構成されてしまうからだ。


カテゴライズとでも言えばいいのだろうか。先人たちがとある作品群をカテゴリーしてしまったことで、その影響を大いに受けてしまうということがあるのではないだろうか。文学でもそういったことは起きるし、それ以外のことでもそういったことによって純粋にそのものを見られないということはあるのではないだろうか。

僕は大学の時に日本近代文学を専攻していた。主に対象にしていたのはプロレタリア文学であり、所謂左翼系の文学を学んできた。また、こういうカテゴリーで表現するのは不服であるのだが、「純文学」というものにずっと触れてきた人間である。

そうすると、何というか洗脳というと大げさだが、「純文学」が何か至高と考えてしまって、「最近の作品は面白くない」という先入観が存在してしまうのである。これは僕の本当に良くないところであると常々思うのだが、わりと直すのに実は苦労している。

最近の小説は特にそれを感じてしまう。哲学などに関する作品は非常に面白いものが多く、結構読めるのだが、小説はどうも難しい。たまにブックオフなどへ赴き最近の小説を購入して読んでみるのだけれども、正直ピンとくる作品に出会えたことがない。強いて言えば、川上未映子の作品や保坂和志とか阿部和重とか面白いなとは思う。というか結構好きだ。

そうすると、今度はその作家の作品を中心に据えてしまうので、他の作品が魅力的に見えなくなってくる。自分自身で良くないと思いつつ、他の小説、最近だとそうだな…恩田陸とか読んだんだけれども、どうも読みごたえがない。ミステリーも途中まで読むと大体犯人とか結末が何となく分かってしまうし、恋愛作品とでも言うのか唯川恵とか江國香織とか読んでもあまり「いいな」と感じることがあまりできない。


何だか話が変な方向に行きそうな気がするのでこれぐらいにしておくが、要はここで言いたいことは「カテゴリーが思考を邪魔する」ということがあるということだ。

知らない、分からないそういった状況の方が作品に真に向き合えるのではないだろうかとこの展示を見て感じたのである。僕は本当にシュルレアリスムなんて知ったこっちゃないけど、それでも純粋に作品と向き合うことが出来たので有意義な時間を過ごせたのだ。好きな作品を見に行くことも物凄く愉しいのだけれども、何となく惹かれたものを見に行くというのもまた乙なものである。

米倉壽仁『ジャン・コクトオの「夜曲」による』(1979年)

さて、そろそろ頭が回らなくなってきたので、相も変わらず保坂和志で締めようと思う。

あるいはまた、宇宙なり、自然なり、世界なりは、言語に先立つ。それらは言語に先立つのだから、言語によってすべてが記述可能であるという根拠は、言語の側にはいない。人間もまた言語に先立つ。人間の思考は言語によって人間らしく完成されるけど、人間は絶えず言語化しきれないものを知覚している。雲の形も風に揺れる木の形も厳密にはどれ一つとして同じものはなく、それらの一つ一つを人間は言語によって再現することはできない。しかし知覚することはできている。すべてを知覚しているのではないにしても、少なくとも言語によって再現できる範囲以上には知覚できている。(中略)私はただ「言語によって再現できる以上に知覚できないと信じているあなたは貧しい人だ。あなたはあなた自身が持っている言語観を神経症的に守るために、自分が知覚しているものに対して知らないふりをしている」としか言うことができないけれど、そんな人と関わっている時間があったら、私には雲の形を見ている方がなにがしか利益があるだろう。少なくともその時間だけ私は、言語がすべてを記述できるという思い込みが誤りであることを確認することができるからだ。
「リアリティ」とはそのような言語と世界との関係を知る人間の内面のプロセスに起源をもつはずだ。

保坂和志「「リアリティ」とそれに先立つもの」
『世界を肯定する哲学』(ちくま学芸新書2001年)P.98~99

本筋から遠ざかるような気もするが、結構大切なことを言っているように思う。何でもかんでも言語化できてしまうということは、結局のところ「言語化できてしまう程度」のものなのである。

作品そのものを味わうということを考えてみると、カテゴリー化する言葉、今回の展示で行くと「シュルレアリスム」という言葉。これが少し邪魔をしているような気がしてならない。

しかし、僕は幸運なことに言葉は知っていても、その内実は全く知らないしどんなものかということは知らなかった。そのお陰で米倉壽仁の作品を純粋(とは言えないのかもしれないけれど…)に見ることが出来たのだと改めて思う。

何でもかんでも言語化しようとする、とりわけその顕著な例が「カテゴリー化」だと僕は想定しているのだけれども、それが出来なかった分に愉しめたのではないかと。

ある意味で言葉は時に弊害をもたらす。言語は自由ではないなと米倉壽仁を見て感じたという何とも他愛のない話でしたとさ。

よしなに。

米倉壽仁『いろは唄』(1966年)


米倉壽仁『肉体の街』(1946年)

ちなみに僕はこの『肉体の街』が1番好き。



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