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雑感記録(398)
【細胞の核は狙わない】
僕は部屋にテレビが無い。あるのはパソコンのモニターだけで、毎日NetflixかAmazon Primeでアニメかドラマか映画かドキュメンタリーを垂れ流しにしている。テレビ番組から遠ざかって1年ぐらいが経過する。今、世間で何が起きているかを知るのは職場での会話でしかない。フジテレビの騒動を知ったのも教えてもらったからである。
教えてもらった時、「10時間もぶっ続けで会見をしていた」ということがにわかには信じられず「またまた~」とふざけ、おどけて見せたが、事実らしい。僕はすぐさまEdgeやChromeで「フジテレビ 会見」と入力し調べる。どこもかしこも「10時間会見」で持ち切り。動画のリンクがページトップにある。しかし10時間も見ている余裕などない。ネット記事で簡単に10時間を掻い摘んだものを読む。
テレビを早々に諦めた僕にとっては、「ほーん」というぐらいに興味関心が無かった。フジテレビなんて況してや「めちゃイケ」が終わってからは殆ど見る意味を持たなかった(と書いて、皮肉にも渦中の中心人物がプロデューサーをしていた番組ではある訳だが…)。でも、僕にはそのぐらいの感覚である。『サザエさん』も『ちびまる子ちゃん』も僕にとってはあまり興味をそそられる対象では無かった。
こういう問題について、色々とネット記事やそれこそこのnoteを含めたSNSでは情報が錯綜している。僕が殊更「これはね!」なんて取り上げた所で、些細な問題でしかなく、全く以て関係のない第3者である。本当なら僕は黙っていればいいのだけれども、こういう会見の度にいつも思うことがある。そんなことを今日は書いてみたいと思う。
だが、あらかじめ断っておきたいのだが、僕はあくまで第3者である。別に某元アイドルの淫行で9,000万円支払ったとか、フジテレビの体制が云々ということについてああでもない、こうでもないという資格はない。これから綴られることはただの戯言にしか過ぎないのである。
僕は常々こういう会見だったり、メディアのインタビューというものが本当に嫌いである。これは事件そのものに対する嫌悪感からというものも多少はあるだろうが、それ以上に体制的な部分、やり方的な部分がどうも嫌いである。最近はメディア側、報道する側の問題も然り、記者のリテラシーが問われる時代だなとも思う。
ところで、蓮實重彦の三島由紀夫賞受賞会見を見たことがある人はどれぐらいいらっしゃるだろうか。僕は蓮實重彦を称揚するつもりは一切ないし、なんならあまり好きではないが、あの時だけは「よくぞ言ってくれた!」と内心では思ったものである。言い方や言及される対象がどうであれ、ああいうスタンスは取材される側も持っておくというのは必要かもしれない。
会見、特に平和的な会見の時にこういう問題は発生する。例えば、これも過去に記録を残しているので、再三に渡って恐縮だが、芥川賞や直木賞の会見がそれだ。どうでも良い話が延々と続き、その中心である「作品」に辿り着くまで偉く時間が掛かる。かと思えば、表層的な部分での話しか触れ得ない何とも歯痒く見ていられない会見である。
正しくこの三島由紀夫賞の会見もそうで、記者は悉くどうでも良いことを聞く。作品の内容について聞くが、僕から言わせれば「読めばわかる」のである。実際に見ると分かるが「ばふり」という作中の表現を扱った記者だけには誠実に答えている。有体に言えば「いかに作品を読み込んできたか」という大々大前提が欠けている。会見というのは、中心のものの話を聞きに来ようとしているのに、記者などが敢えてか敢えてじゃないかは知らぬ存ぜぬだが、わざと中心から話をずらしているようにしか思えない。
もう少し具体的に書こう。例えば、記者会見(ここでは芥川賞受賞の記者会見を想定)にてよく散見される質問。「受賞したことを誰に最初に伝えたいですか?」という定型。酷い質問なんかだと、僕が記憶しているもので「今日の朝ご飯は何を食べましたか?」という愚の骨頂のような質問をする記者が居た。結局これらは、今この記者会見場で果たして優先されて聞くべきことなのだろうか。この会見で中心に置かれるべきは「本」の話であり、朝飯の話ではない。
もっと他の例を挙げよう。例えば、誰かが犯罪を犯したとするでしょう。犯罪を犯してメディアがまず取材する先は「被害者遺族」である。あるいは「加害者家族」である。そして「申し訳ありませんでした」と語るのは全く関係のない、ただ血が繋がったというだけの家族が謝罪。そして「今どんな気持ちですか」と聞かれ泣きながら対応する遺族。僕はああいうのを見ていると「怒って怒鳴りつけても良いのにな」と思う。確かに逮捕されて会見とか取材が出来ないのは分かる。だけれども、何故全く以て関係のない加害者家族、況してや被害者がああまで追いかけ回される必要があるのか。
極めつけは、本人に聞けないから周辺の情報で固めて「こういうことがあったっぽい」というある種の不確かな情報で作り上げられる人物像。そういうのを見ると、何だか寒気がする。無論だからと言って僕が犯罪者を憎まないということではない。ただ、事件の核心からわざと逸らされるようなテレビの映像の流れ方に対して僕は腹立たしさを覚える。何度も言うようだが、だからと言って犯罪が許される訳では決してない。
今回のフジテレビの記者会見も、全部が全部を見ていない訳で、YouTubeでも短く編集されている会見動画を見たに過ぎない。だがそこからでも分かるように、「え?」というものが多い。怒号が飛び交う会見場。我こそが正義と言わんばかりに叫ぶ。会見とは果たしてそうあるべきものなのだろうかとも思う。そして僕はふと思った。「諸悪の根源はそこじゃないだろ」と。
この「中心点」という問題については、ニーチェを引き合いに出して僕は頻繁に書いている。そこでは、「中心点を措定しないこと」ということ、所謂「諸力の散乱」(クロソウスキ)というのが大切であると考えている。そしてバルトを引き合いに出して「平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描き出す」ことが大切であるとも考えている。
しかしながら、こういった会見というのは逆で「中心点を明らかにする」ことこそが求められる。例えば誰かと会話する時、仲良しな友人と話をする時とは全く以て別物である。この場合、アプリオリに中心点が存在しているのだ。「これに対して聞く」「これに対して深堀する」というのが決められた前提で話は進んで行くのである。行き当たりばったりで物事を進めて良い訳ではなく、その本筋の中で話を逸らす必要がある。
例えば、芥川賞の会見などで言えば、それこそ作品の表現についてピックアップしてみるとか。あるいは、「あそこの主人公、あの場面で朝飯食べてましたけど、何でパンを食べさせるんですか?」みたいな感じで聞いてみるとか。あるいは「作中の表現で○○という表現が多数出てきますが、この表現にしたことでどういった効果があるのか?」みたいな感じとか。あくまで「本」という中心点は背後にありつつも、その中でスライドさせていく。これこそが「会見」でのあるべき姿だと思っている。
しかし、再三に渡って書くが、どうも会見と呼ばれるものはその中心点がそこに確実にあるのに、中心点そのものをずらそうと必死である。そして何よりもその中心点が不在なのに話をしようとするからより厄介である。あくまで話をするのは外延の人々ばかりである。だから会見をしても「○○と聞いています」とか「○○という認識です」という曖昧な言葉しか出てこない。だから聞いていてイライラする。
特に謝罪会見に於けるこの構造というのは顕著である。正しくフジテレビの会見が良い例である。元々を辿れば、某元アイドルの性接待と某プロデューサーの積極的関与が問題である。彼らの不祥事がリークされたことにより、フジテレビの体制が見直されるという事態になったという訳である。であるならば、当の本人たちを呼んで記者会見すべきであるはずだと僕は思った。というか、この会見に限らずだが。
とはいえ、ここで僕の中で対比的に思い浮かぶのが、お笑い芸人とアイドルとの謝罪会見の違いである。本人の口から話すか、メンバーあるいはそれに準ずる別関係者から話すか。僕は芸人の記者会見というのは見ていて、質がどうであれ「本人が自分の口で話す、あるいは話せなくても話そうとする意志を持っていると表明している」ということ自体に感服するのである。狩野英孝の記者会見は面白かったなあ…。
だが、アイドルの記者会見を見ていると、本人は不在のままメンバーだけが話を始める。TOKIOの会見はまあ、中々なものだった。僕は途中で見るのを辞めた。腹立たしくなったからだった。「何で悪くもない人たちが集まって関係ないことについて反省の弁を述べているの?」と。中心点を不在のままに進める記者会見程、見苦しいものはない。あるいは、それが策略なのかもしれないとも思ってみたりする。
フジテレビの記者会見も同様で、某元アイドルと某プロデューサーが不在な為、何を聞いても何を見ても「ああ、そうですか」と他人事でしかいられない。フジテレビ側はあくまで「体制の不適切さ」が指摘にあがる訳で、実際の実行犯は前述した2人(あるいはそれ以上に居るのか?知らんけど)である。全く以て関係の無い第3者から言わせると、そう感じる。
加えて、彼らは軽々しく「辞めます」という。僕はここも会見の嫌いな1つである。会見で放たれるこの「辞めます」という言葉にはどこか「はいはい。辞めれば良いんでしょ。辞めれば。」というニュアンスが孕んでいると僕は感じてしまう。「責任を取って辞めます」というけれども、誰もその責任がどういう形の責任なのかを触れようとしない。そこも中心点がずらされて行く。「責任」という中心点から「辞めます」という部分にいつの間にかスライドされて変な方向に進んで行く。
アイドルを辞めたのだから、最後に一仕事して一般人になれよという気持ちが僕の中では強い。たった紙っぺら1枚で「辞めます」と言い放ち、早々に一般人に戻れるなど許されて良いのだろうか。それこそ「責任」を果たせ。と僕は思うのだけれども、どうだろう。結局一般人に戻るなら、筋を通さないのは如何なものかな…と僕はひっそり勝手に思っている。何を今更守るべきものがあって黙秘しているのか僕にはよく分からない。
そして、やはり記者のリテラシーの問題だ。
どんどんと中心点をズラシテいく役割を担う。彼らは真実を求めていると勘違いしているのかもしれないが、会見を客観的に見てみると「わざとだろ」と思えるぐらいにどんどんズラされて行くのである。それなのに怒号をあげて何がしたいのだろうか。中々なエンターテイナーだが、度を超すと見ているこちらも気分が悪くなる。ある程度のマナーは弁えて欲しいものである。
さて、もうそろそろこの記録を締めようと思うが、僕は会見で学んだことが色々とある。1つは謙虚であることの大切さ。2つ目はいつまでも学び続けることの重要さ。そして3つ目。品性を磨き続けること。ということである。
謙虚でありたい。ただそれだけである。
よしなに。