雑感記録(190)
【都市の中の公園】
今日は天気が良かったので散歩をしてきた。
元々散歩が好きだったので、地元に居た頃から休日の1日は必ず散歩していた。東京に来てからも土日のどちらかは買い物を兼ねて散歩をするようにしている。しかし、何故だろう。東京の散歩は地元とは比にならない程愉しい。
それで今日は職場の近くにどうやら大きな公園があるとのことでそこへ行ってきた。小石川後楽園である。
最寄駅的には地下鉄の後楽園駅かJR線で言うと水道橋駅になる。しかし、電車でわざわざ最寄駅まで行って歩くというのは面白くない。そこで東西線で九段下まで向かい、そこから歩くことにした。それは僕の定期が神楽坂ー九段下だからである。地図で見ても全然歩いて行ける距離だったのでさして何の問題も無かった。
九段下から降りて歩くのだが、毎日仕事で来ているとは言え、今まで歩いたことのない場所を歩くのだ。独りワクワクしながらヘッドホンから流れて来る曲に身を委ねながら歩いた。そう、全然関係ない話にはなるのだが、最近奮発して良いヘッドホンを購入した。それもあって散歩モチベーションも爆上がりだった訳だ。
僕は散歩の際は、Google Mapを使わずに目的地に向かう。道路の標識と道にある案内の標識を頼りにしながら手探りで進む。これが堪らなく愉しい。これは僕個人の心情であるが、「道は必ずどこかで繋がっているのだから、歩き続ければどんな形であれ辿り着ける」と信じている。どんなに遠まわりであろうが、いずれは辿り着くだろうと。わりとそこは楽観的なのかもしれない。散歩の真の醍醐味である。
何の目的もなくプラプラするのも面白いのだが、スタート地点だけ決めてあとは道任せというのも面白い。別に誰かと一緒に歩いている訳ではないのだから咎められることもないし、気を遣わなくていいのだ。そういう所でも僕はやはり散歩が好きなんだなぁ…。
リズムに乗りながら街を歩く。はたから見たら、もしかしたら怪しい人間だったかもしれない。しかし、そんなことは関係ない。道行く人は誰も僕を知らないのだから。それに迷惑を掛けながら歩いている訳でもない。自己の世界に埋没しながら黙々と歩く。
それで結局、僕は迷子になった。
気が付けば同じところをぐるぐる回っていた。でも面白いもので、同じところを回っているのだけれども景色は異なる。同じ建物が並ぶのに見る方向によってその見え方は変化する。これは僕等の日常で忘れかけている大切なことなのかなとも思ってみたりする。つまり、同じものでも視点を変えれば違ったものが現出するということである。
しかし、同じところをぐるぐるしているだけでは永遠に辿り着かない。少し立ち止まって、落ち着き、もう1度辺りを見回し歩く。すると徐々に大きな建物とアナウンスの声が聞こえてくる。それとほぼ同じタイミングで僕の視線に大きな通りが見えてきた。横断歩道が見える。目の前には東京ドームシティが現れた。
横断歩道をわたり再び立ち止まる。「はてさて、ここを左か右か…」と考える。今来た道を振返る。そういえばさっき水道橋駅を通って来たな…と思い出し、そうするとここを右に行くと…御茶ノ水方面か!となり左に進むことにした。正解だった。
それで左に進んで行くと「小石川後楽園」という文字が見えた。そこに向かい一直線。すると何ともビル群には似合わない、いかにもと言うような門が見えてきた。「ここだな」と思い門をくぐろうとしたその時、「入園料」という文字が視界に入って来た。
「公園なのに金取るのか!?都会は違うな…。」
僕が知る公園というのは地元の公園がベースになる。大体どこに行ってもタダだ。凄く景観が良くてもタダだ。何と言うか、僕はここでちょっとしたカルチャーショックを感じた。入園料…。博物館や美術館や動物園ではないのに何故だ…と不思議だった。しかし、そんなこと言ったって仕方がない。300円を低いか高いかは人それぞれの生活水準によって変わるから何とも言えないのだが、僕は個人的に「300円もするのか…」と感じた。
僕は東門から入園した。入ってすぐこの景色。綺麗だとは思ったが、しかし思った程の感情の昂りは無かったように思う。何だか自分でも不思議だった。「ああ、庭だ」ということ以外何も思い浮かばない。それは庭に興味があるとか無いとかそういう問題ではなくて、それ以前の問題だったような気がする。ただ久々の自然はいいなとは思った。
しかし、このままだとただ無為に散歩するだけになってしまいそうで嫌だった。勿論、それこそが散歩の醍醐味の内の1つだとは思うのだけれども、もう少し刺激が欲しい。そこでこの曲を聞きながら散歩することにした。
この曲を聞くと何と言うか異世界に迷い込んだような錯覚を起こす。PVもそういうような感じで面白い。どちらかと言うと、歌詞よりもメロディ重視で聞いていた。この流れるような、それでいて不思議な世界観。これが雰囲気的に物凄く合っていた。サビの如く「流れる」ように公園を闊歩する。
小奇麗に敷き詰められた石が並ぶ。それを一歩一歩踏みしめて行く。樹々に覆われているこの小路をただ黙々と歩く。しかし、どこかその人工的な樹々に何だか嫌気がさしてきた。秩序だったその並び。意図して敷かれている石、綺麗に整備された樹々。段々と落ち着かなくなってくる。本能的な部分でそわそわしてしまう。
小路を抜けると大きな池が眼の前に現れた。
そこら中にカメラを持った爺さん婆さんが居た。僕はあまりにも場違いな格好をしていることに気が付き、何だか居たたまれなくなる。僕はヘッドホンをしながらラッパーのようなダボダボの服を着て歩いているのだから。しかし、僕は自然を感じに来たのだ。だから他人の眼とかどうでもいい。僕は小石川後楽園をただ満喫しに来た。それだけなのだ。
しかし、どうも歩いても歩いても気持ちが高揚しない。終始、淡々と歩いて淡々と景色を眺めている。こういう庭園とか歩けば少なくとも「綺麗な景色だ」とか「美しい景観だ」とか感じるんだけれども、今日は特にそれを感じなかった。とにかくヘッドホンから流れる曲に集中して、少しでもその景色にアクセントを加えるべく精神を働かせた。
今日は凄く天気が良かった。雲1つない、晴天だった。池に反射する太陽光をベンチに座り眺め、僕もそれが何を映すのか考えてみた。ベンチに座り池を眺める。太陽光が映し出している物は、ビル群だった。そしてはたと気付かされる。「そうか、これが僕の高揚を邪魔するものだ」と。些か短絡的ではあるのだけれどもね。
都会の中に急に現れる自然。
この違和感。今まで僕が経験してきた自然というものは突如として現れるものではなかった。些かおかしな表現にはなるが、既にそこでは自然は整備されているとはいえ、自然であるのだ。過度に人の手が入っているとは言えない、自然そのものの原型とでもいうのか?それがそこにはあったような気がする。
先に断っておくが、この自然という問題については既に方々で議論されている。マルクスの指摘するところの自然であったり、三島や東大全共闘たちが指摘するような自然など様々にある。ここではごく一般的な、つまりは辞書的な意味での自然としたい。
地元の公園では太陽光が照らし出す自然というのは、限りなく自然そのものだった気がする。周りを見渡してもそこに映し出されるものは桃の畑、ぶどう畑、低い建物、360度の山々。視界を遮るものは一切なく、人工物が見えてもそれは今自分自身が立っている場所とほんの小さく見える家々や電線ぐらいしかない。
しかしどうだろう。都会の中に突如として現れる自然は周囲を見渡せばビル群に囲まれている。その自然よりも圧倒的な大きさと脅威を持って視野に入って来る。それをビルとして認識できてしまう。その距離感が僕にはどうしても受け入れがたいのである。適度な距離感といえばいいのだろうか。その距離感が最悪に近い。しかも、近すぎて遠いというのが何だか気持ち悪くて仕方がなくなってしまう。
そして、この「距離感」というのが僕が東京に来て感じている違和感というか、「寂しさ」の正体なのではないかと感じたのである。
近いのに遠い、遠いのに近い。この距離感が何事に於いても感じられる。職場の人と話をしていてもどことなく感じる「距離感」。それこそ近くて遠い感じがする。別に極端な近さを求めている訳では決してないが、それでも2,3枚の壁を感じながら日々を過ごしている。何となくだけれども、思うことをそのまま話せないという感覚である。
地元に居た時、他人なんだけれども他人じゃないような。何とも形容しがたい人間関係というか土壌があった気がする。田舎特有の所謂「ご近所感」という奴だ。つまりは、ご近所の情報は筒抜けみたいな奴だ。僕もそういうのを実際に経験してるし、嫌な思いをしてきたのは事実だ。無視しようと思っても世間は狭い。地方なんて未だ村社会の延長線上なのだから。すぐに噂は広まるし、引越も容易に出来たものではない。そこが難しいところだ。
とはいえ、それでも何か困ったことがあった時とかは強い。連帯感みたいなものなのかな。何か畑で取れればシェアするし、お金とかそういうものを媒介としない原初的な交換(交換様式Aみたいな状況だろう)で何とか成り立っているところもある。そう考えると、「距離感」が現実と精神的な部分での均衡が図られていてそこに対する齟齬が生じにくい。
ところが、これが都会で生活していると、何かと関係を築くということは少なくともそこに利害関係が必ず関わって来る。つまりは、仕事の関係なら「仕事上でこの人は私にとって有益かそうでないか」というような判断基準が表面化してしまう。例えばこちらから積極的な関りを持とうと思っても、そこにその人にとっての利益が生じなければ意味のない交換で終わる。
1つ注意をしておきたいが、これは田舎でも当然に起きうるし、人と人との関係には少なくとも言葉での交換をしている以上は利害関係を気にしないとは言わない。例え僕が「利害関係なしに付き合ってます」と言ったところで何の意味もない。言葉というある種の貨幣物をお互いに資本主義という社会の中で交換している以上はそこに現出してしまうだろう。ただ、そこの濃淡が都会と田舎では異なるということを僕は言いたい。
都会では極端にそれが濃い。「距離感」の偽装が甚だしい。つまりは、都会に居ると「近いと見せかけて実はめちゃくちゃ遠い」感じがする。話をしていると。地元に居た時は距離は勿論感じていた。しかし、そこまでの遠さは無かったように思う。それが都市空間の中にも現出しているような気がしてならない。
こんなことを思っていたら、ふと皇居のことが頭をよぎる。
あれこそこの事象そのものだと感じた。近くに居るのに、それを遠ざけるような形で存在している。誘惑しておいて突き放す感じ?これが都市の構造として全体的にあるような気がしてならない。特に東京なんかは皇居を中心としてそういうものが多いような気がする。
こういう都市部に現れる突然の自然というものも、その実、僕等に「都会にも自然があるぞ~」って誘惑しておいて、その自然から突き放すといったような感覚。そしてこれが東京の人との関りの中で僕は物凄く意識してしまった。当然にその人の人柄や性格や考え方もあるだろうが、都市という構造そのものがそれを誘発しているような気がしてならない。
誘惑して突き放すという構図。
よく田舎から都会に来た人は「都会の人は冷たいね」という印象を持つ。実際僕もそう思っていた。しかし、都市で生活するとそうならざるを得ないような気がしている。自分が意識してもしていなくてもだ。都市という空間そのものが僕等をそういう方向に仕向けているに過ぎないのではないのかと考えてしまう。都市は僕等を誘惑しておいて、それが個人の生活レヴェルに於いても浸透し突き放す。
何も別に僕は優しさを求めている訳ではないし、こういう「距離感」の持ち方もあっていいと思う。というよりもむしろ「自然」なことである。その「自然」がどこから来るのかということは考えてみるべきだとは思うのだけれども…。
いずれにしろ、自分を愛せるのは自分だけなんだと強く思った。
気が付けば、長い時間ベンチに座っていた。
せっかく来たのだからもう少し景観を愉しもうと思い、再び歩き始める。しばらく歩くと梅が一面に咲いている場所に来た。僕はあまりの美しさにただのんびりと歩いていたのだが、カメラを持った爺さん婆さん共が梅の花をバシャバシャ写真に納めている。何だかその姿を見て僕はげんなりしてしまった。
僕はそそくさと梅を眺め、やっぱり季節を感じることが如何に素晴らしいことかを噛みしめて帰路に付いた。
そんなおじいちゃんの休日。
よしなに。
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