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雑感記録(299)

【そこまで言わないとダメェ?】


昨日は大雨とは打って変わって今日は憎らしい程の快晴である。何の恨みがあってかは知らないが、サンサンと照りつく太陽は日々の僕のこの悪行を見透かしているのか。毎日毎日こんな詰まらぬ文章を書く奴にはお仕置きだべぇと言わんばかりの刺激の強い暑さ。暑さと書くことには何の関わり合いもない訳だが、こうして言葉はこじつけることが出来るのだから怖い。

今日も朝、いの1番に職場に着く。

職場に最初に居るのが偉いとか偉くないとかそんな慣習的な話は実際どうでも良くて、ただ僕は朝飯を食べる為に早く会社に来ているだけに過ぎない。皆から「いつも早いね」と言われるけれども、「朝飯ここで食べるんで」としか回答のしようがない。僕の朝飯は決まっておにぎり4つとパンとトマトジュースとバナナスムージーである。朝から大食漢である。

先日の記録でルーチンというのは楽でいいと書いた訳だが、確かに楽でいい。この楽さに慣れていいものかどうかは別として、決断から逃げるという意味では楽である。だから僕の毎朝、といっても出社する平日については決まった朝飯である。僕はムシャムシャとパソコンと睨めっこしながら食べている。就業時間まで1時間もある。

ネットサーフィンしながら、ふと「そういえば、じんぶん堂の柄谷行人のインタビューが更新されたんだよな」と思い出される。そう。昨日、トイレで踏ん張っている時にたまたまChromeの方にオススメ…じゃないけど、下の方に記事が出てくるじゃない。あそこにたまたま出てきたのね。と今僕は「たまたま」と書いた訳だが、こんなのは作為的な偶然に過ぎないということである。それは僕がこのじんぶん堂をChromeでお気に入り指定しているのだから、新しい記事が出たらお知らせしてくれるのはその機能としての本分かもしれない。

そのまま踏ん張りながら見ようかと思ったが、落ち着いた状態で読みたいので辞めた。トイレで籠りながらスマホをいじるのは凄いなと思う訳だ。あれどう頑張っても腰、痛くならない?僕はトイレに籠る時はスマホか本のどちらかを携えるのだけれども、でも汚い話で恐縮だけれども、終わるまでの時間ってそこまで長くないじゃない。長いとそれはそれで腸に何かしらの異常があることを疑った方が良いだろう。だからトイレで見るスマホや本というのは一瞬である。

僕はこの記事を、おにぎり片手に読んだ。単純に柄谷行人の思想性もそれはそれで凄い。その思想の内実が凄いかどうかは置いておくとしても、何かを横断的に語ることが出来る、あるいは横断的に語ろうとする姿勢そのものに僕は憧れを持つ。そして今の人たち、大澤真幸や佐々木敦、東浩紀はもっと凄いのだなと改めて気付かされる。彼らの場合は、日本思想や日本経済のみならずサブカルチャー、音楽や映画などいったものを横断的に、シミュラークル的に語る。肩入れしすぎるのは良くないが、やはりこの姿勢自体は凄いものがある。

「僕も物事を横断的に広い視野で、あらゆる角度で見ることが出来たらな…」と右手でマウスのホイールを下に下にと動かした。左手に持っているおにぎりから米粒が何粒か零れる。


米粒を茶碗に何粒か付けて残す人を見ると少し悶々とする。

僕の父親がそうなのだが、彼は米粒を数粒か茶碗に付けたまま「ごちそうさまでした」とその流れでシンクに持っていく人だった。「だった」ではなくて今でもそうだ。別に僕はそれを「直せ」とも思わないけれども、僕は1人心の中で迷惑が掛からないように葛藤しているだけの話である。ただ、よくよく考えてみれば数粒米を茶碗にこびりつけていることがどうして僕の中でモヤモヤするのかを検証せねばなるまい。

だが、こんなもの簡単な話で「綺麗ではない」からだ。

いや、待て待て。あまりにも短絡的すぎやしないか。じゃ何で米粒が残っていると綺麗じゃないんだという話になる。米粒が残っていなくても汚い事はあるし、米粒が残っていても綺麗なことはあるだろう。と正しく僕はここまで「綺麗/汚い」の二項対立でしか物事を語っていない訳である。例えばここにマリーアントワネット的な僕が登場して、「ふふふ、米粒が気になるならパンを食べればいいのよ。パンを!」と言ってみる。そして包括的な僕がやってきて「結局さ、綺麗とか汚いとか言ってるけどさ。飯じゃん」と乱暴に纏め上げる。そして「いや、そんな単純な話じゃない!ご飯の起源は…」とか「社会的の流れで見るとね、朝ご飯に米が採用され始めたのは…」とかあらゆる物事が発生する。

ポイントは、今、僕はこれを自分自身の中で全て措定したことにある。

つまり、自分自身の中でも二項対立な物を無効にすることは出来る。それを「あそび」によって突飛な方向へ行かせ、様々な方面へ向かわせる。そして極めつけはこうだ。「結局色々と考えてみたけど、よく分からんわ」と。これが肝心であり、「あそび」の本質である。と過去の僕の記録を補強しようとしている。分からないことを「分かりません」として受け入れてからが初めて始まる。

僕は昨日の記録でも少し触れたけど、体質的にMなので、「分からない」ことに苛々しつつもそれが愉しい。だって自由に考えて良いんだもん。嫌いだけど好きという何ともツンデレが過ぎる訳だが、僕は案外、宙吊り状態が好きである。だから考えることが愉しい。遠回りすることが愉しい。しかし…それをいくら書いても話しても分かってもらえない…。と書いてみたが、何だか押し付けしているみたいでクソだ。自己憐憫も甚だしいわッ‼‼‼

それで、米の話だっけ?……何の話だっけ。


一通り柄谷行人の記事を読み終え、「いやあ、面白かったな」と余韻に浸りながらトマトジュースを飲む。僕はトマトジュースが好きなんだが、しかしよくよく考えてみれば直接食べた方が栄養を摂取しやすいのではないかと飲みながらいつも思う。おにぎり片手にトマト1丸。でも、よくよく考えたら僕はあんまりトマトが得意ではない。……よくよく考えすぎじゃん。ワロタ。

今「む?」と思った人多いでしょう。

そう。僕はトマトジュースは好きだ。だけれども、トマトそのものはあまり得意ではない。この「得意ではない」という書き方が絶妙なライン的な言葉で僕は好みを語る際には、「得意」で語ることにしている。僕が示したいニュアンスはこんな感じだ。「食べられないことは無いけれども、自分から積極的に進んで食べることはしない」という時には「得意ではない」と表現する。そうした表現を僕はしている。つまり、「好き/嫌い」の二項対立で語れ得ぬものに関して「得意/得意でない」という考え方を使う。

例えば直接的に「いや、僕ね、その作品は好きでも嫌いでもなくて…」と言うと「む?」という顔をされてしまうことが多い。これを「いや、僕ね、その作品は得意でなくて…」と表現しておくと二項対立の濃度を低くすることが可能である。勿論ここでは「○○である/○○でない」という二項対立が出来上がっている訳だが、直接的な言葉ではなく曖昧な言葉に置き換えることでその濃度を下げる。

だが、こんなに面倒くさく考えてしまっている訳だが、僕からするとこんな考えずとも感覚的に存在するものである。というか、皆そうじゃないの?って思う。こういう微妙な感覚。二項対立で定立できない感情を沢山抱えているからこそ人間で居られるのだ。と当たり前のこと僕は延々と書き連ねることにする。これまでの表現もある種、紋切型であるんだよなと思うと些か恥ずかしさを覚える訳だが、そもそもこれら表現を「紋切型である」と把握できない人間も居るのだから…。

そう頭の中でぼやきながら、メールボックスを開く。


メールって便利だなってつくづく思う。

実は僕は電話をすることが苦手だ。特に仕事の場では。言葉がどうも瞬時にパッと出てこない。事前に言いたいことを練るのだけれども、やはり人と人の対話で、しかも「どちらかが何かを教える」という一方的な行為になりがちである。僕はそれが得意ではなくて、話をする際に結構砕けた会話になりがちである。だけれども、それが相手には気に喰わなくて怒られる。そういうことが実際にある。

メールというのは文章をじっくり考えられる。

自分の言いたいこと、会社側の立場として伝えたいことを時間を掛けて推敲して伝えることが出来る。文章を書くことが好きな身からすると、わりとこれが有難い。加えて、ある程度時間的なゆとりを持って対応できるのが楽でいい。だが、メールとはいえ昨日の記録でも書いた訳だが、「短く、簡潔に、丁寧に」である。これが厄介だ。僕はここからどう逃れるか、どう「あそぶ」かを考えながら毎日メール文面を作っている。

例えば、大体同じ内容の問合せが結構来るわけで、そうするとメール文面も同じようなものを使いまわす。実際僕も面倒くさい時に使いまわす訳だが、僕はその中の「1文字を変える」という「あそび」を実は密かにやっている。これが中々面白い。細かいところの表現を種々雑多に変えることは何だかいたずらしているみたいで面白い。

言葉ってのはたった1文字変えるだけでも印象が変わる。

これも当たり前のことだし、何度も例示するのは恐縮だが「私は」と「私が」の距離感が分からない人間になったらいよいよマズイ。同じ格助詞だろうと言っているうちは多分だけれども分かるまい。こういう些細なレヴェルに於いても印象が大きく変わるということを忘れてはいけない。たった1文字、されど1文字。逆を返せばたった1文字だけで伝えたいことが上手く伝わらないことだってある。気を付けたいところである。

それで今日はどんな問い合わせが来ているかなと見ていく。すると1件の問い合わせが来ており、「よし、文章を考えるか」とパンを加えながら文章を読み込む。

僕はイライラした。


ドラえもんの映画で『ドラえもん雲の王国』という作品がある。この映画でドラえもんは途中壊れてしまい、訳のわからぬことばかりをのび太に連発する。その中でのび太がドラえもんに対して苛立ちを覚えて怒鳴る。するとドラえもんは「短気は損気で~す」と言いながらクルクル回る。

僕は結構短気な性格なので、小さなことでもすぐイライラしてしまう。これは父親に似たところが大きい。ただ、何も所構わずイライラする訳では決してない。他人に迷惑かけるだろうとか、自分よがりな行動などに対してイライラしがちである。ひっくるめて言うのならば、想像力のない人間にはとかくイライラしがちなのである。最近はそういう想像力のなさが小さなこういう些細なレヴェルに於いても散見され、本当に腹立たしいことこの上ない。

想像力が無いのは何故なのだろう。

僕は思うにだけれども、やはり結果を急ぎ過ぎ、そしてそれが重宝される時代になってしまったことが挙げられるのではないかと思う。僕は過去の記録で何度も書いているが、その結果に至るプロセスを蔑ろにした結果としての産物ではないか。「結果良ければ全て良し」という言葉が僕は常々嫌いでね。これはあらゆる可能性を試したうえで言うのならば別に僕も良いんじゃないとなる。だが、そのプロセスに出て来る可能性を考慮せずに結果を求めてしまうというのは面白味に欠ける。

その道程、言ってしまえば遠回りだよね。これを嫌う傾向にある。僕はそれが肝心だと考えているのね。それでこういう書き方をすると、多分こういう人が出て来るはずなんだ。「いやいや。それは綺麗ごとだよ。時間が限られている中でそんなことしている時間はない。」と。そういう人たちが増殖してしまったせいで余白が無くなり、そして昨日の記録で書いた通り「自分が何物であるか」という宙吊りに耐えられなくなっている気がしている。

大概、こういうことを言っている人はすぐに取り掛からない。時間を問題にしている人は結局後回しにするから、遠回りをする時間が捻出できないんだよな。初動が大事って言うのは、それが仕事を早く終わらせる為にという意味ではなく、僕等が如何に遠回りする為に大事なのである。様々なプロセスを試す為に必要な時間である。そこを忘れている気がしてならない。自分で言うのも恥ずかしい話だが、僕の取り掛かりは滅茶苦茶に早いらしい。期日まで大分あるならば、どんどん遠回りするべきだ。

そういう遠回りが出来ない世の中だからこそ、想像力そのものが奪われている。その為の遠回りの読書という最良の方法があるのにも関わらず、やれ自己啓発本だの、やれ100分で名著だの、やれSNSで散見される本の要約だの、ファスト映画だの…。クソみたいな文化が隆盛する。これを労働環境や忙しさを原因と措定する前に考えるべき問題は山積みである。

如何にして遠回りできるかが重要だ。


はてさて、それで問い合わせのメールを見て僕は落胆した。

内容は具体的に書くことは出来ないが、前日に元々問い合わせが来ていた。それについて前日のうちに解決方法について案内を何百文字を費やし丁寧に、そして長い文章で書いた。「こういう場合にはこうしてください」「それでも出来ないようならばこれを試してください」「それでも出来ないようならこちらに〇〇を教えてください」「それを以て対応します」と書いて送った。第3者視点から見ても、どう考えても出来る文章構造で案内した訳だ。

それで、返信が来ていたので「そうか、色々と試してみた結果出来なかったのだな」というのは理解したが、しかしその返信の文面がどうも腹立たしい。返信が来ているということは「〇〇」について僕に教えてくれる為に返信したんだなという認識だったのだが、返信の内容を見て驚愕する。

「メールの文面には〇〇を教えてくださいとありましたが、どこにこれらを解答すれば良いのですか?一応このメールに書いておきます。」

という前置きの元、「〇〇」について書かれていた。僕は腹立たしくて仕方がなかったが、そもそもこの人、読解力ないなというのと想像力があまりにも皆無な人なんだなというのを悟った。こういう人を相手にするのはメールでも些かしんどいものがある。どう考えても僕が送ったメールに返信するだろうことは容易に想像が付く。それなのに「どこに解答すればいいか分からない」ときたものだ。こいつはメールを知らんのか。

と考えたが、いやいや落ち着け自分…。

僕は反省する。僕もこう決めつけてしまった訳でしょう。これも僕は想像力が欠如している。この人物はもしかしたら別途回答フォームなるものが存在すると思っていたのだろう。しかし、だとするならば僕は最初からそのフォームを案内している、確実に。もしかしたら、この人物は電話でその情報を教えなければならないと思ったのか。しかし、だとするならば「弊社から連絡します」という文言をメールに入れる、確実に。……様々な方向から考えてみても、うーむ…となってしまう。

実は今まで同様の問い合わせは何十件、何百件と対応している。しかし、この手の質問は斜め上過ぎて驚いた。それに「一応このメールに書いておきます」っていうのは僕を馬鹿にしている文章そのものではないか。なんだ、「一応」って。前後の文脈からすれば「仕方なく」というニュアンスを含むことを想像しておられないようだった。

何より、これを送って来たのが僕よりも若い人物だったということが哀しさを倍増させる。時代性や年齢で語ることは僕は物凄く嫌い(これに関しては「得意/得意ではない」ではなく完璧に嫌い)だが、そう語りたくなってしまうぐらいに哀しくなった。たった数行の言葉によって僕は苛立ち、そして一気に哀れみに変わる。

ここまで説明しなきゃダメかね?


早急に答えを求めすぎだなとも思う。

こういう書き方をされると、「いや、こいつ僕が案内した方法試したのかな?」と疑念を抱く。そしてそう考えるとやはり、自分でこねくり回すことが今の人たち、若い人たちは本当に出来ないのかなと僕の想像力を使って想像せざるを得ない。無論、皆が皆という訳では決してない。与えられたことに対して、「ああでもない」「こうでもない」と考えることせずに早急に解決しなければならないみたいな感じである。

とこれを書いていて、『名探偵コナン』が思い出される。

あれも物語の構造的にはある意味でお決まりのパターンだけれども、解決までには物語上ではかなり早い傾向にある。アニメの場合は特にそんな感じがするんだよな…。だって、30分で解決するなんて早すぎない?解決するまでの遠回りが愉しいんであって、いきなり開始5秒ぐらいで「こいつが犯人です」とか言われても面白くないでしょう。それが例えば『古畑任三郎』や『刑事コロンボ』みたいな感じだったらまた別だよ。最初に犯人を提示しておいて、解決するまでの道筋を辿っていく。その遠回りが面白いんじゃない。

だけれども、今の人たちは答えが何であるかをすぐ知りたがる。

試すことをしない。検証することをしない。だって面倒だから。そんな馬鹿な話があってたまるか。コナン君でさえ虚構の時間の中で遠回りしてるのに?見ている側が早急に答えを求めるなんて愚の骨頂でしかないでしょう。まあ、別に良いんだけどね。僕はそう考えているって話だし、強要するつもりも微塵もないし…。ただ僕が勝手に憂いているだけなんだから。

僕がここでやいのやいの書いたところで何も変わりはせず、ただこの結果を早急に求める社会は無関係に進んで行くのだから。僕は宙吊りに耐えられる人間で居たいから。とこう書いても若い人は長い文章を読むことすら苦痛でしかないのだから、どうここで「こうした方が良い」「ああした方が良い」と書いたところで、そもそも長い文章を読まれる訳など無いのだから。

あゝ、何と哀しき時代哉。


結局送られてきた「〇〇」については情報が間違っていた為、再度「〇〇」を教えてくれというメールを再び送ることになったのだが、その際には「このメールに返信する形で送ってください」という1文を渋々添えた。「アホらし…」と思いながらタイピングをする。

少なくとも僕は想像力を豊かにし続けようと心の底から思った。

そう考えると、この人物のメールは僕にそれを気付かせてくれた点に於いては感謝せねばならない。

「ありがとう、この哀しき想像力のない怪物よ」

僕はメールを送信し、これから来る社員の皆さんを迎えた。

「おはざーす」

よしなに。



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