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雑感記録(350)

【ぼくのなつやすみ1】


僕は9月14日から9月23日まで夏休みを貰った。

久々に充実した夏休みを過ごせた気がする。それは純粋にこれまでの自分と比較して活動的な夏休みであったからである。以前の記録で少しちょっと触れたのだが、これまでの僕は夏休みを貰ってもその殆どはクーラーの効いた自室に籠って映画を見たり、本を読んだり、車で近場にドライブしに行ったりで自分自身を中心としたおよそ半径2メートルぐらいの世界で過ごしていた。それはそれで充実していた訳だが、しかしどこかダラダラしてしまって逆に疲弊してしまうことが多かったように思える。

ところが、今年の夏休みは打って変わって珍しく活動的であった。そして学びと喜びと実りあることが多かった夏休みでもあった。これから書き記す『ぼくのなつやすみ』はその断片と出来事を記憶に留めるべく書き出す記録である。少々時間が経過していることもあり、些かの記憶のすれ違いなども出てくるかもしれないだろうが、それもそれで僕の記憶である。言葉は言葉を呼ぶ。それが何処へ向かうかは僕の知る由ではない。


 ぼくの真実に近づくために、ぼくには直観および言語という貧しい道具しか持ち合わせがない。だがある程度は、これらの道具でぼくにとっては十分なのだ。確実性におけるそれらの貧しさは、偶然性における豊かさである。ぼくはぼく個人として語るべきではない。ぼくの中にいる他者たち、がらくた=他者、物体=他者たちを語るがままにすべきなのだ。ぼくの道具が合理的でないにしても、少なくともそれらが与えてくれる感動のおかげで、ぼくはぼくの意識の未知の領域を、これは半ばは喜び、半ばは苦労なのだが、ジグザグに進むことができる。人は知を持つと同時に強くあることはできない。ぼくはといえば、弱さを、眼差と言葉の孤、甘美なる埋没、滅亡の豊穣さを選びとる。ぼくは、矛盾するという危険、そして示すべきいかなる規範を持たないという危険に晒されている。けれどもぼくはそこにこそ何かが強烈に生き、うごめき、膨張していると感ずる。

豊崎光一訳 ル・クレジオ「無限に中ぐらいのもの」
『物質的恍惚』(新潮社 1970年)P.96

9月17日から18日の両日で僕は熱海へ旅行してきた。

自分事で恐縮だが、9月17日は僕の誕生日であり、いつもは自分自身への誕生日プレゼントとして少しばかしの本を購入していた。何だか自分自身に毎年誕生日プレゼントを贈るというのは変な話ではある訳だが、自分自身を労わる機会など早々ないものである。こういう時ぐらいは自分に甘々で居たいものである。自分の機嫌は自分で取るということは大切であると年齢を重ねるごとに感じるところではある。

熱海まで新幹線で行こうかと思った訳だが、時間もあるのでゆっくり行こうと思い鈍行で20駅のんびり電車に揺られることにした。平日の日中は有難いことに電車は空いていてボックスシートに座ることが出来た。流れる景色を眺めながら電車に揺られる。電車で様々なことを話していたのだが、一体何を話したか今となっては定かではない。ただそこにある愉しい空間だけの肌感と多幸感だけは身体の記憶として保持している。

熱海駅の手前である小田原で降りることにした。

僕は滅多に遠出などしないのだから、小田原に来ることさえ初めてである。名前だけは知っているけど、その実何があるのかよく分かっていないという状態である。過去に来たことがあるとのことで、僕はいそいそとついて行く。近くに小田原城があるとのことで、太陽の陽射しが照り付ける中歩いて行く。見知らぬ場所での散歩というのは愉しいものである。見知らぬ景色、見知らぬ匂い、そういったものが押し寄せてくる。

小田原城からの眺望

海が近くにある。広大な海。僕は心臓がバクバクする。僕は元々海がない県で育ったものだから、海のような広大なものを眼にすると凄いとか美しいよりも「怖い」という気持ちが先行してしまう。何か今にも飲み込まれてしまいそうで、先が見えない。目に見えないものに恐怖する。そういうことがしばしばある訳だが、海は違う。目には見えているのに恐怖を感じる。何故だろうと考えてしまう。

小田原城で景色を眺めた後、お腹が空いたので駅周辺を散策して練り物を食べることにした。小田原といえば練り物というイメジがどうやらあるらしい。確かに少し歩けば大きな看板で「かまぼこ」とデカデカとある訳で、これは食べない訳にはいかない。

これがまあ美味しくて、美味しくて。やはり地産地消という訳ではないが、本場で食べるものは美味い。魚も美味しいし、練り物も美味しいし。その土地でしか味わえないものを食べることは幸せである。旅行の醍醐味というのはこういう所にあるのだなと発見することが出来た。僕はあまり食に対して拘りがない人間だった訳だが、1度こういう経験をすると食を愉しむことも大切なんだなと気付かされる訳だ。


小田原を後にし、いよいよ熱海に着く。

熱海の海

熱海駅から歩いて海を目指す。その道中は観光客の波にさらわれながら歩いて行く訳だ。最近、どうやら人気らしい「熱海プリン」とかいうお店の前には大行列が出来ている。そしてそのお店から離れた空き地みたいな場所に第2待機所みたいなものが設置されており、そこにも人がギュウギュウに並んでいる。僕はそれを見ながら若干辟易としたものだが、「その土地でしか食べられない」という限定性があると並ぶのだろうと、少しばかし気持ちが分かるような分からないような。僕にはプッチンプリンで十分だ。

人混みを掻き分け、しばらくすると人っ子1人いない細い路地を歩いている。1本道を逸れるだけでここまで人がいないものなんだなと急に面白くなる。建物と建物の隙間からちらちらと海が見え隠れする。何だか海に弄ばれているような気がした。何となくだけれども、「チラリズム」と俗に言われるものの誘惑性というものが分かるような気がした。海はエロスそのものではないのかと馬鹿げたことを考えてしまう。

広大な海が眼前に現れる。

まだ暑い日だったので、海水浴を愉しむ人々が沢山いた。僕は海に近づく。波の音、潮風の匂い。全てが今まであまり経験してこなかったものである。いや、経験していたが忘れかけていたものだった。砂浜をのんびり歩く。ただ何も考えずに、一緒に歩く。僕はスマホを構えて写真を撮る。頬が熱くなるのが分かる。身体の奥底からやって来る熱狂みたいなものが沸々としてくる。ああいう感情は初めてだった。

しばらく砂浜を歩き宿に向かう途中、傍の遊歩道を歩いた。

ジャカランダの木

世界三大花木のうちの1つらしい。僕は植物に関して聡くはないし、自分で育てている訳ではないのでよく分からない。ただ隣でしきりに興奮しているものだから、「これはただの木じゃないんだな」ということだけが僕の中で膨らんでいき、ゆっくり歩きながらジャカランダの木を眺める。所々に花が咲いている。それを見付け更に興奮する。

調べてみるとジャカランダの開花時期というのは5月から6月らしい。ということは9月は開花時期からはおよそ3,4ヶ月ズレていることになる。この時期は通常見られないのだ。見られないと思っていたものが、思いがけず見られるということは、それは確かに興奮するものである。過ぎ去った後で興奮の理由の一端を知る訳だが、果たしてそれだけが理由なのだろうかと今も写真を見返すたびに考えてしまう。

そして歩き続けしばらくして、『金色夜叉』の銅像を見付ける。

『金色夜叉』は大学以来、読み返していない。だからストーリーなどに関しては不正確な部分が沢山ある訳で、この場面ぐらいしか記憶にない。それと僕はあまり尾崎紅葉を通って来なかった訳で、その門下生の作品はよく触れていたのでそちらの記憶の方が強い。これは余談になる訳だが、『続 金色夜叉』は門下生の小栗風葉が完成させたことで知られている。全くおかしな話である訳だ。

過去に僕は小栗風葉の文体についてあれやこれやとあること無いこと様々に書いた。それについては以下の記録を参照されたい。

この記録にもある通り、小栗風葉は生涯に渡って様々な文体で書いている訳だ。最終的に自然主義文学的な文体に落ち着いて行くことになる訳だが、初期の小栗風葉は擬古体と呼ばれるような、所謂井原西鶴的且つ尾崎紅葉的な文体で作品を描いている訳である。面白い作家だなと個人的には思う。それらの詳細な検討についてはやはりこの記録を読まれる方が良いだろう。

そんなことを考えながら写真を撮る。「『金色夜叉』の舞台って熱海だったんだな」と思った。作家というのは温泉とゆかりがある。湯治などと言われるように作家は温泉宿などを転々としている傾向にある気がしている。僕の地元でも太宰治ゆかりの温泉宿とか温泉とか、そういったものが点在している。それに作品としても明治期あたりでは主人公が温泉宿に居てという所から始まる作品もそれなりに散見される。

個人的には志賀直哉の『城之崎にて』とか、夏目漱石の『草枕』などが思い出されるのだが、探せば様々なそういう作品はあるだろう。そういう視点で文学を語ることも面白いのかもしれないなと思ってみたりもする。あるいは旅行と文学みたいな点で考えてみても面白そうなテーマかもしれない。そんなことを考えながら銅像を眺める。

写真を数枚撮り、宿に向かうことにした。


宿は山の中腹にあるとのことで、熱海駅からタクシーを使って行った。

タクシーの運転手と他愛のない話をする。おじいちゃん運転手だったのでここら辺には詳しいだろうと思ってお土産どこで買う方が良いかとか、何かいいお店がないかとか様々に話を聞いた。しかし、面白いもので「熱海駅のビルに行けば大抵お土産は揃うから、そこで買った方が良いよ。」と言われた。なるほど、確かにそれはそうだと思いながら笑った。

宿に向かう途中に來宮神社の傍を通った。タクシーの運転手のおじいちゃんは「ここの神社は有名でね。樹齢2,000年の大楠があって。凄く有名なんですよ。」と言っていた。2人で顔を見合わせて「樹齢2,000年って凄いよね」と笑った。「何のご利益があるですか?」と僕はおじいちゃんに聞いた。するとおじいちゃんは「なんでもですよ」と答えた。僕はスマホで調べた。

大概神社などある特定の事物に対するものが祭られていて、それに特化したご利益があるものだ。例えば太宰府天満宮などは学問の神様が祭られている訳で、それに特化したご利益があるように思われる。來宮神社もそういったものなのかなと調べて見たら、確かにおじいちゃんが言ったように殆ど全てを網羅している訳だ。僕は思わず笑った。随分と太っ腹な神様で有難いなと思った。「ぜひ行ってみてください」とおじいちゃんは締めくくる。

宿につきチェックイン。僕は誕生日だから豪勢にしようと思って露天風呂付の部屋を取っていた。部屋に向かい荷物を下ろし、浴衣に着替える。食事まで時間があるので早速に露天風呂に入ることにした。確かに、山の中腹ということもあって露天風呂から眺める景色は美しかった。熱海の海を眺望することが出来たのである。温泉は気持ちが良いものである。

しばらくして食事の時間になったので階下の食事場所に向かった。豪勢な食事が並び、自分自身でこんな贅沢良いのかなと思ってしまった訳だが、たまの贅沢だし愉しいから良いかとご飯にがっつく。午前中の出来事などについて他愛のない話をしながら食事をする。こういう時間はやはり幸せな時間である。来てよかったなあと改めて思う。

食事を終え、しばし休憩した後に露天風呂に再度浸かる。9月17日はちょうど十五夜であった。温泉から月が見える。海を照らし出しだしている。この姿は幻想的であった。露天風呂に電気が備え付けてあった訳だが、敢えて電気を付けずただ月明りを頼りに風呂に浸かる。

「月がこんなに明るいって初めて知った」

僕の傍でそう呟く。僕には一篇の詩が頭を過る。

*43

 あふれた空の光を
 雲がそこここであつめていた
 風が耳打ちすると
 ふと大きな不在が目をさます

 ふり向くと人がいる
 私は言葉をそつと置き去りにする
 人がそれらに礼儀正しい
 私は椅子のように世界に腰かける

 地の物音を
 人人が拾い集める
 だが私を納得させるどんなひそかな呟きもない

 むしろ私を知らぬものたちの間で
 私は時折風のような幸せに気づく
 その時私は帰つてきている

谷川俊太郎「あふれた空の光を」
『谷川俊太郎詩集』(思潮社 1965年)P.266,267

月を眺め、他愛のない話をする。こういう時間が愛おしく感じられた。言葉は表層を滑る。話しても話してもどこか滑って行く感覚。そして月を目の前にして僕の語ることの全てが無力化される。そんな感覚である。しかし、それが頗る居心地がいい。言葉は意味を持たず飾りとして、この空間を滑らかに滑って行くのである。

僕は常々「言葉で語ることが全てではない」ということを過去の記録などでちょこちょこ書いている訳だが、これ程までに肌感を持ってやってきたのは初めてである。形としての言葉が空間を漂い、その空間の装飾としての言葉が目まぐるしく動く。だけれども月はそれさえも暴き出してしまう。そのぐらい明るい月夜だった。僕が何を話しても全て見透かされているような、そんな心持がした。

時折風が吹き、ただその美しさを前に沈黙だけがある。

こうした壮大な自然を目の前にして言葉が如何に無力であるかということを知った。言葉で創出する世界は結局、模倣でしかない。三島由紀夫は「コピーそのものがオリジナルになる」と『文化防衛論』で書いている訳だが、しかし自然を目の前にしてそれを声を大にして言えるのだろうかと僕は感じた。少なくとも僕はこの月を、月明りを目の前にして語ることが如何に無力であるかを知った。僕は先に風呂からあがって煙草を蒸かした。

そうして2人で旅館が用意してくれた大福を頬張る。


翌日、朝から再び露天風呂に浸かる。

空には雲1つない。今度は太陽が海を照らす。昨日の月あかりを見てしまうと太陽のそのあからさまな眩しさに若干の辟易さを感じてしまう。僕は太陽よりも月の方が好きかもしれない。そんなことを考えてしまう。そうだな、やはり僕は月が好きだ。陰翳がある物。やはりそれに僕等日本人は惹かれる部分があるのではなかろうかと考えてしまう。『陰翳礼讃』に引っ張られすぎかもしれないが…。

朝食を済ませ部屋に戻り、チェックアウトの時間までゆったり過ごす。

身支度を整えていると、「來宮神社に寄りたい」と言われた。確かに樹齢2,000年の大楠を見たいというのもあった。しかし、地図的に遠いこともあってどうしたものかなと最初僕は少しばかし渋った訳だが、こういう時は「行きたい」という素直な直感に従うものである。タクシーを呼び、熱海駅に戻る途中で來宮神社に寄ることにした。チェックアウトを済まし、タクシーに乗り込む。

來宮神社の大楠

樹齢2,000年ともなると凄いものである。この木の荘厳さとでもいうのだろうか。僕は思わず圧倒されてしまう。この木は1つの宇宙であり、1つの惑星であると僕は感じた。それと同時に再び一篇の詩が頭を過る。

*60

 さながら風が木の葉をそよがすように
 世界が私の心を波立たせる
 時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも
 私の心は正しく名づけられない

 休みなく動きながら世界はひろがつている
 私はいつも世界に追いつけず
 夕暮や雨や巻雲の中に
 自らの心を探し続ける

 だが時折私も世界に叶う
 風に陽差に四季のめぐりに
 私は身をゆだねる―

 —私は世界になる
 そして愛のために歌を失う
 だが 私は悔いない

谷川俊太郎「さながら風が木の葉をそよがすように」
『谷川俊太郎詩集』(思潮社 1965年)P.302,303

境内の中を歩くと、何だか整備された境内で、カフェが併設されていた。僕はそれに驚きを隠せなかった。今どきの神社だなと思いながら満喫した。僕等はお参りをした後、境内から少し離れたところにあった売店でソフトクリームを買い、木陰で休みながら味わう。これがまた美味であった。

境内を散策しながら大楠の自然を感じた後、僕等は熱海駅に戻りお土産を見て回ることにした。前日のタクシーのおじいちゃんが言っていた通り、駅ビルには様々なお土産屋さんあった。そこで数個見繕い購入することにし、お昼ご飯を食べに帰り道中も兼ね、真鶴へ向かった。


真鶴駅へ降り立ち、何だか僕は親近感が湧く。

駅を降りたらば、言い方は些か悪い訳だが、お店も殆どない。地元の甲府駅でさえお店は色々とある訳だが、それ以上に何もない。だがどこか落ち着く。訪れたことがない場所なのにどこか既視感を感じてしまったのである。良い場所だなと何となく思った。

東京に居ると街自体が物に溢れている。豪華絢爛な高い建物が立ち並び、それに囲まれてどこか息苦しさを感じていた。しかし、ここは地元と同じ感じで山々に囲まれている場所だった。唯一異なる点と言えば近くに海があることだ。どことなく吹く風が潮風っぽいのはその為なのだろうと思ってみたりもした。駅近くにあるお寿司屋さんでお昼ご飯を食べる。

海鮮丼

これまた美味である。平日ということもあっただろうか、お客さんは殆どおらずゆっくりとした時間を過ごすことが出来た。食事をした後、暑い日差しが照り付ける中、山道を15分程歩き小さな港へと向かった。食後には良い運動だろうと思ったが暑い。まだまだ夏なんだなと思い知ることとなる。

僕は暑くてもう動くことすらままならなかった。隣では靴を脱ぎ始めている。「ちょっと歩いてくるね」と言い、海に向かって歩いて行く。僕はそれを日傘を差しながら眺める。半ば保護者のような心持でその光景を目に焼き付けた。波打ち際で戯れながら歩き続ける。片手に木の棒、片手に拾った石を手に持ちこちらに歩いてくる。愛おしいと同時に再び一篇の詩が頭を過る。

地球へのピクニック

 ここで一緒になわとびをしよう ここで
 ここで一緒におにぎりを食べよう
 ここでおまえを愛そう
 おまえの眼は空の青をうつし
 おまえの背中はよもぎの緑に染まるだろう
 ここで一緒に星座の名前を覚えよう

 ここにいてすべての遠いものを夢見よう
 ここで潮干狩をしよう
 あけがたの空の海から
 小さなひとでをとつて来よう
 朝御飯にはそれを捨て
 夜をひくにまかせよう

 ここでただいまを云い続けよう
 おまえがお帰りなさいをくり返す間
 ここへ何度でも帰つて来よう
 ここで熱いお茶を飲もう
 ここで一緒に坐つてしばらくの間
 涼しい風に吹かれよう

谷川俊太郎「地球へのピクニック」『愛について』
(巷の人 2003年)P.42

涼しい風が時折吹く。足を砂まみれにさせてこちらに来て、石を積み始める。僕は思わず「三途の川じゃないんだから」と言ってしまったが、それは恐らく僕自身の海に対する無意識的な恐怖から来るものなのではなかったかと思われて仕方がない。海というものは古来より生命の誕生の場所として語られることが多い。

だからこそ、海は美しさの反面でそういう恐ろしさみたいなものもあるのではないかと今更ながらに思う。何かが生まれる場所というのは同時に何かが死ぬ場所でもあるのではないだろうか。何かが始まる時は同時に何かが終る時でもあるのだ。海は「渾然として一」である。そういったものが全て内包されているのだろう。きっと靴を脱いで走り出したのも、海から溢れている生命の機微みたいなものを少なくとも感じ取ったからではないだろうかと僕は推測している。

僕はそういう姿を見ることで間接的に生命の機微を感じ取っていたのかもしれない。そこにある生命の美しさに僕は心酔していた。しばらくして小さな港を後にし、そのまま帰路につくこととなった。


帰りの電車の中で、僕はこれまで見た光景を反芻する。

僕は何か見ると自然と言葉が先行して思い浮かぶことが分かった。様々な景色や光景を見る度に、どこか無意識的に言語化しようとする働きがあるのだなと思った。しかし、月の明かりを見て言葉が如何に自然の前では無力であるかを思い知った訳である。その荘厳さや美しさの前に言葉は形骸化するのである。

だが、ある意味でその形骸化した言葉によってそのものが逆説的に浮かび上がってくるのではないかとも感じた。言葉に出来ない何かを言葉にしようとする営みの中で「言葉が如何に無力であるか」ということを痛感することで、更に言葉に磨きが掛かるのではないか。そういうことを考えてしまった。それで話は戻る訳だが、作家が旅をしながら作品を描くということの本質がどことなくだけれども、その一端を掴めたような気がする。

 生きてあるということ、それはまず何よりも見つめる術を知ることだ。人生が確実なものと感じられない人たちにとって、見つめることは一つの行動である。それは生ける存在の第一の効果的享楽なのだ。彼は生れた。世界は彼のまわりにある。世界は彼である。彼にはそれが見える。彼はそれを見つめる。両眼は動き、一緒に方向づけられ、瞳は物を凝視する。数々の形は存在する。何一つとしてここでは不動ではない。すべてが気違いじみて動いて、動いて、動いている。視線は世界にその動きを与える。世界を組みたてる。角の数々を手さぐりし、数々の線、円味を帯びた線や直線の輪郭を辿る。何かに注がれて、色彩の数々を味わう。赤。白。青。さらにまた青、だがもっとくすんでいる。緑。べつの赤。べつの白。一つとして同じ色はない。あらゆる色が、眼差の一つごとに作られてはこわされる。慣れてしまってはならぬ。しょっちゅう、一つ一つの新しいヴィジョンに茫然とせねばならぬ。

豊崎光一訳 ル・クレジオ「無限に中ぐらいのもの」
『物質的恍惚』(新潮社 1970年)P.102

隣で眠る姿を見つめながら、幸せを噛みしめて帰路につく。また一緒に旅行できると良いなと切に願うものである。

よしなに。


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