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雑感記録(393)

【‟折角”という言葉の含蓄】


僕は先日、恥ずかしながら「サンクコスト(埋没費用)」および「コンコルドの誤謬」という言葉を初めて知った。

サンク‐コスト【sunk costs】

すでに支出され、どのような意思決定をしても回収できない費用のこと。埋没費用。

[補説]それまでに費やした資金や労力、時間を惜しんで事業を継続すると、損失が拡大するおそれがあることから、意思決定に際して、サンクコストは無視するのが合理的とされる。→コンコルドの誤謬(ごびゅう)

"サンク‐コスト【sunk costs】", デジタル大辞泉,
JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-28)

ご丁寧に『デジタル大辞泉』では丁度両方の言葉を満たしてくれている訳だ。しかし、辞書的な説明では判断しえない。少し僕に話を寄せて考えてみることにする。

僕はしばしばお酒を飲みながら本屋に行くのが好きである。お酒で酔っ払いながら気分が高揚し、そのままの勢いで様々な本を購入する。むしろお酒が入らなければ新刊を購入する機会など僕には無いのである。それで記憶が曖昧なまま様々な本を購入し、プラプラ散歩しながら自宅へ帰る。自宅へ帰り、段々と酔いが醒める中で読書を始める。しかし、本を一瞥し、僕の嫌いな自己啓発本の類が紛れている。

「うわ、嫌だな…」となる。加えて「何で俺はこれを買ってしまったのだろう…」と今更ながらの後悔をする。しかし、自分は既にこの自己啓発本にお金を出し購入している。仮に「この本は最悪だ。返品する!」として、本の返品が出来、金銭は返ってきたとしても、その自己啓発本を購入する労力(労力コスト)はどう頑張っても戻って来ないのである。むしろ、金銭を返してもらいに本屋へ再び赴くことで更に労力が掛かる。

この「支出した後で、どれだけ何とかしようと思っても回収できない費用」のことをサンクコスト(埋没費用)というらしい。加えて、「どうすることも出来ないが、お金を払った以上はこの本を読み切ってやる!」として、自分の気持ち、僕で言えば「こんなものを読むより他の愉しい本を読みたい」という気持ちを殺して元—支出した労力、金銭—を取り返えそうとする。「サンクコスト(埋没費用)を取り返しに行く」ということ。しかし、取り返しに行ったところで、何か良い事が起こる訳でもない。余計に労力や金銭が掛かるだけだ。むしろ今後に不利益を被る可能性があるという一連の流れを「コンコルドの誤謬」と言うらしい。

詳しくはネットで調べれば沢山の実例が出てくるし、経済学を学んでおられる方々にとっては耳にタコであるだろう。いずれにしろ、僕はこの「サンクコスト」および「コンコルドの誤謬」という言葉を見た時に、なんか自分の生活でもこういうことあるよな…と思ってしまったという話である。ただそれだけの話。


ただ、自分の中で「サンクコスト(埋没費用)を取り返しに行く」という部分。もっとラフに言えば「元を取り返す」。この思考へと至る心理的な言葉として必ずと言って良い程、「折角(せっかく)」という言葉が存在しているなと思ったのである。そこで僕は「折角(せっかく)」という言葉について今1度改めて見直してみることにしたのである。

もう戻らない支出=サンクコスト(埋没費用)を取り返す大義名分。それはあらゆる「折角(せっかく)」によって生み出されるものである。例えば僕が先に示した本の例で言えば、「折角、労力(購入する為に歩いた労力)と時間(購入するまでの時間)を掛けたのだから、詰まらんクソみたいな自己啓発本を最初から最後まで読み切ってやろう。」ということ。こう書いているが、もっと端的に書けば「折角ここまで来たのだし…」「折角これを買ったのだし…」「折角お金を払ったのだし…」ということである。ある種の諦念が込められているように僕は感じたのである。

以下、『日本国語大辞典』からの引用をしたい。長くなるため、①名詞としての意味、②副詞としての意味で2つに分けて引用する。

せっ‐かく 【折角】
解説・用例

【一】〔名〕

(1)角(つの)を折ること。
*易林‐坤卦・豊「幾危利寵、折角摧頸」

(2)物のかどを折ること。

(3)プリズムなどにより光の角度を変えること。
*米欧回覧実記〔1877〕〈久米邦武〉一・二〇「三稜の玻鏡にて、日光の折角により、七色の彩暈をなすことなどを示せり」

(4)(昔、中国で、朱雲が五鹿の人充宗と易を論じて勝ち、時の人が評して、朱雲の強力、よく鹿の角を折ったとしゃれたという「漢書‐朱雲伝」に見える故事から)高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。
*日本三代実録‐仁和二年〔886〕五月二八日「天皇喚両人。令論経義。氏主執礼。種継挙伝。難撃往復。遂無折角」
*周邦彦‐都賦「雖有注河之弁、折角之口、終日危坐抵掌、而談猶不能既其万一」

(5)力を尽くすこと。骨を折ること。
*保元物語〔1220頃か〕上・新院御所各門々固めの事「九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦、廿余ケ度なり」

(6)(形動)困難、難儀にあうさま。また、その困難、難儀。
*古文真宝笑雲抄〔1525〕一〇「これみな孔子の節角に逢れたことども也」
*上杉家文書‐元亀元年〔1570〕八月一三日・大石芳綱書状(大日本古文書一・六一三)「男女出家まてきりすて申候間、彌々爰元御折角之為躰に候」
*サントスの御作業〔1591〕一・サントエウスタキヨ「サマザマ ノ ナンギ xeccacu (セッカク)ヲ モッテ ソノ ミ ヲ ココロミ タマウベシ ト ツゲ シラセタマイ」
*日葡辞書〔1603~04〕「ナンギ、xeccacuni (セッカクニ)ワウ」
*古活字本荘子抄〔1620頃〕二「獣のからるる時せっかくなとき不択音さまうしい音をしてなく」

(7)大事なこと。気をつけなければならないこと。
*風姿花伝〔1400~02頃〕七「三日の中に、殊にせっかくの日と覚しからん時」

"せっ‐かく【折角】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-28)

せっ‐かく 【折角】
解説・用例

【二】〔副〕

(1)(後漢の郭泰が外出中に雨にあい、頭巾のかどが折れてしまったが、郭泰は人々に慕われていた人気の高い人物だったので、みながわざわざ頭巾のかどを折ってそのまねをした、という「後漢書‐郭泰伝」に見える故事から)努力して動作をするさまを表わす語。苦心して。骨を折って。つとめて。わざわざ。せっせと。とりわけ。
*実隆公記‐享祿四年〔1531〕閏五月二三~二八日紙背(宗碩書状)「無興の様候間、いかやうにもと折角養性仕候」
*虎寛本狂言・真奪〔室町末~近世初〕「扨々こなたはむさとした。折角取て参た真を、其様に引むしって、捨させらるると申事が有る物で御ざるか」
*咄本・昨日は今日の物語〔1614~24頃〕上「つねに謡を教へけるが、『せっかく習へ、やがて十月十三日になるぞ』」
*浄瑠璃・八百屋お七〔1731頃か〕中「せっかく普請した家を売らすも笑止也。此入分をとっくりと云聞せたら」
*随筆・南留別志〔1736〕「折角といふ詞は、郭林宗が巾の雨にあひて角のひしげたるを、人々のまねて、わざと巾の角を折りたるより、何事もわざわざとする事をいへるなり」

(2)その動作の結果生じた状態をのがすのは惜しいという話者の気持を表わす語。
*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・下「折角(セッカク)内に仕事をして居る者をば、釣出しに来てなりません」
*和英語林集成(初版)〔1867〕「Sekkaku (セッカク) オイデノ トコロ ルスニテ オキノドク」

(3)(「せっかくの」の形で、体言を修飾して)それが十分な効果を発揮しなくては惜しいさま。
*歌舞伎・お染久松色読販〔1813〕序幕「折角のお心ざしだ、お貰ひ申て置ませうかへ」
*和英語林集成(初版)〔1867〕「Sekkaku (セッカク) ノ ホネオリガ ムダニ ナッタ」
*行人〔1912~13〕〈夏目漱石〉友達・一一「自分は折角(セッカク)の好意だけれども宝塚行を断った」

(4)十分に気をつけて。
*咄本・当世手打笑〔1681〕二・九「御はれ物平愈(へいゆう)なされ候哉。せっかく快気をえらるべく候」
*談義本・教訓続下手談義〔1753〕二・臍翁夕座の説法「折角(セッカク)御堅固でござりませと」
*滑稽本・浮世床〔1813~23〕二・下「ホンニホンニ一寸(ちょっと)参ってどうせうかうせうと歌(うた)にばかり唄(うた)ってやうやう今日(こんにち)参(さん)じました。ハイさやうなら折角(セッカク)御きげんよう」
*和英語林集成(初版)〔1867〕「Sekkaku (セッカク) オン イトイ ナザル ベク ソロ」

"せっ‐かく【折角】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-28)

どうやら、「諦念」の意味は「折角(せっかく)」には含まれていないらしい。ただ、近しい部分として副詞の用法として(2)と(3)で書かれている「惜しい」という言葉。要するに「無駄にはしたくない、もったいない」ということである。さも、希望があるかのような用法で、「こうしていればこうなった」「自分がこうしていれば…」というような傲慢さを表現する言葉である気がした。ある種の将来における希望と期待感。そして自分がやれば何とかなったであろうという傲慢。

もう1つの用法としては名詞で主に表現されているように「骨が折れる、苦労して」というニュアンスのものである。実際名詞の(1)や(2)は漢字そのままの用法、(4)に至っては故事であり、意味も中々複雑なものである。しかし、「高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。」というのは、先程の副詞での「惜しい」という未練たらたらな用法、「まだ何とか出来たはず」という慢心を打ちくだくことは出来ていない。現に両方の意味で「折角(せっかく)」が使われてしまっているのだから。

名詞的に「折角(せっかく)」を捉えるならば、「苦労して」とか「骨を折って」とか、如何にも「自分、頑張ってきましたよ」感のある、未練たらたらと思いきや、「高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。」という自己反省的な意味も含んでいる。これは個人的には面白い。その一方で副詞は「苦労して」「骨を折って」という意味も当然孕むが、(2)(3)の様に「惜しい」という、自分の行為を肯定し「自分はまだやれた」という未練と傲慢を孕んでいると捉えることも出来る。


それで、話を「サンクコスト(埋没費用)」あるいは「コンコルドの誤謬」に一旦戻そう。

僕等が「元(サンクコスト)を取りに行く」となった時の、自分自身への定義付けとして「折角(せっかく)」という言葉を使っている。これは「自分の骨を折ってまでやったのだから…」「苦心してここまでしたのだから…」という副詞的な「惜しい」という未練と「自分ならまだやれた」というような慢心、傲慢をどこかで表現している言葉だ。だが、その一方で品詞は異なるが、名詞の用法として「高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。」とある。

サンクコスト(埋没費用)というのは畢竟するに、ただの未練ではないだろうか。「コスト」という言葉が付くから僕にとってはややこしくなっているだけで。「あの時こうしていれば、ああしていれば…」とどうにもできないのに何とかしようとするという未練、高慢、慢心なのではないだろうか(だからと言って、それを「良い/悪い」と判断するものでは無いとだけ書いておく)。

その大義名分、つまりコンコルドの誤謬を推し進めるお題目として「折角(せっかく)」という紋切型の言葉が存在する。しかし、先に見てきた通り、そして繰り返しで非常に恐縮だが、「折角(せっかく)」という言葉には「惜しい」以外にも「高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。」という意味も存在している。我々はまずサンクコスト(埋没費用)やらコンコルドの誤謬など云々よりも、「折角(せっかく)」という紋切型の言葉が出た瞬間に「ちょっと待てよ」とならねばならないのかもしれない。

サンクコスト(埋没費用)やコンコルドの誤謬を調べていると、どうも「合理的な判断」ということが示されているような気がする。無論、これらの用語は経済用語であるから、合理性を求めるということは当たり前なのかもしれない。例えば『日本大百科全書』(ニッポニカ)での説明ではこんな感じである。

サンクコスト
さんくこすと
sunk cost

投資、生産、消費などの経済行為に投じた固定費のうち、その経済行為を途中で中止、撤退、白紙にしたとしても、回収できない費用をさす。経済学の概念であり、「埋没費用」と訳される。個人の株式投資、企業の新規プロジェクト、政府の大型公共事業など広範な経済活動を継続するのか、それとも中止するのかを判断する際などに使われる。
 本来、サンクコストは回収できない費用なので、将来の意思決定には影響しない。しかし一般に人間は投下額が大きいほど、もとを取り戻そうとする心理が働き、経済行為を中止できない傾向がある。たとえば、イギリス・フランス政府共同の超音速旅客機「コンコルド」開発計画では、開発途上から赤字になることがわかっていたが、投資額が巨額に上ったため開発をやめられなかった。こうした行為を「コンコルドの誤謬 (ごびゅう) Concord fallacy」とか、「サンクコストの呪縛 (じゅばく) 」とよぶ。

"サンクコスト", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-28)

ここにも示されている通り、「経済学の概念」であって、「広範な経済活動を継続するのか、それとも中止するのかを判断する際などに使われる」のだから、合理的な判断は重要である。しかし、皮肉にもこの辞書の様に合理的に説明されても、感情などで動いてしまう生き物である人間にとっては中々受け入れがたい部分はあるのかもしれない。

だから僕は今回「折角(せっかく)」という言葉に着目して、字義から合理的に考えるとまでは言わないけれども、「一旦立ち止まって、自分自身を省みてみる契機」として考えたいということを書きたかった。僕等の心象として、まず合理的に考える、意識的に合理性を目指すより、「折角(せっかく)」という言葉が使われた時点で「合理的に考えられていない」ということを自覚し、一旦立ち止まるということをしてみて欲しいということだ。

しかしだ。ここまで書いておきながらなんだが、僕は全てが全て合理的に判断することが良いのかどうかということには疑問がある。いずれにしろ、「一旦立ち止まって考える」ということの大切さみたいなものを書きたかったのかもしれない。それがたまたま、サンクコスト(埋没費用)およびコンコルドの誤謬に際しての「折角(せっかく)」という言葉だっただけで。

ただ、この記録の結びとして、「折角(せっかく)」という言葉が出てきた時には気を付けようということである。

大事且つ面白いことなので、改めて、くどい程に書く。

「折角(せっかく)」には「骨を折る」「苦心して」という副詞としての意味も含むが、「高慢の鼻をへし折ること。慢心を打ちくだくこと。」という名詞としての意味も含蓄されていることをお忘れなきように。

よしなに。





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