雑感記録(85)
【吉岡実の詩に酔う】
いよいよ4月も終わりを迎える。いやはや、思い返してみると過酷な1ヶ月であったように思う。身辺のあらゆることが変化を迎え、いよいよ慣れてきたところでGWへ突入する。大型連休があることは非常に嬉しいことだし、喜ばしいことだ。しっかりと身体を休め、自身の好きなことに没頭したいと思う。そんな長期休暇への意気込み。
はてさて、そんな中で最近僕は吉岡実の詩を読み直している。僕は元々詩をあまり読まない人間であるのだが、何故か吉岡実の詩は読みたくなる時がある。それも突然にだ。それこそ従前の記録でも記した通り、何か実生活の窮屈さや耐え難い何かに遭遇した時の1つの逃避行としての言語の逸脱行為。これを求めて僕は吉岡実の詩を欲する。
僕が初めて出会ったのは大学生の時だ。いつだったか図書館で『必読書150』を読んだことから始まる。この『必読書150』というのは柄谷行人をはじめとした、当時の近畿大学で教鞭を振るっていた教授による、所謂「これだけは絶対に読めよ!」というブックリストである。この当時、僕は絓秀実が気になっていて関連の本を調べてこの本に辿り着いた。
実際読んでみると結構面白い。作品の紹介は勿論のこと、その作品に対する読みのポイントがそれぞれ書かれている。これを読むだけでも大分面白い。各ジャンルに分かれており、海外文学、哲学、日本文学、詩というように紹介されている。個人的には柄谷行人の「はじめに」が大分エッジが効いていて好きだ。ぜひご一読されたし。
ここで紹介されている本について「ああ、結構読んでるな…」と再確認した訳だが、唯一あまり触れていないジャンルが僕にはあった。それが詩だ。「あんまり読んでないジャンルだからチャレンジしてみよう」と思いパラパラ捲った。その時に、作品紹介の文章が具体的にはどんなだったか忘れてしまったが内容的には「こいつを超える現代詩は未だ存在しない」みたいなことが書かれていた。おやおや、凄いこと言うなと思って誰の詩なんだと思い見ると『吉岡実詩集』が掲載されていた。
ちょうど図書館に居た僕は地下の書庫から3階まで階段を上がり、詩集があるコーナーへと向かった。「吉岡実…よしおかみのる…」と頭の中で反芻しながら指先で背表紙を追っていく。するとまあ何ともボロボロで補修されている詩集で指が止まる。「これだ!」とすかさず手に取り席に着いた。
読み進めて最初に思ったこと、それは「マジで意味わからねえ‼‼‼」ということだった。なんだこれ?という感情が僕を支配した。何と表現すればいいのか未だに分からないのだが、言葉が言葉ではないというか…。僕が知っている日本語じゃない!という感覚なのかな。そういったものが一気に押し寄せてきた。
日本に生きていれば誰しも(かどうかは分からないが…)日本語を使ってコミュニケーションを図るし、文章の意味だったりとかそういったことはある程度理解できる。また、文学をそれなりに勉強しているから晦渋な文章も完璧に理解できる訳ではないが、それなりには読める。しかしどうだろう。吉岡実の詩を読んでも分からない。言葉単体の意味は通じるが、それが連なりを見せた瞬間に弾け飛ぶ。ここに僕は面白さ、いや快感を覚えてしまったのだ。それからは吉岡実の詩の虜だ。
僕が所有しているのは4冊だ。『吉岡実全詩集』『サフラン摘み』『「死児」という絵』『吉岡実詩集』。正直『吉岡実全詩集』があれば全ての詩集については網羅できるので、これ1冊でも十分なのだが、僕の蒐集癖が発動した。ちなみに『「死児」という絵』は吉岡実のエッセー集だ。詩とは違い、まだ読み易い方だ。(「まだ」読み易い!)
外で読むときには僕は『吉岡実詩集』を持って行く。『吉岡実全詩集』を持って行くのは骨が折れる。本の重さと厚さが持ち運ぶのには不便だ。ただその不便さのお陰で自宅でゆっくり愉しめることが出来る。これはこれで使い方を分けられるという部分では良いのかもしれない。しかし、好きな詩集が収録されているのは『吉岡実全詩集』の方だ。
吉岡実が生前出した詩集は以下の通りだ。
・『昏睡季節』(1940)
・『液体』(1941)
・『静物』(1949-55)
・『僧侶』(1956-58)
・『紡錘形』(1959-62)
・『静かな家』(1962-66)
・『神秘的な時代の詩』(1967-72)
・『サフラン摘み』(1972-76)
・『夏の宴』(1976-79)
・『ポール・クレーの食卓』(1959-80)
・『薬玉』(1981-83)
・『ムーンドロップ』(1984-88)
※括弧内は制作年であり、出版年数ではない。
僕はこれらの詩集の中であれば、最初の『昏睡季節』、『僧侶』そして『サフラン摘み』が好きである。特に『僧侶』と『サフラン摘み』に関しては読み直す機会が多いように思う。勿論、他の詩集も読むが基本的にはこのあたりを繰り返して読むことが多いような気がする。
最初の『昏睡季節』に関してはあまり難しさというか、「なんじゃあ、こりゃあ!?」と言った感はない。それこそ「何となく分かるかな」というものが多くあり、実は意外と読み易かったりする。上記の詩も他の作品に比べると文章的にも意味は分かるし、それとなく情景も思い浮かびやすいので愉しめる。
これは標題と同じタイトルの作品である。まだこ段階であればさして問題はない…というと変だけれども1つの文章でそれなりに意味も通じるし、ある程度の情景が浮かぶ。また吉岡実の初期の詩集、とりわけ『静物』で顕著になるのだが「卵」というキーワードが頻発する。ここではテマティックな考察をすることは控えるが、そこに何かしらがあると考えてしまうのは果たして僕だけだろうか。
僕はこの詩が好きなんだけれども、最初の1文で「わたしは知らないことは」とある訳で、個人的にはここが面白いなと思う訳だ。例えばここで「わたしが知らないことは」とするとどうなるかを考えてみる。「わたしは知らないことは」という風にすると知らないこと全般、自身のこと自身以外のこと含め知らないことは「他の人には言わぬ」と繋がる。ところが、これを「わたしが知らないことは」というと何だか凄く身勝手な感じがするのだ。
「わたしが知らないこと」という場合、それは自分以外の存在が知っていることであれば言ってもいいみたいなニュアンスがあるような気がするのだ。この詩で僕はたった1文字を変えるだけでどうとでも捉え方が変化してしまうということを学んだ。
僕らは無意識のうちに日本語を使用しているからあまり意識しないかもしれないが、1文字異なるだけで伝えたい内容が嫌な風に相手に捉えられてしまったり、相手に上手く伝わらないということが発生する。会話の中だと流れがあるから見落としてしまいがちだが、こうやって言葉で書かれると不思議と違和感が生じるものである。
詩というのはそういったところを巧みに表現するものなのではないかと僕には思われて仕方がない。当たり前だと思われる言葉の並びを崩壊させることでそこにしか表現できない含みというのだろうか。そういったものを現出させる効果があるのではないだろうか。吉岡実の詩はそういったことを気付かせてくれる。言葉の可能性を感じる。
さて最後に僕が好きな『サフラン摘み』から1つ引用して締めよう。
吉岡実の詩はオススメなのでぜひ。よしなに。