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雑感記録(155)

【ガンダムSEED覚書】


事の始まりはトイレだった。と、こういう書出し方をしてしまうと、何だか卑猥な感覚を誘発してしまいそうだが、そんなつもりは微塵もない。いや、何もトイレから話が始まることだってあるだろう。例えば踏ん張りながら何かを考える…ってそもそも踏ん張りながら人は考えられるのだろうか。その行動や動作に集中する訳なのだから、他の思考が入り込んでしまったら逆に注意散漫になって出来ることも出来なくなってしまうのではないか。つまり、僕が余裕を持って考えられているということは、ただトイレに座って携帯をいじって居たということだ。え、じゃあトイレで一体何してたの?

となる訳だが、話が逸れてしまうのでトイレについてはここまでにしておこう。兎にも角にも、僕はトイレで踏ん張りながら携帯の画面を眺めていた。そこでとある記事を見つけた。というよりもChromeを開いたら今日の記事一覧にたまたま掲載されていたというだけの話。さも自分が見つけたかのように書いているが、実際はそこにある中から「選択」したというだけだ。ここでいう「見つけた」というニュアンスは自分から能動的に探しに行くということであり、向こうからやってくるということもあるだろうが、それを奪取するべく果敢になるものである。ところが、今回の「選択」については既に向こうからやってきている、到着済みである。自分から云々の前に、そこに存在していたのだ。まあ、それを読もうとする意志は能動的なのかもしれないが…。

まず以て「ガンダムSEED、映画化すんの!?」という衝撃から始まった。何というか嬉しさも勿論だが、何よりも懐かしさ。これが僕を覆う。あの時の主人公たちやモビルスーツ、モビルアーマーなどが大きな画面上で躍動し、戦場を闊歩し、縦横無尽に飛び回るあの姿を見られるとは!?しかも、声優もほぼ昔のまま!個人的にラクスの声が変わっていないことに感動している。実際、ラクスの歌声はガンダムSEEDには欠かせない。何ならT.M.Revolutionの歌声も欠かせないのである。これはマストであると僕は勝手に思っているが、そこらへんどうだろうか?



僕は元々、ガンダムが好きである。とはいえ、所謂「ヲタク」とまでは決して言えない。何という表現が妥当か分からないのだが、そうだな、「人並みには好き」なのかもしれない。あれは小さい頃の記憶だが、父親が居間でガンダムを見ているのを一緒に見ていたことが最初だったように思う。幼いながらに「モビルスーツがかっこいい」とかではなく、純粋に「アムロ、ナヨナヨしてんなよ!」という心持を抱いた。途中見るのも嫌になりかけたが、そこはモビルスーツの戦闘シーンの恰好良さで何とか乗り切った。

とこんな書き方をしてしまうと、さもガンダムを好きにならなさそうな雰囲気がプンプンしている。そう、当初はあまり好きではなかったのである。とにかくアムロのナヨナヨ加減に腹立たしさみたいなものが未だにしこりとして残っている。だが、年を重ねてから見直すと、実は意外とそこが人間臭くてハマったりもする。そう、僕は大学生ぐらいにガンダムを見てハマったのである。ファーストガンダム、Zガンダム、ZZガンダム、そして逆襲のシャアまで順番を追いながら見た。しかし、何故か後は見る気になれなかった。

小さい頃は不思議なもんで、これは刷り込まれているからかどうかよく分からないのだけれども、所謂ヒーローものとかロボット系というのだろうか。そういうアニメの主人公は強くあらねばならないというある種の鉄則みたいなものが存在していた。それは今も伝統的な部分として受け継がれている訳だとは思うのだが…。「弱いものを助ける」=ヒーローみたいな構図になってしまっている。つまりは、弱いものに常に強い姿を見せつけなければならないのである。

しばしば、最近のアニメの中ではどこか矢鱈と厭世的な主人公が多く、普通で、ただの一般人だった人間が異世界やら何やらで一念発起して成功しました!みたいなものが多い。それはそれで一向に構わないのだが、しかしこう最初っから僕は弱いんです!みたいなところで開き直っていると言ったら些か変な表現になってしまうのだが、個人的に最近のアニメの傾向かなと感じるところである。何というか開き直り方が清々しすぎて逆に嫌みったらしいような…。

烈さんも言ってますから…

しかし、ガンダムはそうではない。その弱さと強さの狭間で常に揺れ動いている。その描写が凄まじく美しいのである。恐らくだが、ガンダムを知らない人からすると「ロボットとロボットの戦闘」というイメージで括ってしまうのだろう。事実、僕の母親はこれだ。ガンダムの話をしても鼻で「フン」みたいな感じであしらわれてしまう。というより、母親と27歳にもなってガンダムの話することの方が恐怖ではあるのだが…。自分で書いていて寒気がする。

とにもかくにも、その"ガンダム"というタイトルなどによってロボットにしか目がいかなくなってしまうのだが、あれはガンダムというロボットを媒介にしたアムロ・レイの成長物語である。…ってあれ、これからガンダムSEEDの話をしようと思っているのに何でアムロ・レイの話から…と思うかもしれないが、僕の見る限りでは話の構造自体は実はそんなにガンダムシリーズを通して、そこまで変わっていないような気がするのである。ただ話の重厚さや深みの部分で言うとSEEDやSEED DESTINYの方がより突っ込んでいるのでより複雑さを増したということなのだろう。あとは単純にビジュアルの問題か…?


はてさて、遠回りをしてしまったが早速ガンダムSEEDの魅力というか、「ここがめっちゃ好きなんだよ!」ということをただ只管に、何の脈絡もなく書き連ねていこうと思う。だから途中、自分でもちんぷんかんぷんなことを書き始めると思う。

ガンダムSEED

僕がガンダムSEEDを見て「ああ、すげえな…」と感動したのは、常に現出する二項対立は実はそのどちらかに依拠しなければ成立できない元に存在して、実は二項対立って"二項"じゃなくて"三項"なんじゃないか?というところを見事に暴き出している点にあると僕は個人的に思っている。まあ、これは無理矢理接続するならば、デリダの「脱構築」ということになるのではないだろうかということである(間違えていたらごめんなさい)。

とここで詳しいことを書ければよかったんだけれども、中々言語化するには実は至っていない。これについて色々と考えながら作品を見ているのだが、考える以前に感動しすぎて泣いてしまう。もうそんなこと考えている余裕すらなく物語はどんどんと深みに沈んでいく。いや、物語というか自分がもう我慢できなくなってくるのね。「ああ、ニコル!」とか「フレイ、マジで身勝手な女だな(#^ω^)」とか…。

実は恥ずかしいことに、1度過去にガンダムSEEDでnoteに記録をつけようと思って手書きでノートを取っていた。しかし、中々上手く言語化できない。断片的なことしか書いていないので、後で読み返してみてもしっちゃかめっちゃかといった感じである。しかし、この"二項対立"というワードは共通していたので、僕の中では刺さったポイントなのかもしれないということにしておいてほしい。何回も出てくるワードだから大切なんだろう。

要はその二項対立の欺瞞に気が付いた人たちの戦い。ある意味でガンダムSEEDはその哲学的戦いの場でもある訳なのだ。デリダの哲学的実践をキラ・ヤマトやアスラン・ザラ、そしてラクス・クライン達がやり遂げようとしている。そしてSEEDで達成できなかった綻びをSEED DESTINYという形で回収していくという形になる訳だ。その回収がうまくいったかどうかは分からないが、個人的に新しい映画が公開されるということはそこで綺麗とまではいかないが折り合いをつけるのではないかと勘繰っている。

哲学的実践と書いたわけだが、何かここまで書いてしまったら書かざるを得ないような気がしてしまったので、最初にも断った通りに纏まりが付かない形ではあるが書き出してみようと思う。以下から綴られることはメモの断片である。


・コーディネーター/地球人
・Z.A.F.T/地球軍
→分化する二項対立(ブルーコスモスやアークエンジェルとオーブ等)
しかし、それら分化したところで何かに支えられたうえで対立しているに過ぎない。根本的にその二項対立を支える何かが存在している。

例えば、地球軍に反乱したアークエンジェルは何を持って対立するのか?
→あれはZ.A.F.T/地球軍/アークエンジェル/ブルーコスモスというように最終的には何項もの対立が存在する。しかし、これを支えている物はいったい何なのか?

☆どの立場(?)というところでこれを見るかによるのではないのか?☆
→同じ人間で立っている地平は同じであるのに、立場によって変化するとはどういうことなのか?何を根拠として?

現にこうして、最終的な対立を四項対立とした訳だがこれを下支えしている物は何なのか?→ガンダム?(モビルスーツによる戦闘?)
存在?人間として?→キラがSEED DESTINYの際に言ったセリフ。
「君は君という人間なんだ」=最終的に自身の存在というものがやはり根底にあるのではないか?

立場を超越した、存在そのものへの眼差し。→キラ、アスラン、カガリ、ラクスの目指すもの。→実はこれが具体的に示されている訳ではない。作中ではキラが言及している。(しかし、今更彼らが目指すものは純粋な平和な世界な訳はない):「何と闘わなくちゃいけないか」→結局それでも闘うということは放棄しなかった→平和にも武力が居ること(DESTINYだとフリーダムガンダムやアークエンジェルはある種の核…というか核なんだが!抑止力としての役割を担おうと奮闘している。)

二項対立で物事を考える人々→Z.A.F.T、地球軍、ブルーコスモス
二項対立的な考えから脱却しようと奮闘→アークエンジェル

Q:二項対立から抜け出して何の意味があるのか?良いことはあるのか?

という答えに対して何も現状出せていないという所がこのガンダムSEED、SEED DESTINYの魅力あるところ。→実際にデリダも別に「二項対立が良い悪い」ってことは問題としていない。こういうのがあるんだぞって言っているに過ぎない。逆を返せば何かはあるがそこに全悪の判断はない。結局は「どの立場で物事を見るか、語るか、行動するか」という点にある。

しかし、アークエンジェルの悪い所は、それがさも「正義」として映ってしまうこと。→これはアニメとしての問題なのか?(カッコよく言えば「誰にだって正義、信念はある。道は違えども。」)
唯一の救いは主人公である所のキラ・ヤマトがそこに対して徹頭徹尾、疑問を感じているということ。(つまりは自分がやっていることは正しいのか?いや実は正しいも正しくないも存在しないのではないか?と問い続ける姿勢そのもの。)

結局、その二項対立がどんどん規模を大きくしていくことでそれが見えなくなっている構造になっている。二項対立の下支えになっているのは「人間そのもの」ということではないか?いや違う気がする…。

例えば地球軍/Z.A.F.Tという二項対立があるとするならば、地球軍がZ.A.F.Tについて語る時のエクリチュールは結局、地球軍あるいは地球人であるという自覚によって下支えされており、言語の交通が図られる。しかし、その理論がZ.A.F.Tに通用しないのは、Z.A.F.Tも同様に、Z.A.F.Tあるいはコーディネーターであるという自覚によって下支えされており、彼らは彼らのエクリチュールの中で生きているのだから当然に衝突する。その「下支え」となるものがもしお互いに共通項である物だとすれば?→それがキラたちの求めるものなのでは?

四項対立→結局のところ項が増殖した所で、自身のエクリチュールは自身の所属するところに支配されている訳で、お互いに同じ人間であっても通じることは不可能。→だからこそモビルスーツという共通する武力でしか語ることが出来ない。(それぞれスペックは異なったとしても外形やその構造は基本的に同じであるところから鑑みるにだが…)

言葉というものをガンダムに置き換える。→ガンダムそのものが言語となり得る。(飛躍しすぎか?)ガンダムが共通のエクリチュール。しかし、これを共通項とすれば常にガンダムを介しての会話=戦争の長期化。

オーブはすぐにそれに気づく。中立国であるということ=お互いの共通項を探るための仲介。(しかし、現状ガンダムと言ったものが無ければ通じない世界では持ちたくなくてもガンダムを持たざるを得ない。対話の為の武力。)→スイスが強いと言われる所以が何となく分かるような気がしなくもない。

詰まるところ、ガンダムSEED、SEED DESTINYで行われていることはガンダムを介した、戦争を介した対話でしかない。→ガンダムがエクリチュールだとしたら。ガンダムが必要とされなくなることを期待するということは、つまりは世界がまた新たな共通項を見つけることにある。しかし、ここにも大きな問題はある。

共通項を見つけたところで、それは妥協点にしかならない。お互いはお互いのエクリチュールを持っているから全てを通じ合わせることなど不可能。→ガンダムに於いて常に戦争が止まないのはこのため。つまりは、常にその共通項を見つけたら、自身が語れるエクリチュールを探し続けるため無駄。止まらない。

結局、キラやアスラン、ラクス、カガリはどう頑張っても真の平和には辿り着かない。→そこでキラの言葉が重要になる。「戦い続けよう。僕には闘う覚悟がある。」という言葉。彼らは差延していく世界の中で徒労に終わる気がしてならない。ガンダムは何処まで行っても救われない世界。



ガンダム SEED DESTINY

とまあ、こんな感じにメモは殴り書きされている。ちなみに、本当にノートのメモ書きをそれなりに書き起こしたものである。汚い字で書いてある部分に関しては省いた。なお、誤字についてもそのままの記述とした。

僕はガンダム以外に好きなロボットアニメとしては『エウレカセブン』を激推ししたいところだ。まあ、ガンダムよりはまだ腰を据えなくても楽に見られる。というより、ボーイミーツガール系の中では最高峰のアニメだと僕は勝手に思っている。しかし、『エウレカセブン』は何と言うか、宗教色が結構絡んでくるのでガンダムとは考えて見るベクトルが若干異なる。

エウレカセブン

スカブコーラルとか、あとは…忘れちゃったけれど…まあ色々ある。結構オススメなのでぜひ見て欲しい作品の1つである。それにしてもエウレカが堪らんのですわ。ラクスやカガリにはない魅力が沢山詰まっているんです。

とまあ、結局何が書きたかったのかよく分からなくなってしまったが、アニメに抵抗がある、とりわけロボットアニメに抵抗がある人はぜひガンダムSEED、あるいはエウレカセブンから入って見ると良いだろうっていう他愛もないそんな話です。

よしなに。








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