雑感記録(73)
【ル・クレジオについて語りたい】
先日、こちらのつぶやきにてル・クレジオの『悪魔祓い』を購入したこと、そして読んだ感想を微かに書いた。
さらに遡れば、最初の記録の方でもル・クレジオに関して簡単に触れている。僕はル・クレジオの作品が好きである。
僕はあまり外国文学を読まない人間である。哲学などに関しては外国の作品が中心であるが、小説や詩などと言ったものに関しては日本の作品が中心である。大学時代に日本文学を専攻していた人間であるからして、外国文学に受動的に触れる機会は少なかった。これは環境に於ける話だ。
そしてもう1つ。これはかなり難しいというか、結構自分の中で躓いている部分ではある。それは"翻訳された言葉"であるということである。これはどう頑張っても避けようのない事実であり、またこれに抗う術を僕は持ち得ていない。というより、そんな気概もないというのが正直なところであろう。
きっと「原文ママ」で読めればもっと異なった要素であったり、表現であったり軽微な部分で何か気づけることもあるのかもしれない。この翻訳問題というのはいつどこでもぶつかる問題であるように思う。ただ、1つ言えることはこうして外国の文学を気軽に読めるのは彼ら、翻訳者の方々のお陰であり、どんな変な訳であろうとも訳そうとしてくれていること、日本に伝えようとしてくれていることに僕は敬意を示したいと常々思う。
さて、翻訳の話はここまでにしておこう。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めてしまうので、僕の記録したいこととは若干遠ざかるであろう。
僕とル・クレジオの出会いは大学生の時だ。
とある日、僕は神保町に1人でいた。目的は何だったか今となっては忘れてしまったが、ただプラプラと神保町を歩いていた。歩けば古本屋に行きつくので、古本屋に入り本を眺めて良さそうなものがあれば購入する。いつもこんな時間を過ごしていたように思う。大学時代は本当に暇だったので週3ぐらいのペースで神保町に行っていた気がする。
1通のLINE。友人からだ。「お前今どこに居る?」と聴かれたので「神保町」と素気ない返事をした。するとすぐに既読、返信アリ。「もし、あったらで良いんだけどル・クレジオの『物質的恍惚』があったら買ってきて欲しい。」なるほど、お使いだなと理解した僕は古本屋を転々として行く。
しかし、こういう時、中々見つからないのが世の中の常だ。何か欲しいものがあり、それを心のに願って探すと意外と見つからないものだ。探すのを諦めかけた瞬間にそういったものは目の前に現れてくるものだ。僕の場合もご多聞に洩れずそうであった。外のワゴンセールを見て、何となく眺めていたら見つけたのだ。しかも単行本の『物質的恍惚』。すぐさま購入し友人にLINEした。
「見つけた。明日渡すわ。」とこれまたそっけなくメッセージを送ってしまった。状態確認の意味も込めて本の写真を追加で送った。そうして僕は電車に乗り早稲田へ向かった。電車の中で僕はこっそり読んだ。僕は未だにその時の衝撃を忘れられないのだが、人生で初めて言葉に触れて震えた瞬間とでも言えばいいのか。そういった感覚であった。
以下長いが引用する。
非常に長くなってしまって恐縮なのだが、僕はこの箇所を読んだときに衝撃を受けた。というよりも言葉の1つ1つに痺れてしまったのだ。これを読んだ当時、僕は小説や詩などというものがある意味で「技術」の上に成り立っていると信じて疑わなかった。これは今も変わらないと感じているが、これを読んでからというものの少し不安というか、ある種の揺らぎを自分の中で検知している。その結果として保坂和志やラカンなどに行きついたのだと今では思えるのだ。
小説を書く人間、はたまた詩を書く人間たちは言葉について真剣に考えている人たちであるだろう。中には「ん、大丈夫か?」と思う作家も散見されるが、基本的には言葉に対して一般的な我々よりかなり鋭敏な感覚を持っていることだろう。しかし、ル・クレジオはその言葉自体に疑いの目を向ける。ここが僕には刺さったのだ。どう使うか、どの言葉を選択するか以前の問題。そう根本的なところに突っ込んでいる。
とりわけ最終部。「自由は言語の目的ではない。ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」ここが最高に痺れた。僕らは当たり前のように言葉を使い話し、書き、聞き、コミュニケーションを図る。ル・クレジオが言うところの「交換手形」というところなのだろうか?何不自由なく僕らは言葉を使っている。
しかし、言葉を使用することが僕らの存在の自由性を担保することになるのだろうか?
言葉が何でもかんでも表現できるとは僕は思わない。言葉の限界性とでもいうのだろうか、そういったものは確実にあるはずだ。言葉で伝えることが全てではない。そんな限界性のあるもので僕らの自由は担保されえないのではないだろうか。僕は少なくともそう考えるようになった。
最近の記録で少し触れた気がする。
小説や詩というものはある意味で自由なものである。しかし、それはあくまで「小説」「詩」そして「文学」といった制度の中に於いての話であり、それがその制度を飛び出した瞬間にそれは自由とは言えなくなるのではないのだろうか。つまり、僕らの生きている制度に対しての自由にコミットすることは不可能ではないだろうか。
さらに言うなれば、「文学」という制度以前の問題として「言語」という制度もある訳であり、そこをどう乗り越えていくかが1つの問題になると僕には思われて仕方がない。ル・クレジオはそういったところを非常に巧みに表現している。引用の中にもあったが「逃走の本能」なのだろう。制度からの逃走本能。これは僕も大切にしたいところではある。
それで『悪魔祓い』を読んだ訳なのだが、これが非常に示唆に富んでいる。インディアンの社会について触れた作品であるのだが、考えさせられることは非常に多い。
ここまで来るとそもそも僕らが言語を使って話すことが何だか馬鹿馬鹿しく感じてしまう。しかし、言葉から離れてものを感じるという点に於いては非常に有益なことを教えてくれているように思う。
沈黙すること。これは我々の生活に於いて重要なことであるように思う。というより、言語から離れたある種の意思伝達手段として非常に有用であると思われる。話すことが全てではなく、その沈黙によって言語そのものを遮り新たな何かが生まれることもあるのではないかと感じる。
はてさて、長い引用を続けてしまったお陰で疲れてしまった。ここで終いにしようと思う。ル・クレジオは1度読んでみることをオススメしたい。小説もかなり面白い。ぜひ。
よしなに。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?