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雑感記録(132)

【演じるということ】


先程、僕の好きな俳優のエッセーを読み終えた。

藤原季節『めぐるきせつ』

僕は俳優の藤原季節さんの演技が好きだ。彼の出演している映画は引き込まれるものが多い。というよりも僕が好きな映画に出ているということだ。例えば『空白』とか、それこそ主演映画である『佐々木、イン、マイマイン』であったり、スコセッシの『沈黙』とか。彼の演技には引き込まれてしまう。

この本に出会ったのは高田馬場の芳林堂だった。物件の契約を高田馬場にある不動産業者の所でやることになっていたので、余裕を持って高田馬場へ着いた。しかし、早く着きすぎて時間をどう潰そうかと考えて芳林堂へ本を見に行った。人が沢山いて皆が皆立ち読みしており、その人たちの後ろを通り抜けて並べられた本を順繰りに眺めていた。

こんな狭いところですれ違って本を見るのは苦労する。僕は人がなるべく居ない所へ向かって足を進めた。すると、芸能人や音楽の本が置かれている所には人が殆どおらず、ここで本でも眺めることにした。並べられた本を時間を掛けながら眺めた。何となく見ていたら「あ、この人!もしや…」と手に取り「おお…」と思わず感動した。

僕はすぐさま手に取り、レジに向かっていた。


物件の契約を済ませた後、僕はその脚で東京駅へ向かい特急に乗って帰ることとなる。電車の中で早速読み始めることにした。しかし、読んでみると面白いというか深いとまたもや感動してしまったのだ。

数々の著名人が書くエッセーと言うのはどうも煌びやかすぎる傾向にある。僕の好きなエッセーである園子温の『非道に生きる』や、つい最近読んだ『聖域』なんかもそうだ。まあ、ここで『聖域』と『めぐるきせつ』を比較すること自体が藤原季節さんに申し訳ないのだが…許してほしいところだ。

著名人のエッセーというのは大概、サクセスストーリーというか「俺はこうやって頑張って来たんだ、ドヤ!」みたいなものが多い。しかし、藤原季節さんのエッセーは藤原季節さんの思考が順を追いながら丁寧に追われているのが面白い。加えて、これもまた失礼な物言いだが、絶妙にパッとしない所が凄く良い。煌びやかなストーリーがいきなり出て来る訳ではなく(勿論、凄いストーリーの数々だが!)、そのプロセスがしっかり描き出されているのが凄く良かった。

何と言うか、本作を通底している「どことない暗さ」みたいなものが僕には心地が良かった。少なくともこういうエッセーと言うのは自分を良く見せたいと思う部分も当然ある訳だ。誰かに読まれるという意識が心の奥底にはきっとあって、現に実は僕も書いている以上はそれを考えてしまう。ところが、このエッセーにはそういう部分がない。これが読者との距離感を絶妙に保っているのである。読んでいて嫌な気が一向に起きない。

読書感はこんな感じだ。


 僕は、昔から俳優が舞台挨拶で「〇〇役を演じさせていただきました」と言うのに、疑問を感じていた。あの敬語は、誰に対しての敬語なんだろう。選んでくれたプロデューサーや監督、それとも映画館に来てくれた観客だろうか。
 ふと僕が思うのは「演じさせていただきました」という言葉は、その職業で実際に暮らす、生活者に対して使う言葉なんじゃないだろうか、ということだ。そしてその生活者とは、もちろん観客のことでもある。働いたお金で、映画館や劇場に来てくれる人たちのことだ。その生活の中で感じる苦しみや疲れ、そして喜びや幸せ。積み重ねてきた毎日を、ほんのひと時、演じさせていただく。その感覚がしっくりくる。
(中略)
自分たち俳優が、街で暮らしている人間を演じようとする。そこに前提として存在する傲慢さを、忘れてはいけないと思った。
 僕らはそれでも演じていかなくてはいけない。俳優という仕事をしているからだ。役になり切ることができなくても、本物に近づくことを諦めてはいけない。「鉄道員」の高倉健さんや「恋人たち」の川辺で働く作業員たちの姿を、胸に宿していたい。そこにはフィクションという嘘が作り出す、一つの真実があるように思う。僕はこの真実が、たまらなく好きなんだ。
 これからも、世界のどこかで一生懸命に暮らす人たちを、一生懸命に演じさせていただきたいと思う。

藤原季節「演じる」『めぐるきせつ』
(ワニブックス 2023年)P.199,200

これが書かれているのはエッセーの終盤も終盤な訳だが、僕はこの章にやられてしまった。僕が偉そうに言えたことでは決してないのだが、「この人が俳優で良かった」と思わず感動した。「フィクションという嘘が作り出す、一つの真実」これは非常にグッとくる表現だ。

僕は記録で常々書いていることだが、芸術の出発点は「生活」にあると考えている人間である。僕らが生きている「生活」から全ては始まる。当たり前に生きて、仕事をして、家族と生きて……。そういうことから全てが始まる。そこにどれだけ真摯に向き合っているかということが芸術の根本にはあると僕は考えている。

この文章を読んだ時に僕は救われた気がした。僕が考えていたことはあながち間違えでもなかったのかもしれないという感覚になった。別に自分の思考の正当性を確認したかったという訳では決してない。ハタと気付かされたのだ。

僕等はテレビや映画の中でしか俳優という人間を知らない。すると感覚として「雲の上の人」と言うのが無意識に芽生えてしまう。無論、雲の上の存在であることは確かなことなのだが、「俳優」という言葉とその存在がテレビなどによって一人歩きしているような気がする。そもそもの存在として僕等と同じ「人間」であり、彼らも僕らと程度は異なるかもしれないが「生活」している。

僕は俳優本体と演じる役のギャップを物凄く感じてしまうことがある。庵野秀明作品に出て来る長澤まさみなんかがそれだ。『シン・ウルトラマン』と『シン・仮面ライダー』のあの落差を見てしまうと驚きを隠せない。僕は『プロポーズ大作戦』の時の長澤まさみが1番好きなのだが…。とにかく、その俳優そのものと言うより、演じる役で見てしまうことが多い。

つまり、その俳優と言う存在を俳優そのものとしてではなく、演じられた役でしか見れなくなってしまうのである。俳優その人がどんな生き方をして来て、どんな考えを持って行動しているのかは僕には関係がなくなってしまう。人としてはどうでもよくて、役を基準としてしか考えられなくなってしまうのである。

しかし、ここで何故僕が藤原季節さんの演技が好きなのかがよく分かった。これまた烏滸がましい言い方になってしまうのだが、演技には等身大の「藤原季節」がいるのだからだと僕には思えて仕方がない。どんな役を演じてもそこに彼が居るというのが分かるからなのかもしれない。演じているけれども、役に敗けない彼が居る。そこが魅力なのかもしれない。


浅はかな感想になってしまったが、とにかく凄くいいエッセーだった。

よしなに。

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