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雑感記録(286)

【夜の戯言集2】


いい天気が続く。

しかし、「良い」とは僕だけの話だ。

僕にとっては良くても、誰かにとっては悪いことだってある。

しばしば、「自分がされて嫌な事はするな」と言う。

其の通りだとも思うし、其の通りだとも思わない。

想像力。

あの雲は「あの」ではなく「その」かもしれない。

「この」かもしれない。

だが、「雲」を指示し支持していることは確かだ。

言葉は言葉に下支えされる。

物も言葉に下支えされる。

もしも、僕等が言葉を持たなかったら。

ふとタバコを吸いながらそんなことを思う。


石川啄木のマネをしてみたいと思った。

dakaratoittejyouzunidekirujishinnganai。

なるhoど、あruiみでこれも1tsuの「koとばaそbi」ではある。

限界はある。

「限界などない」そんna馬鹿な話gaあってたまるか。

それはtan純なhanashiである。

僕等はmenimieteirumonodemonogotowohandansurukaraである。

AAAAAAaaaaaaaaBBbababbabBAABBAAAaaaaaa!!!!!!!!!!!!!

YURETAAAAAAAAaaaaaaaaaAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!!!!!!

いつもパンツ1丁というのは考えものである。

こうしてitsuka僕もつchiにkaeruのかもしれないなと思う。

さsuganiもうtsuかれてshimaった。


酒をノンダ。

ashiたもソウらしいnoだが、どうしyouカ。

時taMAバカナことヲしてしまいたくnaru。

headホンからN.W.Aがナガreru。

saiキん、ヒップほっぷkaraハナレたつもりdattaのだが。

オンがくnoシュコウmitainaものはboくのバアイkawaru。

こkoスウジツhaふきnoトウwo聞いている。

FOーくとイウのもnakanaka面白い。

僕naリのseンちmentalジャーniーかmoしレない。

そnnaことwo感じテしまッた。


とここまで変な文体で書いてみる。

実際やってみて思うが、日本語は凄いなと思う。

漢字、ひらがな、かたかな…

ローマ字も入れると前提として多言語。

「ことばあそび」には事欠かない。

だが、脳内の混乱。

書く事に必死で、何が何だか分からない気もする。

でも、面白い。

今ここで僕はまともに書くことを箒。

名にも考え圖に書いても文字が忌みを物。

こうして意味を持たせようとせずとも言葉は自立する。

詩人の凄さが経ったこれだけでも欲解かる木がする。


言葉が自立する。

これはアルファベットでは上手くはいかないだろう。

こういう時、日本に生まれて良かったと思う。

どれだけ文学について考えてみても。

結局、日本語がある限り。

考える種は尽きない。

『エクリ』の序文を思い出す。

日本の精神性をどことなく感じる。

そういえば、この間、鈴木大拙を読んだ。

僕がぶつかった壁に一瞬光がミエタ!

 東洋・西洋というと、漠然としたことになるが、話の都合がよいから分けておく。東洋的見方または考え方の西洋のと相異する一大要点はこうである。西洋では物が二つに分かれてからを基礎として考え進む。東洋はその反対で、二つに分かれぬさきから踏み出す。「物」といったが、これは「道」でもよし、「理」でもよし、「太極」でもよし、神性でもよし、絶対「無」でも、絶対「一」でも「空」でもよい。とにかく何かある、それが分かれぬ前というのは、「渾然として一」である状態である。これは甚だ誤解しやすい言詮であるが、今しばらく仮にそういっておく。言葉はいつもこれで困るのだ。それで西洋の考え方は、二元から始まるとしておく。
 二つに分かれてくると、相対の世界、対抗の世界、争いの世界、力の世界などというものが、次から次へと起こってくる。西洋に科学や哲学が、東洋にまさって発達し、したがって技術の面にも、法律的組織の面にも、著しい進捗を見るのは、いずれも個に対して異常な好奇心を持っているからである。東洋はこの点において大いに学ばねばならぬ。対抗の世界、個の世界、力の世界では、いつも相対的関係なるものが、弥が上に、無尽に重なりゆくので、絶対個は考えられぬ。いつも何かに連関しなければ考えられぬ。個は、それゆえに、常住、何かの意味で拘繋・束縛・牽制・圧迫などいうものを感ぜずにはおれぬ。すなわち個は平生いつも不自由の立場におかれる。自ら動き出ることの代わりに、他からの脅迫感を抱くことになる。たとい無意識にしても、そのような感じは、不断あるにきまっている。

鈴木大拙「東洋的見方」『東洋的な見方』
(岩波文庫 1997年)P.20,21

些か長い引用で疲れた。

晩年にこれを書いたという。恐ろしい。


バルトだったか忘れた。

テクストは引用の集積だと。

今、実際に引用してみて分からないでもない。

だが、日本語は果たしてそれで事足りるのか。

この間、ジュネットを読み返した。

だが、日本語は果たしてそれで事足りるのか。

この間『近代日本思想の肖像』を読んだ。

何だか僕は腑に落ちた。

谷川俊太郎の偉大さがヒシヒシと感じられた。

やはり、「あそび」について考えようと思った。



詩。いや。「ことばあそび」。


モチベーションのあがる夜の戯言集。

よしなに。
















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