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雑感記録(386)

【夢の話】


朝、涙を浮かべ目覚めた。

夢というのは不思議なもので、現実と夢の狭間に自分自身の身体がある感覚で、夢と現実は離れているようで離れていない。フロイトの『夢判断』をまだ読み切っていない自分にとって夢というのが果たしてどういうものか分かっていない。ただ‟精神”と‟身体”とが密接に関係しているということだけは何となく経験として持っている。やはりそれは‟陰”と‟陽”であったり、‟明”と‟暗”などという二項対立ではどうすることも出来ないことがあるということだけは何となく肌感として持っている。

夢の話を語ることは難しい。

これから書こうとしていることは僕の見た夢である。夏目漱石の『夢十夜』の様に面白く書ければ良いのだろうが、生憎僕にはそんな文才も無ければ、そういう体裁を取って書こうとする気力もない。ただ、ここにありのままに記述することしか出来ない。しかし、この夢を見てから2,3日経過している。若干のタイムラグがある訳で、その間に自分の感情やこの記録を書くまでに見た事物などがその夢を改変するということは大いにあり得る。ただ、それでも書き残しておきたいという気持ちだけはどうしても僕には拭い去ることが出来なかった。

僕が見た夢はこの記録で記した猫の夢である。余命幾ばくかの猫。彼の夢である。この夢を見たキッカケは家族のグループLINEに送られてきた父親からのメッセージ内容に起因している。夢分析をするほどの技量は僕にはない訳だが、これがキッカケであるということは自分の中では確実である。この夢を見たのはこのメッセージが送られてきたその日の夜に見た夢だったからである。関係が全くないとは言い切れない。

送られてきたメッセージの内容はシンプルそのものである。「日に日に状況が悪化してきて、もうそろそろ終わりを迎える。動物病院にも連れて行ったがお医者さんから『手の施しようがない』と言われた。何とか頑張ってみるが、先は長くないことだけは承知しておいてくれ。」というものである。正月の時点である程度は覚悟していたので、僕の中では「いよいよか…」と言った感じである。しかし、割り切れない気持ちというのは心のどこかに在ったことは確かだし、今でもそれは感じている。

僕は人間をやっていてほとほと嫌になるのだが、来たるべきもの、確実に来るものであろうことに対して「割り切る」という選択肢を持ってしまうということが悔しい。「受け入れる」ということの難しさ。だけれども「受け入れなければならない」ということは往々にしてある。モヤモヤとしたまま抱えて生きる事こそが本来的なことなのか?割り切って前に進むことが本来的なのか?僕には分からない。

そういう悩みを抱えたまま僕はベッドに入り寝た。


僕は実家の階段を昇っていた。足元にはずっと寝ていた彼が居る。見た目は今とは程遠く、肉付きが良く健康体そのものである。しかし、足は拾ってきた当時から良くなったとは言えやはり癖が残ってしまっている。僕が一段一段上がると同時に彼も一段一段上がって来る。踊り場で僕が止まると彼も止まる。足に頭突きしてくる。僕はしゃがみこみ彼を撫でる。ゴロゴロと音が聞こえる。抱き上げようとお腹辺りに腕を回した途端、そこからすり抜け2階へと僕を置き去りにして進んで行く。

僕は追い掛け、自室に入る。自室に入ると僕が小学校入学時に買ってもらった学習机があった。太陽の光が射し込み、温かさだけがある。その机の上に彼は座っていた。太陽に向かって動かずジッとしている。彼の傍に行き、学習机の椅子に僕は座りふっと力を抜く。ふと僕は学ランを着ていることに気が付く。机のマットには日本史の年表や写真が入っていた。僕が高校時代まで使っていた学習机そのものだ。机には彫刻刀で彫った標があった。

彼はマットに挟まれた写真の上に鎮座している。微動だにしない。僕はそれをただ眺める。耳だけが動き呼吸で丸まった背中が微かに動いているのが分かる。光に照らし出される毛並み。茶色と黒の縞。フサフサの毛並み。僕は椅子から立ち、彼を抱きかかえ窓の前に立ち一緒に太陽を眺める。普段なら抱っこされることを嫌うのに、やけに今日は大人しい。呼吸する音が聞こえてくる。頭を撫で、背中を撫で、ただ抱きしめながら突っ立っていた。

他に何をする訳でもなく、一緒に日向ぼっこをした。部屋からは富士山が見える。実家の僕の部屋である。何も変わらない。空には雲は無く快晴そのものである。窓を開ける。風が入って来る。温かい陽気なのに冷たい風。鼻孔には彼の匂いがほのかに香って来る。これは今まで寝ていた毛布の匂いなのか、彼の匂いなのか分からない。ただ懐かしさみたいなものだけが鼻孔を刺戟する。寒くなって来たので窓を閉める。彼は僕の腕の中で眠りこける。気持ちよさそうだ。

窓を閉めると、口ロロの『00:00:00』が突然流れ始める。

一秒 また一秒 涙が一滴 また一滴 こぼれ落ち
タイトなリズム刻み 世界を濡らし
その重さの 臨界点 いつも決まって AM00:00:00
に砂時計 ひっくり返り 今日が昨日に 明日が今日に
男 男 車 猫 女 ジョギング男 追い越すバイク
カップルさげているコンビニ袋 ビール キムチ 替えの下着
たいてい起きてる僕 たいてい寝ている君
僕は君のことを思う 君は僕の夢を見る

今夜 どうか どうか
今夜 どうか どうか

口ロロ(作詞作曲編曲:三浦康嗣) 
「00:00:00」『everyday is a symphony』(2009年)

僕は眼を閉じ、身体を揺らしながら彼を抱きかかえ曲を聞く。頭の中には走馬灯のように彼との時間が一気に押し寄せてくる。「たいてい起きてる僕/たいてい寝ている君/僕は君のことを想う/僕は君の夢を見る」ところで眼を開ける。外は暗くなっており、太陽が沈み始めている。ふと抱きかかえている重量が軽くなっているのが分かる。彼を見ると僕が正月に見たガリガリに痩せこけ、呼吸するのすら苦しそうにしている。彼が頭を僕の方に向け小さな声で鳴く。今年の正月の時の僕だ。

僕は強く抱き締めながら彼と今にも沈みそうな太陽を眺める。再び彼が微かな声で鳴く。段々と暗くなっていく。太陽は沈み、頭上には月が出始めている。それと共にか細い、耳をすませなければ聞こえない程の小さな声が最後に僕の耳に入る。最後にもう1度軽い彼の体躯を抱きしめ流れる『00:00:00』に耳を傾ける。

おやすみ まだ名前のない 無数の想い
おやすみ またこんな夜に歌になる日まで

今夜 どうか どうか
今夜 どうか どうか どうか

一秒 また一秒 涙が一滴 また一滴 こぼれ落ち
タイトなリズム刻み 世界を濡らし
その重さの 臨界点 時間を越えて 歴史を変えて
世界中に散らばって 僕の中へ 君の中へ

口ロロ(作詞作曲編曲:三浦康嗣) 
「00:00:00」『everyday is a symphony』(2009年)

月は爛爛と輝き、彼は静かに眠り、僕は泣く。窓を開ける。冷たい凍える風が僕に向かって吹く。腕の中が軽くなって「あっ…」……。


という所で目が覚めた。

蒸気でホットアイマスクが湿り、涙が肌を伝うのが分かる。僕は普段「夢を見た」ということは覚えている質だが、どんな夢を見たかというのを鮮明に覚えていることが少ない。しかし、鮮明にこの夢だけは覚えていたし、「忘れちゃいけない」と思ったのである。今までにこんな経験はしたことがないということもあるだろうが、これだけは大切にしたいと思ったのである。

 死が生の完遂であり、生に形と価値とを与えるものであり、生の円環を閉じるものであるのと同様に、沈黙は言語と意識との至高の到達である。ひとが言う、あるいは書くすべてのこと、知っているすべてのことは、そのために、まさにそのためにあるのだ—沈黙のために。

豊崎光一訳 ル・クレジオ「沈黙」『物質的恍惚』
(岩波文庫 2010年)P.349,350

僕はこの夢を見てから何度目かもう分からない程読んでいるル・クレジオの『物質的恍惚』を読み始めた。やはり自分の心の中で、これからすぐに来るであろう愛猫の死というものをどこかで受け入れられないのだろう。当たり前のように日常生活を送る訳だが、その中では意識上に浮上してくることは無いのだけれども、ふとした瞬間にそれはやって来る。そういう時、僕はどうしてもやるせなくなる。

今では実家から離れて生活をしていて、すぐに帰ることが出来るかと言われれば中々それは難しい。本当ならすぐにでも駆けつけてあげたい。もしかしたら、これは僕の言い訳に過ぎないのかもしれない。ここ数日、僕は悶々とした気持ちを抱えながら生活をしている。だが、最後に夢で元気な彼と逢えたということだけでも僕は幸せなのかもしれない。大瀧詠一もそう歌っているではないか。

猫は日本語を話さない。僕は猫語を話せない。彼が何を考え、何を想い今を闘っているのか分からない。ただ余命宣告を受けてから2年もの間を生き抜いているのだ。勿論、僕等家族がサポートしてきた部分は当然あるだろうが、その生き方そこにこそ彼の信念みたいなものが在るのだろうと信じたい。これはハッキリ言えば僕のエゴでしかない。

 沈黙、無、不動性、つまりこれこそ、不可能なるものの言葉なのだ。これだけが、たぶん、人間のためにあるのではない深淵なのだ。すべては動く。すべては在る。すべてはざわめく。静止はありえない。ちょうど無がありえないように。すべては現存しており、消え失せない。すべては変化し、すべては構成され、すべては生きそして死ぬ、だがそれは同じ状態にとどまりつつなのだ。全体に対立してはいるがほんとうの意味でそうではないもの、むしろ後方へ投げやられ、無に帰することができず、変更を加えることができず、純粋、恒常的、魔術的な状態にとどまるもの、それは在るところのものの力である。
 ここにこそ、どうやら人間たちにとっての最大の希望が見出されるのだ。ここにこそ、人間たちの変貌が、彼らの物質的恍惚が始まりうるのだ—けっして何一つとして消え失せることはあるまい。生においてであれ、死においてであれ、空間の中を逃れゆく諸宇宙のうちで最大のものにおいてであれ、あるいはこれら王国のうちで最小のもの、原エネルギーの数々のほとんど抽象的な現存においてであれ、何ものかがあるであろうし、つねにあったし、あるのだ。何ものかが。

豊崎光一訳 ル・クレジオ「無限に中ぐらいのもの」
『物質的恍惚』(岩波文庫 2010年)P.293,294

僕等は死との交流が出来るはずだ。それが例えスピリチュアル的な容貌を呈していようともだ。僕はスピリチュアル系などは好きではない。だけれどもどうしても身近に「死」というものが在る時、僕は「死」との交流ということを信じたくなってしまう。しばしば「死してもなお生きている」という表現が見受けられることがある。誰それの記憶に残っていればそれは「死」ではない。忘れ去られた時に「死」となる。

「死」=「無」という関係性を改めて僕は考え直さなければならない。「死」は躍動するものなのかもしれない。僕等の「物質的恍惚」の始まりがあるはずだと。消え失せるものではない。確実に僕等に何かを残してくれるということは言うまでもない。ただ、苦しみながら消え失せる姿を眼にして僕はやはりそれを受け入れることが出来ない。生きた証。何なのだろうか。

もう少し省察をせねばなるまい。

今日は愛猫の夢の話。とりとめのない話さ。

よしなに。

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