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雑感記録(328)

【駄文の円環part13】


何度もおさらいするようだが、この『駄文の円環シリーズ』は「書きたいことは無いけれど、書きたいという衝動だけはある」という気持ちが前提にスタートしている。だが、今こうして書いている僕はむしろその逆の状態である。つまり「書きたいことは沢山あるけれど、書きたいという衝動はさしてない」という気持ちで綴っている。答えは単純で「じゃあ、書かなきゃいいだろ!?」となる訳だが、人間そう単純じゃない。

よく心の比喩表現というか、自分の限界とかそういったものを表現する時に所謂「コップに入った水」を挙げると思うんだ。そのコップがいっぱいいっぱいになると溢れて零れて…という様子を人間の精神が病んでいく状態に近づけながら語られる訳である。そう考えると、人間というのは魂の入ったただの入れ物なのかと思ってしまう。僕は別に神学者でも何でもなければ、ただの一般人なのでこれ以上は考えはしまい。それに興味もさほどない。

そんな話は置いておくとして、色々と読んだ本とかこれまでに起きた怒涛の出来事を語りたい。だけれども言葉の飽和状態とでも言うべきか。そういう渦中に存在している訳だ。言葉が溢れすぎると中々上手い具合に言葉が見つからない。それはそれで新鮮な行為な訳だが、「落ち着けよ、自分」と言い聞かせながらこうして文章を綴る。だが、一瞬でも油断すればはちきれてしまいそうなので、油断せず小出し小出しに少しずつ書いていこうと思う。

この記録はある種リハビリ的でもある。


最近、千葉雅也と國分功一郎の対談集を購入した。

まあ、これはこれで面白かった訳だが、何より國分功一郎『中動態の世界』が気になって気になって仕方がない訳で。僕はこの対談集を読み終わった直後に『中動態の世界』を購入した。ちょうど昨日届き、読み進めている所であるが、最初から面白くて愉快で愉しい。「なるほどな」と考えさせられることが多いなとも思うし、自分が考えている「あそび」という概念にも繋がってくるなと思いながら読み進めている。

要は「能動」と「受動」でしか語れないっておかしな話でしょ!って言うことである。めちゃくちゃ大雑把かつ通俗的に言うならばだが。まだ僕自身も読み進めていないので何とも語れない所ではある訳だが、昔は「能動体」「受動態」の他に「中動態」というのが存在していたらしい。何だか面白いなと思う。やはり形はどうであれ、宙吊り的な状態をどこかで求めているのかなとも思ってみたりする。

ただ、唯一この本が届いた時に気に喰わないなと思ったのが帯だ。しかも通常の帯から重ねるように付けられた「第16回小林秀雄賞受賞」の帯である。緑色の帯で何だか嫌らしい…。別に國分功一郎が恐らくだけれども「その帯付けてくれ」と言ってたのならば「ああそう」で終わるけれども、もしそれが本人の計り知れぬ場所で働いていたとするならば、何だか僕は余計なお世話だがイラっとしてしまう。

僕は一応読者でもあり、本の購買者でもあり、所有者でもある。本を購買させるという点では勿論重要なファクターではある訳だが、しかし「○○賞受賞」という言葉はどうも僕は好きではない。その権威に迎合しているような気がしてならないのである。だからと言って、賞そのものを否定するつもりは微塵もない。それが既に在るのだし、僕がどうのこうのこんな所で言ったって何にも変わりはしないのだから。

僕は本を購入する時、基本的に誰の作品を読みたいのか、どういう内容の本を読みたいのかで何を購入するか決める。基本的に、過去に何度も書いているような「数珠繋ぎ的」である。ある1冊の本を読んで、その中で紹介されている本を選ぶというスタイルだ。基本僕はそういう感じで購入している。僕は神保町で古本ばかり買うので、新刊書店に行った際にはその人の新しい著作を目当てに行くのかもしれない。

だが、やはり新刊書店に行くとどうも目が痛い。

豪華絢爛に装飾された表紙に、やれ「誰が推薦している」だの、やれ「○○賞受賞した」だの、やれ「感動できる」だのというどこか装飾された言葉が散りばめられている。僕はその言葉にホトホト嫌気がさしているのだが…。今は本の中身というより外見で勝負されている訳で、どれだけそこで購買者に興味関心をそそるかということに徹している。本のルッキズムとでも言っておけばいいのだろうか。そんな印象を持つ。

それはそれで良いのかもしれない。例えば無名の(というと些か酷い物言いにはなる訳だが)画家やクリエイターの作品が表紙に使われる可能性だってある。そこで作品を知って、その画家やクリエイターへの作品の入り口になると考えれば悪くは無いよなとも思う。だが、それは帯とかそういうのを度外視しての話である。僕は帯が嫌いだ。


帯で思い出したのだが、小学生の頃に国語の授業かなんかで自身の持込みの本に対して帯を作成する授業があった。僕はさして本に興味があった訳ではないので、祖父の家から適当な、それも読んでいない1冊の本を持ってきた。当然、読んでいないのだから帯など書ける訳もなく、適当なことを書いたことを思い出した。

そう考えると、ムカつく言葉が並んでいるとは言え、書けるだけ凄いのかもしれない。それは例えば興味が無い分野であったり、詰まらない小説や作品であったりしても1度は読まねば書けないからである。これでまたふと思い出したのだが、過去に大学で「俺は○○の作品が大嫌いだからこそ、めちゃくちゃ読み込むんだ」と言った人間が居た。これは至極単純な話である。何かを批評するからには、それ相応の覚悟を以てして挑めということである。何なら作者本人よりも詳しくなければなるまい。

嫌々本を読むという行為そのものには、実は「愛情」などではなく、「嫌悪」から来るものである。しばしば、「この本は最後まで読まなければ」みたいな感覚を持つ人間が居るが、僕からすると「ああ、この人はこの本が嫌いなんだろうな…」と感じてしまう。そんな義務感で読むのは研究者ぐらいにでも任せておけばいい。飽きたら手放すぐらいの心持で居ればいい。その中で何度も読み返す本に出会う事こそが醍醐味なんじゃないかね。

帯の言葉自体を僕は大いに馬鹿にするが、帯を書いている人のことは尊敬する。どんな形であれ1度は作品に目を通さねばならないのだから。それもせずに帯を書いているのだとしたら、僕の小学生時代のような相当な馬鹿か、あるいは天才かのどちらかではないだろうか。

そんなことはさておきだ。

いずれにしろ、僕は本の帯が嫌いである。それに何度騙されたか分からない。しかし、不思議なもんで、人間て簡単に騙されてしまうんだな。反復の快感性?とでも言っておこうか。同じことを何度も何度も繰り返しては失敗してということ、まあ、これが重大なことでない軽微なものであるというのがどこか必須な条件である訳だが、そういう事を求めてしまうのだろう。少なくとも僕はそういう人間であることは確かなのかもしれない。

これなんかその最たるものである。最近では三宅香帆っていう人の本を読んで本当にげんなりしたものだけれども、これは別のベクトルで凄い面白かった訳だが無性に腹立たしかった。

「だったら読まなきゃいいじゃん!?」と言われる訳だが、この記録の冒頭にも書いた通り、人間そう単純ではない。僕の読書に於けるマゾヒズム体質がだねぇ…。と実際そうだから別に僕自身で茶化す必要はない。僕は自覚的なマゾヒズムだと思う。かといってSMプレイなどは嫌いだ。何でロウを垂らされなきゃならんのだ。何で痛い思いせにゃならんのだ…。まあ、僕の性癖の話は置いておこうか。


これも過去の記録で沢山、目が腐るほど書いているけど「良き読み手はマゾヒストである」という格言は確かにと思うことがある。あの延々とグルグル回っていて、「結局何が言いたかったの?」ということに快感を覚えるのは正しく読み手側の宙吊り状態のそれである。

「結局何が言いたいの?」「結局何がしたいのか分からない」という状態が不和となり、誰かしらの関係性の破綻を導くことは大いにある。僕はそれを受け入れたいなと思う。つまりね、誰かが何かを言おうとしているその姿勢を僕は汲み取りたい訳。何でものべつ幕無しに「言ってることが分からない」なんて都合がいいにも程がある。

そもそも、お互いが違う環境に居て、お互いが違う感性を持っていて、お互いが違う思考を持っているならば、言語体系も変わってくるのは必然ではなかろうか。それを「分からないから」と撥ねるのはあまりにも乱暴というものでは無いか。分からなければ聞けばいいし、上手く伝えられていないと感じたなら、何度でも伝えればいい。そういう気概くらいは持っていても良いだろう。特に自分が大切にしたい人に対しては。

とは言うものの、自分が言語化するペースの違い、あるいは言葉の使い方などによって好みは当然にある訳だ。この人と話していると愉しいとか、この人といると安心するということは往々にしてある。僕に関わってくれる人の殆どがそうだ。正直言い方は凄く悪くなってしまうかもしれないけれどもね、大きな刺激は無いの。それは言ってしまえば、常に知っている人とお馴染みの話をして、「こういう本があった!」「こういう展覧会があった!」「どんなことがあったの?」という話をするからである。その代わり、大きな信頼感と安心感がある。

案外僕は人の話を聞くことも好きなのかもしれない。

勿論、自分が話過ぎてしまうことの方が殆どなんだけれども、それでも人の話を聞くのは好きだ。僕は行動派では決してないけれど、頭の中だけはいっちょ前に行動派なのかもしれない。だから僕は旅行をするのは好きではないが、人から旅行の話を聞くのは大好きである。ところが最近、少し旅行に行ってみようかと重い腰が動きつつある。自分でも驚きものである。

小さな変化みたいなもの。その瞬間を僕は逃したくない。

人間は生きていればそのタイミングで都度変化して行くものである。というよりも、動物のある種の性とでも言えば良いだろう。だが、やはり人間は異なる。誰かの為に、ということだけでも変わることが可能である。環境に左右されて変化をすることは動物の本能的な部分である訳だが、人間は「変わろう」という意思さえあれば変幻自在に変わることが出来る。そういう瞬間こそ人間である、そして生きていることを実感できるのではないかとも思えてくる。

僕は元来腰が重く、自分が変化することにどこかで抵抗している自分が存在していたことは言うまでもない。しかしだ。変化することが人間ひいては動物の本能であるとするならば、僕も変化をしなければなるまい。そしてその変化を愉しめる寛容な心を育み、現在進行形である。僕は丁度過渡期を迎えているのだと思う。これからの自分の変化、それも今までとはどこか異なる変化を迎えるのだと思う。


さて、どうこの記録に納まりをつけていいか分からない。書きたいことが在りすぎて、逆に納まりが付かない。小出し小出しにしつつまた認めようと思う。

今日の記録はこれで終い。

よしなに。


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