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雑感記録(353)

【駄文の円環part15】


どうでも良い話だが、最近Netflixで『ドラゴンボールZ』が配信になったので、読書そっちのけで観賞している。僕は漫画でというよりも、アニメの方で育ってきた世代である。しかし、初期の『ドラゴンボール』はあまり触れたことが無かったように思う。確かチチと天下一武道会で結婚して、ピッコロと闘うまでが『ドラゴンボール』のアニメで、それ以降つまりラディッツから魔人ブウまでの所が『ドラゴンボールZ』のアニメである(はずだ。有識者が居れば色々と訂正して欲しい)。

それ以降の話は『ドラゴンボール超』になるのか?僕は『ドラゴンボールGT』の方が思い入れがある。何せ、DEENが主題歌歌っているんだぞ!って言っても中々伝わらない辛さよ…トホホ。だが僕の中では『ドラゴンボールGT』が『ドラゴンボールZ』の続きだと思って過ごしていたことは紛れもない事実である。スーパーサイヤ人4のフォルム、僕は意外と好きなんだけどなあ…。

何故か黒髪、赤毛でしっぽが生える。未だに謎だ。

そんなことはさておき、久々に『ドラゴンボールZ』を見ようと思った訳だが、何処から見ようかと悩んでしまう。アニメだと特にご丁寧に「○○編第▲▲話~▽▽話」と選択することが出来る訳だ。記憶が定かではない僕にとっては助かる。久々に「ガーリックJr.」の名前を見た時には興奮してしまった。だからと言って、僕は別にここのストーリーは好きではない。

アニメの場合、これはどのシリーズでも厄介なのが「OVA」があるということだ。つまりは、原作には含まれていない話がアニメでのみ展開されるということである。僕が身近な知っている作品で言えば『スラムダンク』のアニメの最終回なんかは正しくそれだ。様々な高校のオールスター戦みたいになっていたけど、陵南戦が終われば、豊玉戦、そして山王工業戦となる訳だ。僕は意外と豊玉戦が好きなんだな。

エースキラー南烈。「ラン&ガンやでぇ!」なんてな。

恐らくだけれども、『ドラゴンボールZ』にも少なくともOVAはある訳で、何ならさっき僕が名前を挙げた「ガーリックJr.」編とは正しくOVAである。セル編が終了した後の「あの世一武道会」編もOVAである。しかし、良く出来たものだなと感心する。「あの世一武道会」編は結構好きである。確か天井を踏んでどうたらこうたら…と思い出す前に見た方が早いな。


で、そんな思い出話に浸りたい訳じゃなくて。

僕は実はセル編と魔人ブウ編が好きなのね。小さい頃の熱情がまだ心の底に在って。要は強いヒーロー全員集合!みたいな。少年の夢みたいな所がある訳だ。それが描かれるのがセル編と魔人ブウ編である。だって皆サイヤ人はデフォルトでスーパーサイヤ人に為れるし、何なら魔人ブウ編なんかでは悟空はスーパーサイヤ人3になるんだから。こういう強くなっていく系には小さい頃も、そして今も変わらず心躍るものがある。

しかしだ。昔は嫌な奴だなと思っていた登場人物でも、実は凄かったんだなと思えるようになった登場人物もいる訳だ。今日はそれについて書こうかなと思って書き出してみたんだが、実際どこまで書けるか分からないけど…まあ、いいや。とりあえず書き出してみることにしよう。

やっぱり、憎たらしい顔してるんだよな…。

僕はベジータが嫌いだった。典型的な「上から目線」だからだ。最初、ナッパと地球に降り立った時、悟空をコケにしまくった訳だ。「地球人なんてクソだな」とか「下等生物だ」みたいなことを堂々と言っちゃう。だけれども、何だかんだでナメック星とかでも一緒に戦っちゃうし、セル編なんかではブルマと結婚までして!何だか言ってることとやってることが頓珍漢な生き物だとこれまでは何となく思っていた。

だが、もう1度見直していく中で、意外とベジータって良い奴なのかもしれないと思い始めている。『ドラゴンボール』を始め、各バトル漫画では主人公が強いというのが紋切型で、漫画で1番強く悪を倒すみたいな表現が横行している。ご多聞に漏れず『ドラゴンボール』も正しくな訳だが、しかしよくよく見ると、実はやっぱり悟空よりもベジータが1番強いんじゃないかなとも思えてきたのである。

まず大きな点としては、でっかい矛盾点を抱えていること。この矛盾にしっかりと向き合っていることが大きい。少し詳しく説明しよう。

悟空は幼少期から地球に居て、地球人と同じ地平で生活してきた。無論、しっぽがあったり、満月を見てデカ猿になったりと、人間とは異なる部分があった訳だ。しかし、それを人間側の方で強制して、より人間へとしていく。最終的にはしっぽも無くす訳で。だから、悟空は人間だけれども実はサイヤ人だったという存在である。アイデンティティを2つ既に持っている。

ところが、ベジータはというと、既に「サイヤ人」しかも「サイヤ人の王」というアイデンティティが確立されているのにも関わらず、それを上手く自身の中で折り合いを付けながら「地球人」としても生きていこうとしている部分が偉いなと思うのである。つまり、悟空は既に地球人兼サイヤ人というある種の認識が心の裡に存在していた訳だが、ベジータはそれを自分自身で作り上げなければならなかった。悩み多きサイヤ人、それがベジータである。苦悩の中を日々、周囲の環境に振り回されながらも必死に生きる感じに思わず心打たれる。


僕はベジータが偉いなと思うのは、結局嫌がっていたもの、毛嫌いしていることに対して、自分がどうあるべきかという言わば「自己分析」がしっかり出来ているのである。特にセル編での(というか、セル編しかまだ見返してないからな…)「カカロットは俺の目標だ」というセリフがあった訳で、これを考えられる、言えるベジータは本当に最強だと思った。

中々僕等も生きていると、自分の弱さを認めたくないものだ。

「弱さを認めることもまた強さだ」という紋切型の表現がSNSとかでのクソ名言厨みたいなアカウントが発信していたりする訳で、実際こんな言葉でしか語れない僕の弱さがここに露見してしまう訳だけれども、そんなことを書いた後で言っても仕方がない。あとの祭りという奴である。

それに「弱さ」を全面に出したヒーロー像みたいな漫画だって現れている訳じゃあないか。と書いておいて、具体名を出せないのが片腹痛い事ではあるのだが…。何だかそれは嫌らしいなと思う訳だ。弱さを全面的に肯定することは大切である。だが、果たしてそれを肯定してくれる人間は居るのだろうか。それは周囲へ肯定しろと押し付けていることになりはしまいか。

「強さ/弱さ」と括っている訳だが、僕からするとどっちもどっちな訳で、「渾然として一」でしかない。強さは弱さであり、弱さは強さである。それだけのことである。どちらかを一方的に肯定させようとする(この「させよう」とする魂胆が僕は気に喰わない)のは甚だおかしいのである。弱さだけが強さではない。強さもまた弱さである。

ベジータは正しくそれを体現していると言っても過言ではない。

あの1つの身体そのものが「渾然として一」であり、内部に発生する「強さ」「弱さ」の矛盾の中でもがき苦しみながら生きている。これを悟空に対する「劣等感から来るもの」という風には絶対に片づけたくないところではある。ベジータは「自分は弱い。だが強い。」というスタンスであるからこそ強いのではないかと思う。戦闘力そのものを「渾然として一」として認識しているのは恐らく『ドラゴンボールZ』の中で言えばベジータだけではないのか。

存在の心的な振れ幅が大きい。そういうのは好きかもしれない。やはりバッファーは必要なのだ。何事も。悟空などの場合は、純粋な腕比べ、物理的な勝負で考えるなら強い。だが、そこには苦悩もなく「愉しむ」という言ってしまえば「飽きたらお終い」という危うい上に立っている。だが、ベジータは「どう自分は弱いのか」あるいは「どう自分は強いのか」ということについてのバッファーが広い分、冷静に物事を捉えることが出来るのだ。

劇中では傲慢な物言いしかしない男である。鼻について仕方がない。自分が偉そうに言っている、おごり高ぶっている発言が散見される。しかし、それだけを捉えれば単純に嫌な奴だが、ベジータの行動やその他の細かい部分での言動を確認すれば自ずと「実はベジータはすげえんだ」ということが分かる。それは腕力の強い弱いではなくて、思考的にということである。その行動や言葉の背景にはきっとベジータなりの葛藤があって生まれたものである。

孤独で考え抜いたベジータは凄い。


ベジータも「あそび」の住人である。

僕は最近そんなことを考えながら『ドラゴンボールZ』を観賞している。

こう書いてみると、本を読まなくとも学びは至る所に転がっているように思う。僕はたまたま『ドラゴンボールZ』を引き合いに出してこれまで、何だか意味の分かるような、分からんような。自分でも頓珍漢だなと思っているが、それとなく考えたことを書いている訳だ。とにかく最近は「考えること」が画一的になってきている気がしてならない。

「考える」という言葉を前にして、固くなりがちな気がしている。僕はいつも変なことばかり考えるので、noteなんかは大抵変なことだらけだ。もっと変な方向に考えてみて良いんじゃないかなと思う。何も真面目な時だけに真面目に「考える」必要はないと思うのね。なんてことない些細な日常に少し「考える」ことをしてみると意外な発見があったりする。

「考える」ことは自由だ。と「自由」と安易に使ってしまうのはよろしくない訳だが、しかしある程度自由なのは確かである。頭で考えたことは言わなければ相手に伝わらない。逆を返せば言わなければ自分の中でずっと保持することだって可能である。自分の身体性ということを考えると「自由」というより「枠の中の自由」というのがぴったりだろう。

とことん 冷めたら熱く目覚めな
今は去るもの追わない
いったん置いていくしかしょうがない
自己表現でも他者貢献でも
信じる力 耕そうぜ だって
夢の中でさえ 
枠の中の自由
はみ出すのが怖いから
みんなそれが理由
与えられたのは枠の中の自由
俺が音の力で周りを鼓舞する理由
夢の中

LIBRO prod. by Sweet William
『Red Bull 64 Bars』(2022年9月21日公開)

まあ、そんなことはさておきだ。「考える」ということからもっと「自由」になりたいと僕は思っている。それだけの話である。

何の話を書きたいかよく分からない。

よしなに。

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