雑感記録(94)
【凝縮された食事】
僕は昨日noteにこんなつぶやきを載せた。
唐突だが、僕はこの映画が人生で1番好きな映画かもしれない。…言い過ぎかな。でも、今のところの人生の中ではこの映画はベスト1に来るくらいには好きである。
先日Amazon Primeで再配信となっていたのをたまたま目にし、こうして記録を残している訳だが、この最中にも前方のテレビにはこの映画が流れている。しかし、何度見てもいい映画だと改めて思う訳だ。何回見ても面白い。(先に断っておくが、この「面白い」とは笑うやらおかしいという意味での「面白い」では決してない。あらゆることに気付かせてくれるという意味での「面白い」ということである。)
映画のタイトルは『A Ghost Story』(2017)である。
話を脱線させるが、僕はA24の映画が好きだ。『A Ghost Story』は勿論のこと、『ムーンライト』や『mid90's』『WAVES』あたりは非常に好きな作品だ。
内容もさることながら、その映像の美しさだったり情緒に時折やられてしまうことがある。『WAVES』なんかは特に映像の煌びやかさと音によってどこか別の世界感へ行っているのだが、内容はかなりヘビーなものな訳で。しかし、只の「おおすげえ」で終わらずに見た者に対して何かを残してくれるという点に於いてはやはりどこか一線を画しているように思えて仕方がない。生半可な気持ちで見ようとしたらやられて終わる映画だろうと素人ながらに思っている。
さて、話を戻すことにしよう。
僕が昨日載せたnoteのつぶやきな訳だが、僕はあの場面が心にこびりついて離れない。実際に映画を見てもらうとその良さが非常に分かるので、まずは「見てくれ!」というのが本当なのだろう。ぜひ見て欲しい。
もう1度例の場面を。
簡単に場面の説明だけしておこう。今映し出されている女性の恋人である男性が不慮の事故で亡くなってしばらくして、大家さんが彼女の様子が心配だったのでパイを彼女の家に持って来た。彼女が不在だったため大家はパイと書置きを残して帰る。しばらくして彼女が帰ってきてテーブルに置いてあるパイに気づく。そしてそれを黙々と食べている。その1場面である。
ちなみにほんの些細なネタバレにはなるが、この画像右側に映る白い布を被ったものが亡くなった恋人な訳で、死んでもなお彼女と過ごした家に留まり続ける訳なのだが…。ま、ここから先は本編をどうぞということで…。
僕はこの場面が1番好きだ。言葉とか人工的な音とかそういったものが不要であって、彼女の行為それ自体が1つの記号であることをまざまざと見せつけられる。何というか、行為が言葉を超越するというか…。上手い表現が見当たらないのだが、よく「目は口ほどにものを言う」っていう言葉があるけど、正しくそれで「行為は口ほどにものを言う」場面であるように思えて仕方がない。
それこそ僕の過去の記録で何回も登場している保坂和志の言葉を借りるのであれば、何でもかんでも言葉で出来てしまうということはその人にとって世の中であったり自分の感情であったりというのは所詮浅い部分の所での次元でしかないのではないかと思う。何でもかんでも言葉で表現できるならば人は苦労しないで悠々自適に生活できているはずだ。
この1シーンはそういった意味で正しく、言葉では言い表せないものを行為で表現している。そういったところでの気づきがある。しかし、逆を返せば彼女のありとあらゆる行為が全て何かしらの意味を持ってしまい、いや、正確には僕が付与してしまい、僕は現にこうして言葉で説明しようとしている。何と浅ましい行為か!
僕がこれから書くことでよりこの場面が陳腐なものになってしまう恐れがある訳だが、それでもこの場面の素晴らしさを書き記しておきたいという欲望が勝ってしまったのだ。もしかしたら僕は弱者なのかもしれない…。
ある種、紋切型の表現をこの場面は寄せ付けない。例えば小説でも良いしドラマでもそれこそ映画でもいい訳だが、悲しさを表現するとき小説なら「涙を流した」とか風景描写を使ってそれとなく表現すれば分かってしまう。ドラマも映画なんかも、これは言葉はいらないけれど実際に涙を流している場面であったり、鼻をすする音、あとはBGMで悲しげな音楽を流せば見ている側としては「ああ、悲しいんだな」と了解することが出来る。
しかし、この場面に於いてはただひたすらしゃがんでパイにがっつく彼女がおよそ3,4分、いやもっと長いのか…ずっと食べているシーンが流される。しかも表情が見えにくく、BGMも何にもない。フォークでお皿をカチャカチャする音しか聞こえない。ただ、それでも僕はこの場面に「悲しさ」を感じることが出来た。一体何故だろう。
この『A Ghost Story』を一通り見てみるとよく分かるのだが、基本的に無駄な音楽が存在しない。必要な場面に適度に流れる。要は、見ている側にあからさまに「ここはこういう感情だぞ」という指示を与えない。つまり受け手側にそれをどう読み解くか委ねられている機会が非常に多い。加えて、1カットが長いというか、ただ同じ場面が何分も続くということがしばしばある。
そうすると受け取る側としては、そこに映された行為に眼が行く。そこへ全神経を集中することが出来る。そしてその長い場面の中で僕らは意味を探し始める。そうして行為そのものが意味としてそこに屹立しはじめる。この場面も正しくそういったことなのだと思う。
つまり、必要最低限な音の中で彼女の単純な「食事」という行為が僕らを誘惑し、そこに意味を付与させようとする訳だ。僕もそれにまんまと引っ掛かった。そもそも「食事」という行為が「悲しさ」に直結するとは限らない訳だ。愉しい食事もあるし、嬉しい食事もある。要はこの場面の「食事」という行為が「悲しさ」を誘発させていることは間違いない事実であるのだが、それじゃあもっと突っ込んで、この「食事」という行為のどこに「悲しさ」を誘発させる装置が存在していたのか。
無論、僕はここで「最初から映画を見ていて、話の内容が分かるから「悲しさ」だと認識出来るんだ」ということを言いたい訳では決してない。この場面を単体で見たとしても通じる「悲しさ」がある訳だ。これを説明したら余計陳腐になりそうな気がして怖い…。ここで辞めておくべきか…。
そういえば、僕は先日の記録で登場させた不可思議wonderboyの『生きる』がこれを正しく言い得ていると今日ふと感じた。再度引用しよう。
「食事」というのは人間が生きていくうえで必要不可欠である。それがどれだけ苦しかろうが、疲れていようが、ありとあらゆる感情が存在していようが人間腹が減っては何にも出来ない。つまり、彼女はパイを食べる、必要以上に食べるということで必死に生きようとしているのだ。彼女の生がそこにはある。
お腹がいっぱいになったら、人は食べることを辞める。しかし、それでも彼女は止めない。過剰なまでの生に対する執着とも思える何かがそこにはある。食事を過剰にすることは、過剰なまでの生に対する執着の表れなのかもしれないなとも思ってみたりした。そしてそれは同時に「生きるということに対して問うということ」なのかもしれない。
お腹がいっぱいだと分かっていながらも彼女は食べ続ける。彼女は現実に「問い続ける」。彼女は食べることで生を感じ、「問い続け」ていたのかもしれない。結局この後の場面で食べたものを吐き出してしまう訳だが、そこで彼女はいつか終りが来ることを認識する。
僕はこの場面には「生」と「死」の一連が映し出されていると思えて仕方がない。ただ黙々と喰らうその様子は例え前段階で愛する人が亡くなっていたことを知らなくても、必死に生きようとする姿勢が見える。いつか食べられなくなる、限界が来ることを知っていながらも掻き込む。そうして吐き出し彼女は「愛するということ」「いのちということ」を知る。
恐らくだけれども、この「食事」とりわけ過剰なまでの「食事」をし吐き出してしまうとういう一連の場面にはどこか儚さを感じるからこそ「悲しさ」を感じるのではないかとも思う。
そして一切の無駄な音がないことにより、その儚さがまざまざと見せつけられる。それこそ現実がそこに映し出される。「言葉だけじゃ足りない ありもしない風景」が余計なものなく描かれているからこそ我々は「生きることに対して 問うということ」が出来るのかもしれない。だからこそ「悲しさ」を感じることが出来るのかもしれない。
そういえば、バルトがこんなことを書いていた。
「食事」という行為、そしてその「食事」を際立たせるため一切の余計なものを排除した場面によって生きるという活動そして終局死ぬという現実の一連をまざまざと見せつけられるのである。そこにこそ僕は「悲しさ」を覚えた訳だ。
はてさて、非常に乱雑に書いてしまった訳だが、ある意味で安心している。というのも、先に何度も記している通り、僕がこうして言葉に起こしてしまうことであの場面が余計に陳腐になってしまうのではないかと。
ところが、不思議なことに思っていることや感じたことをいざ言葉に書き出してみたら、何とも言葉で表現しがたい感情があることに気づく。だからこそ安心した。語り足りないことは沢山あるがそれで十分だ。だって、言葉で表現できない何かがあることに気づけただけでも大きな収穫だからだ。
ぜひオススメなので『A Ghost Story』お時間あれば1度見て頂くのがいいだろう。語りつくせない感情を味わってほしい。
よしなに。
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