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雑感記録(294)

【思うこと沢山】


東京に来て数か月が経つ。それは同時に独り暮らしを始めて数か月ということでもある。独り暮らしは大学生ぶりな訳で、しかも今住んでいる所は大学時代に住んでいた場所からそう遠くはない。だから見知った土地であり、安心して生活出来ている。有難いことである。

しかし、大学時代とはどうも違う。当たり前と言えば当たり前のことだ。大学生は大学へ通い勉強をし、あるいはサークル活動、そしてバイトに励む。ある一定の制約はあったかもしれないが、それでも自由に生活出来たいたのではないかと思う。例えば授業が無い日は美術館や神保町に行ってみたり。あるいは授業をサボって友人とカフェで文学や哲学のことについて語ったり。「大学」という後ろ盾があったからこそ愉しく生活出来ていた。ある意味で僕にとっての大学は「あそび」の場だったことは言うまでもない。

だが、現在は大学生という立場ではなく、社会人という立場で生活をしている。これも当たり前と言えば当たり前なことである。それと同時に大学生活とはまた異なる生活になるのも当然だ。それは今までの後ろ盾であった「あそび」としての場は消失し、二項対立的な場へと引きずり出されるのだから。その「あそび」としての場が保証されない場が後ろ盾となるのだ。

それに、今までは「勉学」というものが中心だったものが「仕事」にシフトチェンジするのだ。平日に1日何も予定がない日というのは存在しない。それは「有給休暇」という仕組みを使わなければ取れない。会社では年に5日間?7日間?だったか?これを知らないとは社会人としてあるまじきことな訳だが、それを取得する束の間の休みがある。休みが取得できるだけでも本当に有難いことだ。


僕は過去にも書いたが、根は面倒くさがりな人間である。

とにかく堕落していきたい。厳密に言えば正しい方向に堕落していきたいとずっと思っている。しかし、その「正しい方向」というのは未だに分かっていない。自分で書いておきながら何とも無責任な物言いである。だが、これは先日から何度も書いているように「あそび」を見出すことこそが僕にとっての「正しい方向」なのかもしれない。

それでふと、やはり大学生活のことを思い出さずにはいられない。先にも書いているが、僕にとっての大学は「あそび」の場そのものだったからである。何というか「シラケつつ、ノリつつ」みたいなことが上手に出来ていたような気がしなくもない。僕にとって「正しい方向」に堕落出来ていたのは大学時代だった。そんなことを考えてしまう。

「あそび」について書いている時、これはガンダムSEEDシリーズについて書いている時も、谷川俊太郎について書きながら「あそび」を考えている時も、僕の頭の隅には大学生活が存在していた。言葉を書き進めるごとに「そういえば、大学の時にこれを友人と話していたな」とか、「授業でこれ言ってたよな」とか思い出されることのその殆どがそれだった。

言葉というのはやはり不思議なもので、書き進めれば進める程、僕の場合はどんどん後退していくのである。何か言葉を書いて、一見すると前に前に進んでいるような感じがするのだが、書いている本人の思考は常に遡行しているのである。矛盾しているような気がする。言葉は形式上進んでいくが、僕の思考は逆行していく。文章の均衡が保たれるというのはこういうことなのか。


だから僕は純粋に、ジャンル問わず、小説を書いている人や批評をやっている人は凄いと思う。作品の上手下手というのは関係なしに、それを最後まで書き上げる胆力には思わず感心する。僕は書いていると常に思考が後退していくから、書いている自分と後退している自分との乖離が次第に大きくなっていき、気が付けば何を書いているのか毎回毎回分からなくなってしまう。

それで後退する自分に合わせて言葉を紡いでいくと、今度は唯の自己憐憫みたいな文章になり、女々しくなって自分自身ですら読むに耐えないことすらある。言葉と思考が行ったり来たりを繰返して、結局自分自身が何を書きたくて書いているのかよく分からない。だが、それはそれで面白い。様々な発見があるからである。

しばしば、自己啓発的なコンテンツでは「過去の出来事で一々クヨクヨするな」ということを言っている人がいる。しかし、僕からすれば過去の出来事で一々クヨクヨしないことの方が心配だ。僕は個人的に思うのだが、人間というのは過去の集積でしか生きられないのではないかと思っている。例え新しい知識などを吸収しようとも、それを学ぶ時に自分自身の過去の経験の集積を元に体得していくものなのではないのか。

価値基準という言葉をあまり使いたくはないが、何かを判断する際には今まで自分がどう考えてきて、どういう経験をして、どういう環境に居たかというあらゆる過去の集積によって新しいものに対する価値判断が始まる。しかし、僕のように「日本近代文学」というような、過去も過去で、自分自身の中でアップデートされていないもので判断しても、それは頑固のジジイの戯言、武勇伝を語る痛い奴にしかならない。

つまり、過去のことで一々クヨクヨすることは、自分自身をアップデートする為の1つの契機であると思うのである。そして読書というのは、アップデートをする為に必要不可欠な行為であると思われて仕方がない訳だが…。段々と話がズレてしまいそうなのでこの辺に留めておくことにしよう。


それで、僕は文章を書いていると回顧ばかりしてしまう。特に昨日の記録というのは正しくである。

言葉を書けば書くほど眠っていた記憶が、鮮明にとまでは言えないが光景として頭の中に沢山出てくる。だから小説を書いている人、特に回想を使わずに書いている人は凄いと思う。僕はこの場にエッセーという形で書いており、小説というようなある種の時間や空間の創出をしている訳ではない。だからある意味でルールや規範というものが存在するかどうかも分からないが、しかしそういう固定化された場から自由に描けるのである。

その一種の制約の中で物語を進めなければならない。僕はこれも過去の記録で散々に語っている訳だが、言葉は常に事後性である。どれだけ「今、この瞬間」を自分では書いていると思っても、言葉に置き換えてしまえばそれは必然的に過去のものとなる。後手後手に回らざるを得ないのである。そういう中で物語を前に前にと推し進めなければならない。それが出来る小説家は本当に凄いと思う。

とはいえ、僕は何も手放しに小説家全員が凄いとは思わない。

ミステリー小説は未だに苦手だし、SF小説も少し抵抗がある。というのも簡単な話で、彼らは言葉というよりその筋に対して趣向を凝らす印象がある。そしてSF小説は過去にも記したが所謂エビデンス主義的な部分があり、多数の数字と共に語られる。物語を前進させる推力は凄いものだが、それの源泉が言葉にあるとは思えない。全ては出来事によって始まる。恐らく、彼らに「言葉の事後性というのはだね…」と語ったところで意味をなさない。

それで1つ思い出したことがある。

東 …ぼく自身は、ドストエフスキーのような一部の外国文学こそ読んでいたとはいえ、必ずしも純文学は好きではなかった。けれども、大学に入り、批評や思想の世界に入ると、社会を考えるうえで同時代の文学を読むことが不可欠だと叩き込まれた。
 それから二〇年後のいま、文学が好きだと言っている若い人たちを見ると、ぼくも鈴木さんと同じような当惑を抱くことがあります。文芸評論家の市川真人くんがぼくにぼやくように言ってたんですが、直木賞作家で朝井リョウというひとがいる。市川くんが朝井さんに「社会とか世界とかについて文学者は考えなきゃいけない」と言ったら、「ぼくはまったく社会問題や政治に興味がない、おもしろい小説が書きたいだけです」と言われて、愕然としたらしい。けれどそれがいまの現実ですね。演劇にしても文学にしても、いまでも芸術が好きなひとは多いけれど、それはあくまでも趣味として好きなだけで、芸術が社会を代表するものだとはまったく思っていない。

東浩紀・鈴木忠志「テロ時代の芸術」
『新対話篇』(ゲンロン 2020年)P.44

これを初めて読んだ時は驚いたものだ。僕もそれなりに日本近代文学を学んで来た人間だから、文学が政治や社会に対してどうコミットしていくかというものがベースにはある。そして芸術もそういった要素があるものだと思っていた。自己表現するということは、少なくともそこに自分自身が抱える問題や、それがひいては社会の問題や政治の問題に繋がっていくものだと思っていた。思っていたというか、僕はそういうもんだと思っている。現在進行系で。

しかし、この市川真人と朝井リョウのエピソードを読み、僕自身も当惑した。別に何も直接的に政治の問題を小説が取り上げていないから駄目だとか、社会的な問題を孕んでいないから駄目だと言いたい訳ではない。だが、やはり小説家という人は言葉を使うのだから、必然的に言葉について考えるのは当然であり、それを突き詰めて考えればおそらく言語学に行くだろうし、そこから社会的なものへのパースペクティヴみたいなものが広がるのではと僕は個人的に思っている。

僕は小説家が「社会問題や政治に興味がない」と思っても言わない方が良いと思う。僕はやっぱり小説を手放して正解だったのかなとも思う。


僕はね、言葉について考えることは政治や社会や世界を考えることと同じ…とまでは言いきれないけれども、それでも繋がっていくことは確かだと思うのね。

例えばだけれども、同期とコミュニケーションする際に使う言葉と先輩や上司に使う言葉は使い分けるでしょう。ここで言葉の選別をしている訳で、常に選別と排除が繰り返されている。ある意味でこれは選挙みたいな構造でしょう。誰かを選別して誰かを排除する。そういった暴力性、政治性みたいなものが言葉のレヴェルでも常に起きている。

言葉の構造を考えてみると、それはソシュールから始まる構造主義みたいなものから始まって、そこからポスト構造主義とかいう流れになる訳でしょう。まあ、ポスト構造主義とはいえ、ニーチェに回帰する訳だけれども。そういう話は置いておくとして…。でも、元を辿れば言語から社会を捉える潮流として、それが一時期社会を席巻していたことは紛れもない事実である。

ある意味で、絵画だって演劇だって、映画だって。言葉というものをより抽象化して描き出すのが絵画であり、身体を使って言葉を表現するのが演劇だったり映画だったりする。僕等は何かを考える前提として言葉が先にあると思う。それがあるから僕等は物を考えられると思う。そういうことを考えて突き詰めていけば、必然的にそういった社会や世界について考えることに繋がっていくのではないだろうか。

だから僕は今、売れている作家が、堂々とそれを言ってしまえるという現状に違和感しかないし、そんな中で小説を書こうと僕は思えない。過去に僕は自分には小説が書けないということを阿部和重の対談集で痛感したのだけれども、それとは全く別のベクトルで僕には小説は書けない、いや書きたくないとなってしまった。

これも僕が小説を断つことの大きな決定打になったことは言うまでもない。


さて、何だか話が飛んでしまって、一向に何を書いているのかよく分からない。しかし、書くということは本来的にはこうなのではないかと思う。書けば書くほど小路にはまり込んで、所々で出てくる小さな光に向かって進むものだと僕は思っている。小説でも何でもなくても、こうして書き続けるとそれがよく分かる。

理路整然とした文章を書ける人は僕からすると羨ましい。僕にはそれが出来ない。いつも言葉の引力に引っ張られて書き出しているから、書いていることはいつもしっちゃかめっちゃかである。書く方は愉しいが、読む人間には溜まったものでは無いだろう。

僕にはだからこのnoteで多分十分なんだと思う。

それ以上に高望みを出来る程、大したことは書いていない。だけれども、僕も人間で、何かしらを書きたいという気持ちはある。やっぱり、「あそび」としての場を求めているのだと思う。まあ、最近はそういうことを考えながら本を読んでいるという話である。

何を書きたかったかよく分からなくなってきたので終える。

これもまた書くことの醍醐味。

よしなに。

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