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雑感記録(341)

【逃走の為の闘争】


こんなに たしかに

 ここは宇宙の どのへんなのか
 いまは時間の どのへんなのか

 鉱物たち はてしなく大らかで
 植物たち かぎりなくみずみずしくて
 動物たち いつもまっ正直で
 この数えきれないまぶしい物物物の中の
 ひとにぎりの人間 ぼくたち

 こいびとたち 美しく
 父母たち やさしく
 友だちみんな たのもしく
 たべもの みんな おいしく
 やらずにおれない素晴らしいこと
 山ほど あって
 生かされている!

 自分で 生きているかのように
 こんなに たしかに!

まど・みちお「こんなに たしかに」
『まど・みちお詩集』(岩波文庫 2017年)
P.284,285

ここ最近だが、仕事が忙しく中々書く時間が取れなかった。という言い訳から始めてみると、何だか自分の女々しさみたいなものが滲み出る。無論、僕は女々しい人間な訳だ。大仰な物言いをすると、自分の中にもどこか女性的な部分があると考えると、両性的な人間なのかなと全力で自分自身の存在を肯定して掛かる。これは弱さかはたまた屁理屈か…とそんな話はどうでもいい。そういう自分も愛すべきところだなと自分自身で勝手に思っているだけの話である。自分の機嫌ぐらいは自分で取りたいものである。

彼是、転職してから1年が経とうとしている。有難いことに様々な仕事を任せて貰えるようになって、大きなプロジェクトに参画させてもらえたり、新しい仕事を任せてもらえたりと銀行時代では考えられないようなことばかりが起きている。難易度は当然、今の方がかなりレヴェルが高いし日々、試行錯誤しながら周囲の諸先輩方や上司に支えられながらここまでやって来れている。無論、些細な衝突もある訳だが、それと同時に学ぶことも多い。

だが、僕も人間なのでそういうことから逃走したくなる瞬間がある。全てを投げだして、昼休み、神保町の古本屋を巡りながら「ああ、このままサボっちゃおうかな」と思うことは何度もある。それでもトボトボと会社に戻り、デスクに座り、目の前に在る業務に集中してしまう。やはり仕事というのは危険ではないかと僕には思われて仕方がない。先日の記録でも書いたがそこにあるのは1つの中心点である。

僕は日々、「逃走の為の闘争」をしながら生活している。

何とも本末転倒な話ではある訳だが、逃走する為にあらゆるものと闘争するのである。この場合であれば仕事から逃走する為に、僕は僕自身の中の他者としての僕と闘争しなければならない。言ってしまえば、僕の所有している倫理観とのせめぎ合いである。僕は僕自身と日々闘争しながら生きている実感をここ数日ヒシヒシと感じている。


 実際、蓄積につぐ蓄積ってのは余りにもシンドイ。むろん、そうじゃないとやっていけない時代もあったワケだけど、近代文明もここまでくると、むしろパラノ型の弊害の方が大きくなってきてる。守るべきものを山ほど背負って深刻ぶってるオジサンたちも、そろそろ何もかも放り出して逃走の旅に出たらどうだろう。そのほうがよっぽど気楽で面白い。そして、いまや《面白くっても大丈夫》なんだから、ね。

浅田彰「逃走する文明」『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』
(ちくま文庫 1986年)P.12
 

ふと「逃走」という言葉を見ると僕はいつも浅田彰の『逃走論』が頭の中に浮かぶのだけれども、スキゾとかパラノについて語る気は更々ない。しかし、上記引用した部分は何となくだけれども、上手に逃走できない僕にとっては少しばかしの励ましを以て眼前に現れるのである。「《面白くっても大丈夫》なんだから、ね。」という言葉の優しさに僕は心やられる。

だが、ここまで僕は振り切って逃走する気持ちにはなれない。中々全てを投げ出すことなど出来ない。僕には守りたいものもあるし、どうしても手放したくないことだってある。僕に今できることは、何を手放し、何を守るかということの良い塩梅を見付けることなのではないかと思われて仕方がない。とは言うものの、これも過去の記録に書いた訳だが、変化し続けるということは、何かを手放し、より自分自身が守って行くべきことが鮮明になるのだと思うようになった。

先にも書いたが、逃走することは自分自身との闘争でもある。言葉を変えるならば、「変化することは自分自身の変化したくないという気持ちとの闘い」でもあるのかもしれない。これもまた過去の記録で延々とくだらぬ形で書いている訳だが、中々人間というものはそう簡単に変わろうと思っても買われるものではない。心のどこかに変わりたくない自分が潜んでいるはずだ。それは純粋に変わることが怖いという恐怖心から来るものではないか。

これも先日の記録を少し継承する形で書く訳だが、1つの中心点みたいなものが自分の思考軸として存在する。あらゆるものを見聞きしても結局はその自身の思考の中枢という中心点に回収される。そこに当てはめられてしまいがちである。だが、その中枢周辺には他の可能性が開かれている訳である。あらゆる諸力、ここでは外部からの諸力と言えば良いのか。これらの諸力が自身の中枢に行くその道中には様々な可能性の種みたいなものが落ちているはずだ。

それを1つ1つ取り上げていく為にはやはりその都度、変化していく姿勢、逃走して行く姿勢が大切なのではないかと思われて仕方がない。ところで、僕はここまで「中心点」とか「思考軸」という言葉で書いている訳だが、この考え方が最近では間違えているのではないかと考えるようになった。線的な思考ではなく、広大な自分の諸力の流れで構成された海の中に新たな潮流としての外部からの諸力が交わり、それが平面的且つ立体的に広がるものである筈だ。その時々で潮の流れが変わって行く。思考は海である。

逃走することはあらゆる可能性を拾い上げることだ。しかし、先程から何度も書いているように、逃走することは自分自身の変わりたくないものとの闘争である。何かを手放すことは怖い。今まで手にしてきた物を手放すのは勇気がいる。だが、浅田彰も言うように「《面白くっても大丈夫》なんだから、ね。」ということである。変化を愉しめるぐらいに何かを手放せるようになりたいと思う今日この頃である。


歩く

 歩いている
 自分の二本の脚で歩いている
 いつか歩けなくなるとしても
 いまは歩ける幸せ

 歩いている
 曇りの下を歩いている
 用事はあるがそれはどうでもいい
 どこからどこへそれは分かっている

 この路地は大通りへ通じていて
 大通りは盛り場に通じていて
 盛り場は海へそして他の陸へと続く
 そのどれもただ通り過ぎるだけ

 歩いている
 このささやかな喜び
 たとえ心に何を隠しているとしても
 脚はこの星を踏みしめている

谷川俊太郎「歩く」『自選谷川俊太郎詩集』
(岩波文庫 2013年)P.324,325

台風とは思えない天気だ。窓から陽が差し込んでいる。僕は毎週土曜日は朝から缶チューハイのロング缶を片手に、大好きな雑司ヶ谷周辺を散歩するのだが、今日は出来そうもない。こうして朝からのんびり書いている訳だが、この天気なら出掛けられたなと思いつつも、面倒くささが勝っている。

それでふと、逃走することの1つの契機として、「面倒くさい」と言うのは大きなポイントだなと勝手に、自分の弱さを都合の良いように改変しようとしている自分が居る訳だ。そういえば、横尾忠則が何かの画集で「面倒くさいという合言葉」みたいなことを書いていた。何かをリセットする為に有用な言葉であるということを書いていた気がする。これについては過去の記録で書いたのでそれを読んで貰えばいいとして。

こういうマインドの方が上手に逃走できる、変化できるのかなとも思ってみたりする。とは言うものの、僕はそんな自分と闘争してしまう。だが、そういう闘争があるからこそ成長できるのではないのかなとも思う自分がどこかに居る訳だ。日々僕は逃走するために闘争し続けるだろう。

よしなに。



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